両全の来訪者⑥
足裏が冷える。
金属を打ち鳴らす靴底には、汗とも海水ともわからぬ水分が満ちていた。
バックヤードを歩き続ける珊瑚には、既に己の現在地など把握出来ていなかった。
――――海水を恐れない。相手の腹を掻き出そうという素振り。おそらくは雌雄同体。
珊瑚のその思考は、全てが背後に迫る「花婿」へと向けられていた。
九里香とよく似た顔の少年。だが、その身を包むのは、ウェディングドレスにも似た、ヴェールのような白い――否、僅かに新緑を思わせる緑色を含んだ布。それらは全てツヤのある粘膜に覆われて、重みを帯びていた。彼がゆっくりと足を前に出す度、塩気を含んだ生臭い香りがした。
その正体を、珊瑚に理解出来ないはずが無かった。
――――正体は、『ウミウシ』……でも。
だが、珊瑚の膨大な知識の中に、その中のより細やかな種を特定する術は無い。
それなりに海には近い多都川という地である。海の生き物の同定に弱いなどということはない。寧ろ、普通の住民よりは、珊瑚も水棲生物の同定知識は持ち合わせている。
――――けれど、でも。でも。
否定が反芻する。
足はすでに縺れ始めていた。走らなければならないほどの速さで追われているわけではない。
だが、早足を繰り返していれば。あるいは、束ねられた筋肉の繊維一本一本が切れ続けていけば、それはいずれ、疲労とはまた異なった痛みとなって、珊瑚を襲う。
剥き出しになった金属の階段の段差を一つ上がる度、息が上がった。
くちゃ。くちゃ。ぷちゃ。
粘液を床に播いて近づく『花婿』は、未だ手の届く範囲にない。
考える猶予はあった。だが一方で、やはり答えを導き出す情報も欠けていた。
幸いなことに、ウミウシというものの移動速度は遅い。
このまま、逃げ出すことも出来る。
一時撤退という案もある。
――――でも、それでは、あの『目』は。
一種の安堵の隙間に、蹲った常盤の姿が映った。
ひとりでに落ちた常盤の眼球。あれが無事、榊の手で保管されているか。
それが、珊瑚にとっての気がかりであった。
油断していた。九里香という人間がどれだけ特殊であったか、珊瑚も忘れかけていた。花嫁を。花婿を。神の分身たる彼ら彼女らを普通の人間が傷つければどうなるか。それは珊瑚自身がよく覚えていた筈だった。
そして、『返ってきた傷』を『無かったこと』とするにはどうすれば良いか。それもまた、珊瑚が最もよく理解していた。
故に、珊瑚は足を止めることも、駆け出すことも出来なかった。一定の距離を保ちながら、思考を巡らせる。持久戦。その三文字は、小柄で肉の薄い珊瑚には適していない三文字であった。
「あ」
と、珊瑚が自らの状況を理解するよりも前に、彼女の滑った足裏は、足下の冷えた空気を蹴り落としていた。
膝が落ちる。腰が、肩が、身体がふわりと宙に浮いた。一秒も満たない内に、肋骨と肘が金属の板の上に打ち付けられた。そのまま重力にしたがって、珊瑚の身体はガタガタと波打ちながら階段を滑り落ちた。
噛み締めた珊瑚の歯茎から、鉄の味がした。
ハッと珊瑚が息をした時、彼女の目に映ったのは、糸を引く薄緑のヴェールであった。
掴んだ金属板に力を入れようとして、再び珊瑚は前に倒れ込む。背を向ける『花婿』は、数センチ前にいた。足を上げようにも、膝を伸ばそうにも、粘液が床から摩擦係数を奪い去る。力の入らない珊瑚の身体は、這うようにしてその場を離れようと藻掻いていた。
『花婿』の背から目線を逸らさない珊瑚は、ゆっくりと、腰を落としたまま水槽の上の金属板の表面を這う。
「…………」
無言の『花婿』の足が止まる。だが、彼が身体をこちらへ向けることは無かった。
珊瑚はそのまま、音を立てずに身を翻した。
立ち上がろうと、鉄の手すりに手をかけた。
やっとのことで顔を上げた。
その珊瑚の目の前にあったのは、九里香と似た、少年の顔であった。
「……ッ……このっ!」
『花婿』が笑う。引き攣った珊瑚の表情を見て、それは確かに笑っていた。
数店舗遅れて、珊瑚は自らの腹に熱と寒気を覚えた。花婿の指先が、下腹部に触れていた。その爪先が、珊瑚の腹を撫でていた。
肉を抉ろうと、珊瑚の腹の皮を掴む。
その、刹那のことであった。
「珊瑚!」
聞き覚えのある声だった。
中性的な、だが芯のある青年の声。己を呼ぶ声。誰よりも遠慮無く、誰よりも意味無く己の名を唱える薄い唇。
「九里香さん」
珊瑚がその名を呼ぶ。九里香の足が、『花婿』の顔面を蹴り上げる。
まるでサッカーボールのように撥ね飛んだその身体は、鉄階段に打ち付けられて静止した。
