志望校
鳥海 摩耶
志望校
「ねぇねぇ知ってる?」
後ろの席から身を乗り出して、
「
「何それ?」
「まあいいわ」
私のあきらめに気づかないのか、
「受験まで、あと400日なんだよ」
「知ってる」
スマホの画面には、大手予備校のホームページが開かれている。真ん中には共通テストの日付と共に、あと何日かカウントダウンが表示されている。
12月らしさを出したいのか、サンタとトナカイが鉛筆と赤本を誇らしげに掲げている。クリスマスプレゼントだとしたら、嫌だなあ。
「もう400日じゃん! ってならない?」
「ならない」
「えぇーっ」
そんな
まだおかずは残ってるし、五時間目の英語の予習をしなければならない。卵焼きの残りとほうれん草を一緒に口に放りこむ。
モグモグしながら教室を軽く見回すと、英単語帳を開いて赤シートをかぶせている
真面目ちゃんだなあ、といつも思う。けれどおかしなことに、
私の後ろでキャッキャしてる
成績トップの
さっきの会話だって、普通の人なら「嫌みかよ」って思ってしまうと思う。でも
そんな性格にこの明るさなので、
「そういや、
おかずを食べ終わったので聞いてみる。
「T大かなあ」
と呟いた。マジかと思うと同時に、
彼女の学力なら十分狙える。私にとっては一生縁がないであろう大学だ。模試に大学名を書いても、E判定から上がることはないだろう。
「
「とりあえずM大かな」
中堅。中難易度。
このクラスの「普通」に当たる。学校内では「中の上」。このクラスの基準は、他のクラスよりワンランク上だ。つまり、このクラスにいる時点でエリートという扱い。
でも、エリートの中にも上下はある。私は他のクラスならトップになれるはずだけど、このクラスでは落ちこぼれ。
「へえ。あそこか。いいじゃん」
「文学部のK教授っているじゃん? 最近表彰されてたね」
「そういや、そうだったね」
実は全く知らない。自分が受けようと思っている大学のことを知らないなんて、本来はいけないことなのかも。だけど、私にとってはM大はあくまで基準でしかない。私は「普通」の大学に行ければそれでいい。
そこでちらっと時計を見る。休み時間は半分以上終わっている。予習する時間あるかなあ。
あ。良いこと思い付いた。
「
尋ねると、当たり前の顔をして頷いた。チャーンス。
「ごめん。ちょっと見せてくれない?」
「いいよー」
さっきは
七時間目まである授業に耐えて、単語テスト付きのホームルームが終われば、やっと自由だ。
「あー疲れた」
「いっつも言ってんじゃん」
「まあねー」
手持ち
水曜日の疲れ方は嫌な疲れ方だ。
月曜日は昨日休みだったから仕方ない。火曜日はまだ始まって二日目だ。
木曜日は六時間目までだし、金曜日は明日半日という
それに比べて……。
「水曜日ってめっちゃ疲れる」
「わかるー。アタシ、水曜日塾の授業ギチギチなんだよねー」
ああ、そちらだったか。ちょっとだけ期待してしまった自分がいた。
「あ、そろそろ行かなきゃ」
「もう行くの?」
「ギチギチだって言ったじゃん」
私はどうしよう。
このまま帰り、さっさと明日の予習をするのが本来やるべきことだ。だけどなあ。
頭の
肉体的な疲労は何とも言えない心地良さを私に与えていた。暖房で温まった教室の温度も相まって、ちょっとした
しばらくだらだらするのもいいじゃん。
自分の気分に合わせて、ゆっくり帰ろうと思った。
ファスナーを閉めかけた
不意に目が合う。
謎の沈黙は、私がガタッと立ち上がる音で破られた。
「あー、ごめんごめん。
なぜか
「いえ! すみませんっ!」
そのまま教室を出ていこうとする。
「ちょっと!」
私の声に
「良かったら、一緒に帰らない?」
あれ、どうして誘っているんだろう。
「寒いねー」
「そうですね……」
マフラーに首をうずめた私と、ニット帽を被った
「
「私も……」
私の思い付きで一緒に帰ることになった。巻き込んだことに少しだけ罪悪感を感じる。
「なんかあったかいの買おうか」
少し先に見えてきたコンビニを指差しながら言うと、
