志望校

鳥海 摩耶

志望校

「ねぇねぇ知ってる?」


 後ろの席から身を乗り出して、彩月さつきがスマホを見せる。


ぼう緑色の犬の真似?」


「何それ?」


 彩月さつきが真顔で逆に聞く。あの犬知らないのかよ。


「まあいいわ」


 私のあきらめに気づかないのか、彩月さつきはそのまま話を進める。


「受験まで、あと400日なんだよ」


「知ってる」


 スマホの画面には、大手予備校のホームページが開かれている。真ん中には共通テストの日付と共に、あと何日かカウントダウンが表示されている。


 12月らしさを出したいのか、サンタとトナカイが鉛筆と赤本を誇らしげに掲げている。クリスマスプレゼントだとしたら、嫌だなあ。


「もう400日じゃん! ってならない?」


「ならない」


「えぇーっ」


 大仰おおぎょうな驚きを見せた後、彩月さつきはケタケタ笑い出した。騒がしいやつだ。


 そんな彩月さつきを放置し、私は前に向き直る。お弁当の卵焼きをかじったところで彩月さつきが指でちょんちょんしてきたのだ。


 まだおかずは残ってるし、五時間目の英語の予習をしなければならない。卵焼きの残りとほうれん草を一緒に口に放りこむ。


 モグモグしながら教室を軽く見回すと、英単語帳を開いて赤シートをかぶせている田中たなかさんが目に入った。ノートに答えを書いているようだ。真っ黒の前髪をきちんと切り揃え、銀色フレームの眼鏡からのぞく横目は、真剣そのものだ。


 真面目ちゃんだなあ、といつも思う。けれどおかしなことに、田中たなかさんの成績は特別良いわけではない。だいたい真ん中くらいをさまよっている。


 私の後ろでキャッキャしてる彩月さつきがトップなのだから、よくわからない。ちなみに私は下から数えたほうが早い。


 成績トップの彩月さつきは自分を謙遜けんそんすることも、他人を見下すこともしない。どこまでも素直で、平等に接する。


 さっきの会話だって、普通の人なら「嫌みかよ」って思ってしまうと思う。でも彩月さつきは純粋におしゃべりしているだけだとわかっているから、こちらも素直に接してしまう。


 そんな性格にこの明るさなので、彩月さつきはクラスで一目置かれていた。


「そういや、彩月さつきは第一志望どこなの?」


 おかずを食べ終わったので聞いてみる。彩月さつきはうーんと一瞬考えて、


「T大かなあ」


 と呟いた。マジかと思うと同時に、彩月さつきならそうだよなとも思う。


 彼女の学力なら十分狙える。私にとっては一生縁がないであろう大学だ。模試に大学名を書いても、E判定から上がることはないだろう。


弥生やよいはどこ受けるの?」


 彩月さつきに聞いた時点で予想していた返しを受ける。答えは決まっている。


「とりあえずM大かな」


 中堅。中難易度。


 このクラスの「普通」に当たる。学校内では「中の上」。このクラスの基準は、他のクラスよりワンランク上だ。つまり、このクラスにいる時点でエリートという扱い。


 でも、エリートの中にも上下はある。私は他のクラスならトップになれるはずだけど、このクラスでは落ちこぼれ。彩月さつきみたいな化物は、この世界にいくらでもいる。


「へえ。あそこか。いいじゃん」


 彩月さつきがにへらっと笑顔を見せる。


「文学部のK教授っているじゃん? 最近表彰されてたね」


「そういや、そうだったね」


 実は全く知らない。自分が受けようと思っている大学のことを知らないなんて、本来はいけないことなのかも。だけど、私にとってはM大はあくまで基準でしかない。私は「普通」の大学に行ければそれでいい。