数秒、まるで何が起きたのかもわからないといったような、無垢な表情で、『花婿』は赤い唇を震わせていた。
「撤退するぞ。客は全員避難し始めている。明日客がいない状態で仕切り直しだ」
その『花婿』の姿を認識した時、九里香はなんの躊躇いも無くそう言って珊瑚を抱え上げた。米の入った袋でも抱きかかえるようにして、珊瑚を肩に置く。そうして彼は足を『花婿』とは反対側へと向けた。
「駄目です! 常盤さんの目が!」
「知るか! 目ん玉飛び出たくらいで人間死にやしねえよ! アイツをどうにかすれば、どうせ元に戻るんだろ!」
だから黙れ。
と、九里香が足を前に出した時、その腕を握る手があった。
「あのまま放置すれば傷が広がり続けます! 四肢の傷ならまだしも、脳に近い眼球では……」
そう唱える珊瑚を抱きかかえたまま、九里香は立ち止まった。数秒息を整える。
背後では、びちゃびちゃと音を立てて、『花婿』が立ち上がろうとしていた。揺れる頭を持ち上げたそれを見て、九里香は小さく舌を打った。
「なら少し距離を取るぞ。どちらにせよ息を整えろ。落ち着け」
頷いた珊瑚の表情を見て、彼はフッと息を吸った。
次の瞬間、九里香の爪先が軽やかに跳ねた。ゆっくりとこちらを追いかける『花婿』を確認すると、二人はそのまま金属の板を進んだ。
冷えた湿り気のある空気の中を、数分走り続けた頃。珊瑚の鼻腔に、生臭い沼のような、植物の青臭さに満ちた水の匂いが入り込む。
彼女がウッと顔を顰めると、そこでようやく、九里香が重い口を開けた。
「珊瑚」
はい。
と、珊瑚は答えた。すると、九里香は彼女の足を床に置いた。
両足で立つ珊瑚と視線を合わせて、彼は床で膝を冷やした。
「アイツの赤い唇、お前にも見えていたか」
「はい」
間髪入れずに、珊瑚は頷く。すると、九里香は一秒の思考を置いて、ハッと小さく息を吐いた。
「なら、あれはキスマークミドリガイだ」
キスマークミドリガイ。
珊瑚は唇でその名を反芻する。彼女が知る『ウミウシ』と呼ばれる生き物の中に、それは存在しなかった。
「ロビーの企画展を見なかったか。水棲生物の『性』に関する企画展示だ」
珊瑚が首を横に振ると、九里香は「そうか」とだけ置いて、再び口を開いた。
「有性生物と無性生物、性転換……特に雌雄同体についての展示が軸らしい。ウミウシやらカタツムリは雌雄同体の代表的な生物として複数種展示されていた」
彼はそう語りつつ、着込んでいたジャケットを脱ぐと、珊瑚の身体に被せた。
血液に滲む彼女の膝を覆うようにして、ハンカチできつく縛り上げる。
一連の動作をジッと見ていた珊瑚は、何も言わずに彼の言葉を浴び続けた。
「そこにキスマークミドリガイの展示があった。背中の赤い唇のような模様が特徴で、全体的に緑がかった身体をしているウミウシだ」
「すみません、私も見ていたはずなのに……気が付きませんでした」
「見られるわけがないだろ。一センチあるかないか程度の大きさで、藻類に紛れ込んでいたんだ」
「でも」
「花嫁たちの姿を探しているお前に見る余裕なんてあるはずがない。しかも、もっと南方が原産で、以前はこの水族館でも、大学でも飼育されていなかった種だ。俺もここで初めて見た。名前を知ったのも今日が初めてだ。おそらく企画展にあわせて入ってきたんだろう。それなのに、お前があの種の名前を思い起こすことなんて出来る筈がない」
淡々とした九里香の言葉に、熱は無かった。だが、冷ややかとも言えない。その温度のない声色は、子どもを撫でる母親の冷えた手のようだった。
「九里香さん」
珊瑚の口元がほころぶ。その顔を見下ろしながら、九里香は立ち上がった。
「助かりました」
「そりゃどうも」
顔を逸らした九里香の横顔は、口角が上がっていた。
そんな彼の顔を見上げる珊瑚が、眉を下げると、九里香もまたその眉を顰めた。
「でも、その、九里香さん、何故急に、家を」
珊瑚が問う。だが、九里香は溜息を吐くばかりだった。
「その話、今じゃないと駄目か?」
そう呟く九里香の視線は、珊瑚の背後を見ていた。
彼の視線の先に立っているものを、珊瑚も理解していた。
「いいえ」
珊瑚の口元から表情が消える。身を翻す。丸い爛々とした瞳が、その『花婿』を写した。
乱れた肉で、辛うじて形成された顔面。青白い粘液に染まったそれは、赤い唇だけがワナワナと震えていた。声はない。だが、パクパクと動く口元が、何か罵倒じみたことを吐いているのだろうということは、珊瑚にも理解出来た。
「後ほど、ゆっくりお聞きします」
珊瑚はそう言って、九里香に背を預けた。視線をただ、真っ直ぐに『花婿』へと向けた。