ドアが開くと、もわっとした空気が私を包んだ。少しオレンジがかった暖色系の照明と、レジのおでんコーナー。冬だなあと実感する。
「あ、新刊出てる」
「もしかして、
「はい……。よく読んでて」
「私もけっこう好きだよ。最近は忙しくて読めてないんだけど」
ははっと笑うと、
立ち読みしただけで漫画雑誌は二人とも買わず、ざっと店内を歩き回ってホットドリンクの棚の前に来る。
「何する?」
「えーと、これにします」
「おごるよ」
「え。そんな、大丈夫です」
「まあまあ」
「ありがとうございます」
コンビニを出るとすぐに、
「いいよ。私がおごりたかっただけだから」
私は買ったミルクティーを手のひらで包む。オレンジ色のキャップからあったかいエネルギーが出て、かじかむ手が温まっていく気がする。
二人で歩道を歩く。四車線の道路はひっきりなしに車が通る。街灯が明るいし店も多いから、夜空はあまり見えない。
そのうち、大手予備校の校舎が見えてきた。
七階建ての校舎には
「来年は受験かあ」
予備校の校舎を見ながら、ぽつりと呟いた。
「
「まだ。行くなら来年からかなあ」
「そうなんですね」
「うん。
「頑張ってますよね」
しばらく、無言で歩く。何か話題を作らないと。モヤモヤする中で、思い切って聞いてみることにした。
「そういや、
「私、O芸大行きたいんです」
「えっ? 芸大?」
思わず驚いてしまった。
「変……ですよね。進学校にいながら、芸大目指すなんて」
「いや! 全然っ! 立派だと思うよ」
「でも、やっぱり行きたいんです」
そう言う
「なんか、芸術系の仕事したいとか?」
歩みを止めると、
「私、漫画家になりたいんです」
それは決意表明みたいで、私にはまぶしかった。
「すごいじゃん! 自分で描いたりしてるの?」
「実は、ぼちぼちやってまして」
見せてもらうと、汗を飛ばしながら全力で駆ける陸上選手と、
一枚目で圧倒された。描き込みがすさまじい。ページをめくると、次から次へと手に汗握る展開が続く。こんなに上手いとは。
「……すごい」
感動して素直な感想を述べると、
「まだまだですけどね」
「いや! プロじゃん! 賞とか取れそう」
「プロはもっとすごいですよ」
ちょっと自慢するように、
漫画を語る
「でも、それなら高校から美術系行くのも良かったんじゃない?」
「私、絵が上手いだけじゃだめだと思ってて」
「そうなの?」
「はい」
うっすらと星が輝く夜空を見ながら、
「確かに中学や高校から美術系に行くのは、正解だと思います。実際それでプロになった漫画家も多いですし。でも、それじゃ私が描きたい漫画は描けないと思うんです」
ぎゅっと
「進学校に進んだのは、頑張る人を見たかったからなんです。勉強を頑張るって、簡単なことじゃないと思います。それができる人は、きっとどこかで努力している。努力できる人って、すごいなって思います。
「
私が何気なく言うと、
「
そう言われると、そうなのかもしれない。
彼女も、絶えず努力しているのではないか? 私よりずっと、
「あと、努力なら、
「そうなの?」
唐突に自分の話になり、たじろんでしまう。
私が、努力してる?
志望校もぼんやりしてて、成績も悪い、やる気もない私が?
「だって、難しい高校入試を突破して、うちの高校にいるんですし」
思い返せば、私は高校受験の時は必死だった気がする。きっかけは友達がどんどん成績を伸ばしていったからだけど、そこで努力したのは、他でもない私だ。
「私も一所懸命勉強して、合格しました。
「確かに、そうだよね」
「そうですよ」
「私、努力は裏切らないって思います。もし結果が付いてこなくても、その努力は必ず
「そういう作品を描きたいんだね?」
「はい!」
明るく返事をする
それは、
「
それは本心から出た言葉だった。
「あっ」
「触ってみてください」
「冷めちゃったね」
私のミルクティーも冷めているだろう。けど、それでもいい。
「帰ったら、ミルクティー温め直そうかな」
そう言うと、
志望校 鳥海 摩耶 @tyoukaimaya
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