婚活戦線異状あり「私たちお見合い結婚です」
神崎 小太郎
第一話 もう春なのに
加賀百万石の歴史と文化が息づく兼六園。青く澄んだ空の下で、純白の綿帽子に包まれた雪吊りを見ながらひとりで歩く。
金沢の冬の風物詩となる、兼六園の雪吊りは、古式ゆかしい街に溶け込んでいる。
幼いころから、心にぽっかりと穴が空いたみたいになると、私はいつもこの美しい景色に逃げてきた。ここは、自分にとっての安らぎの世界なのだ。
兼六園では、誰にも邪魔されず、自分の想いを静かに整理できる。ここでは、私の存在すら忘れて、ただ自然に心を奪われる。
今、目と鼻先に広がる松は、折れそうな枝に、竹や藁の円錐形の枠で凍り付いた心を守るように、冬囲いがされている。生ある喜びをより色濃く伝える六花が松の枝に光を反射して、まるで宝石のようにキラキラと輝いている。
私は、その魅力的な美しさに言葉を失っていく。眺めているだけで、胸の奥にある傷が少しずつ癒される気がしていた。
✻
私の名前は、一場ゆり子。職場の上司である彼と別れたばかりの女性だ。彼は私を裏切って、後輩の女性と浮気をしていた。そのことを知った私は、悲しみと怒りで髪を切り、長年続けた広告の仕事まで辞めてしまった。
元カレのことを思い出すと、今でも胸が張り裂ける。彼は私を捨てて、職場の若い女性に心を奪われた。しかも相手は私の後輩だ。それは、飼い犬に手をかまれるようなものだった。彼に裏切られたことを許せない。
上司とは、職場恋愛禁止のルールを無視して、人知れず付き合っていた。私にとっての一番魅力的な年齢だったし、恋愛にも大切な時期だった。彼からプロポーズされる夢を見ていたのかもしれない。
しかし、そんな仕打ちを受けた今でも、私はあの男を愛している。あの人の笑顔や声や温もりを忘れられない。恋風が吹くたびに、女としての切なさが心に染みる。
あの人は、私のことを本当に愛してくれていたのだろうか。私たちは、どうしてこんなにも遠く離れてしまったのだろうか……。私は「三十歳までに結婚して子どもを授かりたい」という、ささやかな夢と希望を抱いていた。雪吊りの枝から六花がふわりと舞い降りて、そんな心を慰めてくれた。
我が家は、母さんが金沢のひがし茶屋街で老舗の和菓子屋を営んでいた。それは、亡き祖父の代から引き継いだものだった。私は、家に帰ると、このごろ涙もろくなった彼女が店先で待っていた。母さんは私の顔を覗き込んだ。そして、口を開いた。
「ゆり子、どうしたんや。好きな男でもいるのか」
「少し、放っておいてくれない」
私の心には、母さんの言葉が氷のように突き刺さった。私は素直にその言葉を受け止められなかった。まだ、元カレへの未練が残っていたのだろう。
しかし、母親は私が思いも及ばない提案をしてきた。それは、今どきの恋愛には、少し古風かもしれない、結婚相談所やお見合いの話だった。さらに、最近金沢市が始めた結婚支援プロジェクトのことも教えてくれた。
母さんは、私を居間に誘った。そこで、私の幼い日の思い出を綴るアルバムを開いて見せてくれた。
「ゆり子、お前はね、小さいころから、お父さんと兼六園が大好きだったんだよ。お前にいつか素敵な王子様が現れると言ってたからね。お前は、それを信じてたよ」
私は、父ちゃん子だった。だから、母親の言葉に耳を傾けながら、アルバムの写真を眺めてみた。そこには、私とお父さんの写真がたくさん残されていた。
兼六園で仲良く手をつないで歩いている写真。桜の木の下で笑顔でピースサインをしている写真。そして、雪吊りの下で抱き合っている写真。私は、父親の優しい顔と温かい声と強くて太い腕を思い出した。私は、お父さんのことを今でも愛している。
お父さんは、私が小学生のときに亡くなった。交通事故だった。あの日、私は朝寝坊をした。父親は、私が遅刻しないように車で学校に送ってくれたあと、我が家に向かう途中で、トラックに追突されてしまった。
父親は、その場で息を引き取った。私は、お父さんの最期の言葉を聞くこともできなかった。「ありがとうやさよなら」と伝えられなかった。
父ちゃんの口ぐせは、私が大人になったら素敵な王子様が現れるだった。でも、私は、その王子様を父親に会わせてあげられなかった。裏切りと別離、そして悲しみに明け暮れる恋ばかり繰り返していた。母さんは、私の気持ちを察したように、頭を撫でながら、優しく言った。
「ゆり子、お父さんは、今でもお前が幸せになってほしいと見守ってるよ」
母さんの言葉を聞いて、涙が溢れてきた。父親のことを思い出して、胸が締め付けられた。
その晩、ベッドに横になって目を閉じた。夢の中で、足音だけが冷たい静寂を切り裂いて響く中、自分にもう一度笑顔が戻る季節を探し求めた。そして、雪吊りが取り外される春の訪れを夢見て、兼六園をひとりで歩いていった。
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