 そこでちらっと時計を見る。休み時間は半分以上終わっている。予習する時間あるかなあ。


 あ。良いこと思い付いた。


彩月さつきって、英語の予習した?」


 尋ねると、当たり前の顔をして頷いた。チャーンス。


「ごめん。ちょっと見せてくれない?」


「いいよー」


 さっきは鬱陶うっとうしく思ってごめん。そう救世主に謝り、ノートを見せてもらう。これで次の時間はなんとかなりそうだ。


 彩月さつきのおかげで英語の授業を切り抜けた。出席番号順に当てられるから、自分がいつ当たるかは予想できる。


 和訳問題わやくもんだいは授業中に若干じゃっかん表現を変えておいた。あんまり似てるとバレちゃうし。そうやってちょっとズルをして、私は毎日をやり過ごす。


 七時間目まである授業に耐えて、単語テスト付きのホームルームが終われば、やっと自由だ。




「あー疲れた」


「いっつも言ってんじゃん」


 彩月さつき茶化ちゃかしてくる。実際言ってるし反論はしない。


「まあねー」


 彩月さつきはこの後予備校に行く。毎日よく通えるものだと感心してしまう。特にこの寒さの中では。


 手持ち無沙汰ぶさたに、スマホを取り出す。液晶が点灯して、時間の下に小さく曜日が表示される。今週まだ半分あるんだよな。


 水曜日の疲れ方は嫌な疲れ方だ。


 月曜日は昨日休みだったから仕方ない。火曜日はまだ始まって二日目だ。


 木曜日は六時間目までだし、金曜日は明日半日という高揚こうようがある。土曜日の解放感は言わずもがな。


 それに比べて……。


「水曜日ってめっちゃ疲れる」


 彩月さつき愚痴ぐちをぶつける。すると、彩月さつきは意外にも肯定こうていした。


「わかるー。アタシ、水曜日塾の授業ギチギチなんだよねー」


 ああ、そちらだったか。ちょっとだけ期待してしまった自分がいた。


「あ、そろそろ行かなきゃ」


「もう行くの?」


「ギチギチだって言ったじゃん」


 彩月さつきは首にマフラーを巻き、ひらひらと手を振りながら出ていった。優等生は忙しいな。


 私はどうしよう。


 このまま帰り、さっさと明日の予習をするのが本来やるべきことだ。だけどなあ。


 頭の片隅かたすみでは理解していても、体はぐずぐずして動いてくれない。


 肉体的な疲労は何とも言えない心地良さを私に与えていた。暖房で温まった教室の温度も相まって、ちょっとした極楽ごくらくを感じる。


 しばらくだらだらするのもいいじゃん。


 自分の気分に合わせて、ゆっくり帰ろうと思った。


 ファスナーを閉めかけたかばんを枕にして、机に突っ伏す。ぼんやりした目で周りを眺めていると、田中たなかさんが帰ろうとしていた。


 不意に目が合う。


 田中たなかさんは獲物にされた小動物みたいに、ビクッと固まって動かない。私は向けてしまった視線を外すことができない。


 謎の沈黙は、私がガタッと立ち上がる音で破られた。


「あー、ごめんごめん。田中たなかさん」


 なぜか田中たなかさんを怖がらせてしまった。田中たなかさんはおどおどしながらも、かばんのファスナーを勢いよく閉めた。


「いえ! すみませんっ!」


 そのまま教室を出ていこうとする。


「ちょっと!」


 私の声に田中たなかさんが止まる。私はなるべく優しい声で話した。


「良かったら、一緒に帰らない?」


 あれ、どうして誘っているんだろう。田中たなかさんはもじもじしていたけど、こくりと頷いた。




「寒いねー」


「そうですね……」


 マフラーに首をうずめた私と、ニット帽を被った田中たなかさん。


田中たなかさん、私と帰り道同じだったんだね。知らなかった」


「私も……」


 田中たなかさんはちょっとぎこちない笑顔を向ける。


 私の思い付きで一緒に帰ることになった。巻き込んだことに少しだけ罪悪感を感じる。


「なんかあったかいの買おうか」


 少し先に見えてきたコンビニを指差しながら言うと、田中たなかさんは頷いた。彼女の分も、買ってあげよう。


 ドアが開くと、もわっとした空気が私を包んだ。少しオレンジがかった暖色系の照明と、レジのおでんコーナー。冬だなあと実感する。


「あ、新刊出てる」


 田中たなかさんが奥の雑誌コーナーに向かった。漫画雑誌を手に取り、興味深そうに読んでいる。


「もしかして、田中たなかさん漫画好きなの?」


 田中たなかさんはハッとして雑誌を閉じると、恥ずかしがりながら言った。


「はい……。よく読んでて」


「私もけっこう好きだよ。最近は忙しくて読めてないんだけど」


 ははっと笑うと、田中たなかさんは私もと言ってはにかんだ。教室で見ていた時は気付かなかったけど、笑うと可愛らしい。


 立ち読みしただけで漫画雑誌は二人とも買わず、ざっと店内を歩き回ってホットドリンクの棚の前に来る。


「何する?」


「えーと、これにします」


 田中たなかさんはゆずレモンを手に取る。私はミルクティーにしよっと。


「おごるよ」


「え。そんな、大丈夫です」


「まあまあ」


 田中たなかさんは根負けして、私にゆずレモンを差し出した。押しに弱い所があるのかも。


「ありがとうございます」


 コンビニを出るとすぐに、田中たなかさんがお礼を言ってきた。


「いいよ。私がおごりたかっただけだから」


 私は買ったミルクティーを手のひらで包む。オレンジ色のキャップからあったかいエネルギーが出て、かじかむ手が温まっていく気がする。


 二人で歩道を歩く。四車線の道路はひっきりなしに車が通る。街灯が明るいし店も多いから、夜空はあまり見えない。


 そのうち、大手予備校の校舎が見えてきた。

七階建ての校舎には煌々こうこうと明かりが付いている。あの中では受験生たちが頑張っているのだろう。


「来年は受験かあ」


