第1部ー7

 タケルの嫁の、紀伊きいせいらは、大手音楽教室「紀伊ミュージックサロン」のご令嬢であり、名の知れたピアニストだ。誰もが羨む、人生の当たりくじの一等の当選者と言っても過言ではない。そんな彼女にも、多少の苦労はあったようだ。一時期、過度のストレスにより、ピアノが一切弾けなくなってしまった彼女が、気分転換のために足を踏み入れたライブハウスで出逢ったのがタケルだった。楽しそうに歌うタケルの姿を見た彼女は、元気を貰い、そして、タケルに強く惹かれ、結婚にまで漕ぎつけたのだ。見事、逆玉の輿に乗ったタケルは定職に就かなくとも生活に困ることはないし、タケルにベタ惚れの嫁は、タケルの女性関係についてとやかく言うこともなく、タケルをとことんまで甘やかす。


「ていうか、嫁は、今日、コンサートツアー?」


「いや……今日は、コンサートじゃないんだけど……みんな居ないんだ」

 タケルの表情が曇ったのを見て、唯香は、これ以上問い詰めるのをやめた。タケルは紀伊家の婿養子だ。と言っても、同居はしていない。タケルが、義両親に嫌われているからだ。そもそも結婚自体大反対されていたのだが、せいらが、「タケルさんとの結婚を許してくれないのならば、わたくしは、紀伊家との縁を切ります!」と、脅しをかけたことで、びっくり仰天した、じじ、ばばは、ふたりの結婚を渋々承諾せざるを得なかったのだ。そんなわけで、タケルは、自由な時間と一生お金に困らないという理想の生活を手に入れた代わりに、紀伊家においては、厄介者扱いされているのだ。


「まあ、アンタの家族がどこへ出掛けようと知ったこっちゃないけどさ。アンタ、次の仕事のこととか考えなくていいの? いちおう、二児の父親でしょう? 自分の子どもたちに、かっこいいところ見せようとかって気にはならないわけ?」

「だいじょぶ、だいじょぶ。俺は、彼女らの、反面教師としての父親の役割を立派に果たしているからね。下の娘なんてさ、『ぜったい、パパみたいな男とは結婚しなーい』なんて言っちゃって、しっかりしてるよねえ。たぶん、唯香ちゃんより、男見る目が磨かれる筈だよ。安心、安心!」

 無邪気に笑うタケルを、唯香は心底羨ましく思った。小川美希にしても、タケルにしても、周りの人間の目なんて一切気にせずに、我が道を堂々と突き進むヤツらって、なんだかんだ言って幸せそうに生きているんだよなあと思った。

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