両全の来訪者⑦

 膝に貼り付けた絆創膏を撫でる。時計の秒針ばかりがその存在を主張する会議室では、珊瑚が僅かに身じろぐだけでも、その軋むパイプ椅子に視線が集まった。


「痛みは無いですか、珊瑚さん」


 消毒液を救急箱に入れる瀬川は、そう言って眉を下げた。彼の柔らかな頬に釣られて、珊瑚の頬が緩む。「はい」と言う彼女に、瀬川はパッと明るく返した。


「それでは、僕はこちらで……」


 瀬川は低い腰のまま、扉を押し開けた。

 珊瑚の隣でタオルを被っていた九里香が「ありがとうございました」と頭を下げると、瀬川もまた無言で頭を落とす。

 その彼が開けた扉の向こう、黒い人影が一つ、会議室の中へと足を踏み入れた。


「おう、ガキ共、ここにいたか」

「け、刑事さん?」


 おう。と、短い返事を置いて、榊刑事は扉の前で仰け反った瀬川の肩を掴んだ。そのまま彼を会議室のパイプ椅子の上に置くと、榊刑事は深い溜息を吐いた。

 一秒の無言を挟んで、彼の腰が落ちる。珊瑚へ視線を送る榊刑事の目が細く尖った。


「お嬢ちゃん、その傷は」

「花婿から逃げる際に、階段で転んだんです」


 それより。

 珊瑚の小さな鼻が、榊の前にずいと出る。彼女の小さな奥歯が、ぎりと鳴いた。


「常盤さんの容態は」

「眼球の位置が戻っている状態は確認出来た。今は病院で手当てを受けている。視力が戻るかはわからないが……オオタカの一件でのお嬢ちゃんの傷を見るに、悪化はしないだろう」

「そうですか」


 ホッと、胸を撫で下ろすように、珊瑚は小さく息を吐いた。一方で眉間に寄った皺は、深く刻まれたままだった。


「それで、熱帯魚の水槽を見たが……また殺したのか、坊主」


 立ち上がった榊刑事は、そのまま視線を九里香の頭上に落とした。彼の頭を覆っていたタオルを掴むと、その手を振りほどくようにして、九里香は頭を振った。「えぇ」と短い肯定を置くと、榊刑事は呆れかえったように舌を打った。


「突然出て行って突然戻ってきたかと思えばやんちゃしやがって。花婿が形を保っていなかったんだぞ。どんな力で殴ったんだ」

「あの化け物の身体が肉片になったり膨張しているのは、アイツの正体がウミウシだからです。俺は塩分の無い淡水水槽の中に身体を投げ入れただけです。ナメクジに塩をかけるやつとは逆のことが起きただけですよ」

「そういうことじゃねえよ」


 涼しげな九里香の額に中指を当てると、榊刑事は再び溜息を吐いた。額を抑える九里香を見下ろしたまま、彼は首を振った。


「ウミウシだナメクジだは知らねえけど……お前の身体は大丈夫なのか」

「大丈夫も何も、無傷ですよ。損害は買ったばかりのスマホが水没したくらいです」


 ふと、その九里香の淀みない言葉に、パイプ椅子が大きく軋んだ。彼の肩をそっと撫でた珊瑚は、顎を引き、ジッとその丸い目を上へ向けていた。


「……スマホを買い換えたなど、聞いておりませんが」


 いつもは明るい彼女の口元が、一種の苛立ちを含んだ淀みを吐いていた。

 珊瑚以外の三人は、顔を見合わせると、揃って肩を落とした。


「く、九里香くん。何か、理由があったんですよね」


 慌てる瀬川に、九里香は「はい」と声を張った。

 そのまま、九里香はその視線を珊瑚に向けると、彼はフッと小さく唇で息を吐いた。


「使っていたスマホが盗聴されていたんだ。実家からの連絡で知った。手続きの関係で今月まで城島の方が料金を払ってくれていてな。あっちに支払料金の通知が届いた時、通信量がこの一ヶ月異様に上がっていたのを確認したらしい。高校の頃、教員にストーカーされた時、似たようなことがあったんだ。それで、スマホを買い換えることにした」