 予備校の校舎を見ながら、ぽつりと呟いた。


浜部はまべさんは、塾とか行ってるんですか?」


 田中たなかさんが尋ねてくる。


「まだ。行くなら来年からかなあ」


「そうなんですね」


「うん。彩月さつきとかはもうバリバリ行ってるけど、よくやるよねえ」


「頑張ってますよね」


 田中たなかさんは感心するように言った。


 しばらく、無言で歩く。何か話題を作らないと。モヤモヤする中で、思い切って聞いてみることにした。


「そういや、田中たなかさんはどこ目指してるの? 私はM大行きたいなと思ってて」


 田中たなかさんはちょっと考えた後、何か覚悟を決めたような顔になった。


「私、O芸大行きたいんです」


「えっ? 芸大?」


 思わず驚いてしまった。田中たなかさんは困ったような顔をした。


「変……ですよね。進学校にいながら、芸大目指すなんて」


「いや! 全然っ! 立派だと思うよ」


 つくろうように擁護ようごする。見苦しいぞ、私。


「でも、やっぱり行きたいんです」


 そう言う田中たなかさんの目は、真剣だった。


「なんか、芸術系の仕事したいとか?」


 歩みを止めると、田中たなかさんははっきりと言った。


「私、漫画家になりたいんです」


 それは決意表明みたいで、私にはまぶしかった。


「すごいじゃん! 自分で描いたりしてるの?」


「実は、ぼちぼちやってまして」


 田中たなかさんはかばんのファスナーを開けると、一冊のノートを取り出した。


 見せてもらうと、汗を飛ばしながら全力で駆ける陸上選手と、躍動感やくどうかんあふれるレースの光景が飛び込んできた。


 一枚目で圧倒された。描き込みがすさまじい。ページをめくると、次から次へと手に汗握る展開が続く。こんなに上手いとは。


「……すごい」


 感動して素直な感想を述べると、田中たなかさんは恥ずかしそうにノートをしまった。


「まだまだですけどね」


「いや! プロじゃん! 賞とか取れそう」


「プロはもっとすごいですよ」


 ちょっと自慢するように、田中たなかさんは言う。


 漫画を語る田中たなかさんは目がキラキラして、本当に楽しそうだ。


「でも、それなら高校から美術系行くのも良かったんじゃない?」


「私、絵が上手いだけじゃだめだと思ってて」


「そうなの?」


「はい」


 うっすらと星が輝く夜空を見ながら、田中たなかさんは語りだした。


「確かに中学や高校から美術系に行くのは、正解だと思います。実際それでプロになった漫画家も多いですし。でも、それじゃ私が描きたい漫画は描けないと思うんです」 


 ぎゅっとかばんを寄せて、田中たなかさんは続ける。


「進学校に進んだのは、頑張る人を見たかったからなんです。勉強を頑張るって、簡単なことじゃないと思います。それができる人は、きっとどこかで努力している。努力できる人って、すごいなって思います。彩月さつきさんとか」


 彩月さつきの名前が田中たなかさんの口から出てきたのは意外だった。


彩月さつきはすごいからね。あの子は特別だよ。当たり前にできちゃうし」


 私が何気なく言うと、田中たなかさんはかぶりを振った。


彩月さつきさんも、努力してると思いますよ」


 そう言われると、そうなのかもしれない。


 彩月さつきは努力もせずにトップにいると私は思っていた。けれど、毎日放課後に塾に通っているのだ。


 彼女も、絶えず努力しているのではないか? 私よりずっと、田中たなかさんは彩月さつきのことを見ているのかもしれない。


「あと、努力なら、浜部はまべさんもしてると思います」


「そうなの?」


 唐突に自分の話になり、たじろんでしまう。


 私が、努力してる?


 志望校もぼんやりしてて、成績も悪い、やる気もない私が?


「だって、難しい高校入試を突破して、うちの高校にいるんですし」


 田中たなかさんは真面目な顔だ。


 思い返せば、私は高校受験の時は必死だった気がする。きっかけは友達がどんどん成績を伸ばしていったからだけど、そこで努力したのは、他でもない私だ。


「私も一所懸命勉強して、合格しました。浜部はまべさんもそうだと思います」


「確かに、そうだよね」


「そうですよ」


 田中たなかさんは笑顔で言う。


「私、努力は裏切らないって思います。もし結果が付いてこなくても、その努力は必ずかてになると思ってます。私は漫画を通して、努力することのすばらしさを伝えていきたいんです」


「そういう作品を描きたいんだね?」


「はい!」


 明るく返事をする田中たなかさんは、輝いていた。そして、それを見る私もなぜか嬉しい気持ちになった。


 田中たなかさんは自分の夢をまっすぐ見て、まっすぐ努力している。


 それは、彩月さつきも同じ。彼女たちの努力する姿は素晴らしい。けど、私も努力してこの高校に入ったのだ。また努力すればいい。自分なりに精一杯やったなら、悔いはない。


田中たなかさん。ありがとう。私もがんばろって思った」


 それは本心から出た言葉だった。田中たなかさんはうんうんと頷く。


「あっ」


 田中たなかさんがポケットからゆずレモンを取り出す。


「触ってみてください」


 田中たなかさんが笑いながらボトルを差し出す。触ると、中途半端な生温かさが指に伝わってきた。


「冷めちゃったね」


 私のミルクティーも冷めているだろう。けど、それでもいい。


「帰ったら、ミルクティー温め直そうかな」


 そう言うと、田中たなかさんは微笑ほほえんだ。

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志望校 鳥海 摩耶 @tyoukaimaya

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