十四日目(朝)

朝の八時。ちょうど通勤ラッシュの時間帯。

いつもの地下鉄ではない駅のホームで痴漢の犯人を捕まえた。

早朝から面倒事を起こすなよと心の中でキレまくる。


「貴方、車内で女子高生のお尻触りましたよね?」

「……」

「目撃者が多数います。もう逃げられませんよ?」

「……」


犯人は至って普通のサラリーマン。見てくれは中年の男性で薬指に結婚指輪を嵌めている。


「痴漢したんですか、してないんですか?」

「……」

「せめて何か返事してください。黙ったままでは何も分かりません」

「……」


路上で犯人を問い詰めるが、挙動不審にだんまりを決め込む。

被害者と目撃者からある程度事情を聞いていて、あとは犯人の自供次第だ。


「取り敢えず署で話を聞きます」

「——めろ」

「はい?」

「やめろ‼」


ボソッとした声で拒絶された。目の挙動がおかしくカチカチと歯を鳴らす。しまいには親指の爪を噛み、苛立ちを込めた目でこちらを睨んできた。


「こんな所で立ち止まっていても埒が明きません。時間が遅くなるだけです」

「……」

「このまま動かないようなら実力行使に出ますよ。いいんですね?」

「……っ⁉」


そう言って、男の肩に触れようとした瞬間。サラリーマンの目の色が変わり、牙を剥く。

なんと私の手を噛んできたのだ。


「いぎっ⁉」


私は噛まれた手を抑えて、地べたに這いつくばる。

その間、犯人は後ろを振り向くことなく走り出した。

目の前の階段を駆け下り、改札口を突破するつもりだ。


「させるか‼」


このまま逃がしてたまるか。

手の痛みを無視して全速力で後を追い掛ける。しかし相手の足が想像以上に速く、中々距離を詰めれない。


「クソ。もう一人誰かいれば……」


生憎、現場にいる警察官は私のみ。無線で応援を呼ぶが、恐らく到着する前に逃げ切られるだろう。

見る見るうちに男の背中が遠のき、もうすぐ見失いそうだ。


「誰でもいいんで、そこの男止めてくださーい‼」


やむ終えず不特定多数にSOS。一般人を巻き込むのはご法度だが、悠長にルールを守っている場合じゃない。このままでは街の安全、ひいては私の立場が危うくなる。


「もうムリ……」


警察学校で鍛えた体力が底を尽き、派手に足が絡まった。不格好にバランスを崩し、前屈みに倒れていく。


「おっとと」


顔と地面がぶつかる寸前。横からスッと華奢な腕が伸び、私の上半身を支える。

顔を上げると黒いキャップを被った女性がこちらを見下ろしていた。


「だいじょーぶ?」

「大丈夫じゃないです。逃げられました……」

「逃げられた?」

「痴漢の犯人に逃げられました!」

「どこに?」

「駅の改札口を抜けてこの道を真っ直ぐ走っていきました……」

「見た目は?」

「紺のスーツを着た中年のサラリーマンです。赤縁のメガネをかけています」

「よし、わかった」


キャップを被った女性は近くの支柱に私を預け、犯人が逃げた方角へ走って行ってしまった。

もう私は立ち上がる元気も無く、見知らぬ彼女に後を任せた。


■■■


五分も経たないうちにさっきの女性が帰ってきた。脇にサラリーマンを抱えて。


「痴漢の犯人ってコイツ?」

「は、はい……」


漫画のように目を回すサラリーマンは床に放り投げられる。扱いが乱暴でなんだか可哀想だ。

タイミングよく現場に応援が到着し、サラリーマンは警察車両に押し込まれた。


「大変申し訳ございません。本来ならば私がちゃんと捕まえないといけないのに……」

「いいって、いいって。これぐらい大したことないから」


一般人の彼女にとって“大したことない”ことを私はやらかしてしまった。この失敗は今後のキャリアにおいて大きい。暫くは悪夢にうなされるだろう。


「でも、あのオッサン身体能力ヤバ過ぎ。あれは学生時代、陸上部と柔道部を兼任してたね」

「なぜそんな事が分かるんです?」

「フフッ。だって“ウチ”も柔道部と陸上部兼任してたから♡」


そう言って女性はキャップを脱ぎ、得意げに素顔を晒す。

私は彼女の顔を見た途端、「あああっ⁉」と下品な声を漏らしてしまった。

なんと女性の正体は終電の吸血鬼だったのだ。


「なんでアンタがここに⁉」

「シーッ。声が大きい」


細くスラリと伸びた指で私の口を抑え、強引に黙らせる。

彼女の手に付いた香水のおかげか、少しだけ気分が和らいだ。


「出勤前のジョギング中に会うなんて運命だねぇ~」

「もごもごもご(今、朝ですよ。大丈夫なんですか⁉)」

「朝陽を浴びて干乾びるほどウチの体はヤワじゃない」


「日差し対策はバッチリ☆」と元気よくピースサイン。

上は長袖のTシャツに、下はラフで動きやすいスウェット。肌面積が少なく、通気性が悪そうだ。


「大丈夫なんですか、汗?」

「全然大丈夫じゃない。クソ暑くて熱中症になりそう」


服の下は蒸し風呂同然。Tシャツの中が透けて見えるのは汗が原因のようだ。

黒く攻めた下着が丸見えだ。


「つか、ウチの心配より自分の心配しなよ。その傷イタくない?」

「正直、メッチャ痛いです……」


手の甲の咬まれ傷がヒリヒリと疼く。見たところ重症ではなさそうだが、黒く小さな斑点が気になる。


「その傷跡、気になるようならウチが上書きしてあげるけど大丈夫そ?」

「結構です‼」


艶かしく舌を出し、危うくヨダレが垂れかける吸血鬼。

そんな彼女を私はゴキブリを見るような目で睨み付ける。


「おーい、音海ちゃん。そこでなにしてんの? はやく仕事に戻るよ」

「はい‼」


こんなキモ吸血鬼と談笑している暇はない。

先輩に呼ばれ、慌てて路駐されたパトカーに乗車する。


「仕事ガンバ、ほのか♡」


犯人と私を乗せたパトカーは駅のロータリーを回り、大通りへ向かう。

その光景を吸血鬼はニンマリと笑い、見詰めていた。

早朝も零時と変わらず不気味な女だ。掴み所がなく、未だに怖い。

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