 彼が一つ言葉を重ねる度、珊瑚は「はい」と小さく頷いた。それが肯定ではないことは、九里香にも理解出来ていた。


「そのときに大見得切って自分名義でスマホを契約し直したら……電話番号も変わったんだ。それでお前の連絡に気づけなかった……すまん」


 吐いた謝罪を、珊瑚は「そうですか」とだけ置いて、肩を落とした。僅かに緩んだ彼女の口元と重なるように、九里香もまた目尻を落とした。


「じゃあお前、スマホを買い換えるのに実家帰ってただけかよ。なんだ、くらだねえ」


 心配して損した。と、榊刑事は頭を掻き毟る。そんな彼を「まあ、まあ」と宥める瀬川の隣で、九里香は眉間に皺を寄せていた。


「そんなわけないでしょう。他にもしっかり用事は済ませてきましたよ」


 用事。

 そう反芻したのは、珊瑚であった。彼女と再び視線を合わせた九里香は、「良いか」と置いて、小さく息を吸った。


「珊瑚、お前、オオタカの一件の時……なんらかの悪意が動いていると言ったな」

「はい。九里香さんに薬らしきものを盛った人物は確実におりますし……それに確証はありませんが、花嫁花婿の異変が大きいんです。昼間から行動を起こしたり、結婚適齢期ではない人々が襲われていたり……」


 途端、珊瑚は考え込むようにつらつらと舌を回した。滑らかなその舌先を、九里香は止めない。


「なんと言いましょうか、多都川という町の様子が、違う気がするんです。妙に殺気立っているというか……今までの花嫁や花婿達は『権利』を得て、自らの意志で人間を娶ろうとしていました。それが結果的に多都川の神の生贄になっていた。そういった構図でした。ですが、ここ最近は……」


 言葉を選ぶ。その一瞬の隙を、九里香は見逃さなかった。


「その生贄を得るために、花嫁や花婿が無理矢理生み出されている」


 九里香の言葉に、珊瑚が目を丸くする。彼女はぐっと唇を噛むと、僅かに口角を上げて、頷いて見せた。


「そう、その感覚です」


 ハッキリと、輪郭を得た彼女の肯定を、九里香は飲み込んだ。そうして一秒、考えたフリを溜め込むと、再びその薄い唇を開いた。


「神というものを、俺は神話や宗教の観点でしか知り得ない。人間が生きていくために作り出した幻想。今後数十年、数百年で、科学に塗りつぶされ、ただ文化という言葉で飾られるべきもの。俺はそう考えている」


 静かに、九里香は言う。それを浴びる珊瑚に、動揺は無かった。彼女は穏やかに、しかし冷ややかに「はい」とただ頷いた。


「だが、その神というものを得ようと、仕えようと必死になっている奴らが、ここ最近はいるらしい」


 その九里香の言葉へ、真っ先に言葉を返したのは、榊刑事だった。


「夜咲の遺児」


 彼の吐いた単語を、九里香は無言で拾い上げた。首を縦に振る彼に、榊刑事は「そうか」と置いて、再び重い口を開いた。


「その中でも夜咲という血を得られなかった……何れ神に仕える者となるために育てられた者。そいつらが一枚噛んでいるってのは、まあ、考え方として間違い無いだろうな」

「はい。だから、実家……城島家を訪ねることにしました」


 間髪入れずに語る九里香は、そのまま、つらつらと唇を開閉した。


「夜咲家の血を引く俺を、夜咲家を恨み妬み狙う人間だっているはず。しかし城島家は、この歳になるまで、俺を怪異というものに触れさせることも、祓い屋という業界を知らせることもなかった。それらの情報をシャットダウンすることが可能であった……つまり、それなりにこの怪異というものを扱う界隈には影響力がある家なのでしょう。故に、その遺児達の情報を得られると思いました」


 彼の軽やかな唇に、温度は無かった。

 黙り込む榊刑事と瀬川を置いて、一人、珊瑚だけが九里香の肩に身を寄せた。強ばった顔を近づける彼女の問いを、九里香は無言で待っていた。


「それで、その遺児の中で、今の多都川にいらっしゃる方々は、わかりましたか」

「夜咲家が解体されてから既に十年は経っている。保護された家からも離れている奴らが多いからな。成人して自分で名前を変えた奴もいる。流石に現在の所在がわかる奴は少なかった」


 そうですか。

 と、珊瑚がその身を引く。思考に入りかけた彼女を引き留めるようにして、九里香が「だが」と置いた。


「その少ない中に、見知った名前を見た。三人……二人は既に死者、一人は今でも多都川にいて……お前と結婚した後の俺に、自ら接触し、それから起こったあらゆる事件に、直接的ではなくとも、触れている」


 九里香がそう言うと、榊刑事と珊瑚が目を丸くした。持ち上げられた九里香の腕に阻まれて、榊刑事の口が止まる。代わりに、勢いのまま、珊瑚が口を開いた。


「その方のお名前をお伺いしても」


 珊瑚が問う。九里香は、一つの躊躇いも無く、その息で唇を撫でた。


「木葉誠一」


 その名を、珊瑚は知っていた。


 九里香の研究室とアルバイト先の先輩であり、上司。

 珊瑚の友人である姫華の兄。


「木葉先輩は二十年前、夜咲家に拉致された子供の一人だ」


 そう呟く九里香の表情は、動かずとも、ただ、青白く、温度を失っていた。




第五章:孤独の神より〈了〉

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