その背に、そっと九里香の手が触れた。
息を吸う。二人は同じだけの酸素で、肺を満たしていた。
「私はその名を知っている――――」
珊瑚の桃色に染まった唇が華やかに開く。
「その身は海を這う者。産み、産ませる者。熱帯びた海に抱かれる者」
脳髄の奥から湧き出すその言葉を、彼女は口に紡ぐ。
目の前で『花婿』がその足を前に出そうとも、珊瑚の言葉は止まることを知らなかった。
「その身は『ウミウシ』と呼ぶモノ」
瞬きの無い彼女の視界は、広くその『ウミウシ』を捉えていた。
赤い唇が開かれる。その口の中には、白い歯が何重にも重なっていた。舌は無く、全てをこそぎとるための、ヤスリと同じ口。
その口をジッと見て、珊瑚はフッと口角を上げた。
「その御名は――――キスマークミドリガイ。南方より来る両全の来訪者」
その唱える口元に一種の嘲笑があったことは、九里香だけが理解していた。
花婿が、一匹のウミウシの姿が、崩れる。
その、筈だった。
「え……」
珊瑚は口を開いたまま、その身を仰け反らせた。
眼前に迫った『花婿』はなんの変化も無く、珊瑚を笑っていた。
己の身体に走らぬ痛みに首を傾げようとも、その隙すら与えられず、『花婿』は珊瑚の腹に腕を伸ばす。
その腕を叩き割るように、珊瑚の背からもう一本の腕が伸びる。
「九里香さん!」
一人の男の名を唱える。
呼ばれた男は、表情の無い顔で、己の妻に手を伸ばす『男』の顔を掴む。
「悪いな、最終手段だ」
冷気を帯びた口で、彼はそう言った。すかさずその手に握った、己と同じ顔を、まるでドッジボールの球でも投げつけるかのように天へと打ち上げた。
宙に舞った薄緑色のヴェールを掴み、九里香は手すりへと足をかけた。
「……同じ面しやがって」
気色悪いんだよ。
そう唾棄したのは、九里香か、『花婿』か、そのどちらであるかは、九里香本人にはわからなかった。
同じ顔が重なる。水冠が浮かんだ。
「九里香さん!」
珊瑚が、手すりから身を乗り出した。彼女の口は、塩味を感じることは無かった。
数秒、水面が揺れた。そうして、暫くの静寂がその場を包む。水が流れる音だけが響いた。
「九里香さん」
名を呼ぶ。だが、それに応える者はいない。
数秒が経った。ふわりと浮いた黒い頭髪を見て、珊瑚は息を飲んだ。
また数秒をかけて、その髪の束が水に溶けていく。繊維状に散っていく肉の束は、水を含んで、水流の渦へと飲み込まれていく。時折、その肉を啄む巨大な淡水魚を見る。その巨体は、成人男性のそれとそう変わらない。
珊瑚は色とりどりの魚の中に、九里香を探した。すーっと泳ぐそれらの中に、彼はいない。
「珊瑚さん!」
ふと、珊瑚が目を上げると、金属板の上を走る瀬川の姿があった。
彼は一人、口元へトランシーバーのマイクを近づけると、「珊瑚さんいました!」と何処か――――おそらくは榊へと言葉を送った。
「瀬川さん」
「大丈夫ですか。血が出ていますが。花婿は」
膝をつく珊瑚の肩を持って、瀬川は眉を下げた。
「九里香さんが上がってこないんです! 花婿を殺してから! きっと、きっと……水槽の何処かに引っかかって……!」
捲し立てる珊瑚に、瀬川は「落ち着いてください」と声を震わせる。彼は珊瑚の肩を掴んだまま、その目を水面へと移した。舞う肉をジッと見つめると、瀬川の身体が静止する。
その瀬川の様子に、珊瑚もすぐ違和感を覚えた。彼と同じ方向へ視線を送る。
ぼこり。
気泡が割れる。その下から、艶やかな黒髪が、ゆっくりと水面へ近づいた。
「あー、クソッ。見つからねえ」
そう吐いて顔を上げたのは、九里香だった。彼は黒い真珠のような瞳に瀬川と珊瑚を写すと、フッと息を吐いた。
「……あー……瀬川さん、すみません……スマホ落としたんですけど……清掃の時に探しておいてもらって良いですか?」
苦く笑う彼は、なんの躊躇いも無く身体を水槽から出すと、濡れたシャツの裾を絞った。
「……九里香さん?」
珊瑚が一つ、その名を呼んだ。九里香の肩が、ビクリと持ち上がる。
「……スマホを探されていらっしゃったんですね」
「そうだ。何をそんなっ……いや、はい……そうです」
「私が何度かけても繋がらなかったスマホを」
「……はい……いや、でも、それにもワケがあってな」
背を向けていた九里香の視線が、珊瑚へと向いた。その瞬間、彼の膝は滑らかに床に着いた。
「……すまん」
九里香はそう呟いて、背を丸めた。
そんな彼を、珊瑚は冷えた視線のまま「構いませんよ」と笑った。
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