六日目(晩)

あの日は結局、アイツは来なかった。

途中で名の知れない女子高生と喋り、ただ終点まで乗っただけ。

パスモのチャージ代を無駄にした。


「昨日のハンカチは渡せた?」

「ええっと……まだです」


帰りの更衣室。星宮先輩がハンカチのことを訊いてきた。

何故か私の顔を見てニヤニヤしている。


「もしかして、渡す相手は彼女さん?」

「ち、ちがいますよ‼」

「一方的な片想い⁉」

「そういう感じじゃないです‼」


「ほれほれ~、そんな恥ずかしがるなよ~」と私の脇腹を小突き、ダル絡みしてくる。シラフの状態でこのテンションはキツイ。

先輩に腕を掴まれ、全力で嫌な顔をする。


「今度恋人作るとしたら、普通に男です。女は飽きました」

「なんか噓くさーい」

「では、お先に失礼します」


勢いよくロッカーの扉を閉め、颯爽と先輩の横を通り過ぎる。これ以上絡まれるのは面倒だ。


「今日で会うのは最後にしよう」


片手に例のハンカチを握り締め、独り言でそう誓う。


■■■


アイツと出会ってからもうすぐ一週間が経つ。

職場からこの地下鉄に来る流れがルーティン化しつつある。出来ればこんな場所を経由せず、そのまま真っ直ぐ家に帰りたい。ストレスが溜まる一方だ。

慣れ親しんだ車内に乗り込み、嫌々アイツを探す。


「居るんなら、早く出てこい。探す時間が勿体ない」


どうせ周りにいるのは酔っ払いばかり。多少騒がしくしても問題ないだろう。

声を出してあの吸血鬼を呼ぶ。


「はいは~い。ちゃんとここにいますよぉ~だ」


三度呼び掛けたところで隣の車両から登場してきた。

珍しく返り血が一切なく、清潔感が漂う。しかし服装が乱れているせいで革ジャンの下、タンクトップの裾から筋肉質な腹部がはみ出して見える。薄っすら三つに割れた腹筋が羨ましい。


「必死にウチのこと呼んでどうしたの? もしかして昨日会えなくて寂しくなっちゃった?」

「違います。ただ渡したいものがあって呼んだだけです」

「なになに⁉ 渡したいものって?」


無邪気な子供のように目を輝かせ、私の手元に視線を向ける。

自己主張の激しい期待の眼差しが肌に突き刺さり痛い。


「つまらないものですが、コレ受け取ってください」

「あらあら大層な包みじゃない?」


これはあくまでお詫びの品。無償のプレゼントではない。

渡されるや否や綺麗に包装紙を剥がし、両手でハンカチを広げる。


「先日ハンカチを汚してしまったので、そのお詫びです」

「誕生日プレゼント⁉」

「違います。ただのお詫びです」


たかがハンカチごときにとびっきりの笑顔を見せ、手放しで喜んでくれる。

価値観や感性は吸血鬼のはずなのに、まるで人間のようだ。


「不思議なヤツ……」

「なんか言いました?」

「なんでもないでぇす」


やっと渡せた安心感からか肩の力が抜け、空いていた席にストンと座る。

吸血鬼も当たり前のようにすぐ隣に座ってきた。


「わざわざお詫びしなくても良かったのに。ありがとね」

「はい……」

「ほんと変な人」

「私のこと変な人、変な人言わないでください。アンタの方がよっぽど変な人です」

「そりゃあ吸血鬼だから変でしょ?」

「開き直るな」


彼女の小指が私の手の甲に乗る。数日前の私なら拒絶していた場面だが、今日は何も言わない。

まさか吸血鬼に心を許す日が来るとは……。


「——恋バナでもする?」

「突然なんです?」

「女子会の話題はやっぱ恋バナじゃない?」

「アンタと女子会を開く気はありません」

「ええ~。いいじゃん、いいじゃん。話そうよ」


このまま終点まで黙ってとけば良かったのに。

流れかけた沈黙にストッパーがかかる。


「今、誰か好きな人でもいる?」

「いません。いたとしても言いません」

「うえ~、ケチ」

「アンタも好きな人とかいるんですか?」

「今はいないけど、好きなタイプならある」

「どんなタイプですか?」

「処女」

「サイテー」


聞かなければ良かった。今すぐにでも手錠をかけてやりたい気分だ。


「そう云えば、吸血鬼は処女の血を好むと聞いたことがありますが、アレって本当なんですか?」

「うん。メチャクチャ甘くて美味しい」

「飲んだことあるんですか?」

「人生で一度だけ。けっこう昔に」

「もしかして、お相手は未成年?」

「そう、だけど……」

「逮捕です」

「ちょいちょい‼ あの時はウチもギリギリ未成年だったから‼」


逮捕発言にビビッて無罪だと弁明する。

当時のことを思い出しているのか何となく頬が赤らみ、発情しているようだ。


「ウチがまだ大学一回生で、相手は高校生くらいだったかな。その子が膝を擦り剝いたから、傷の手当てをしてあげたの。その時、ついでに味見する感覚で傷口をペロッと舐めたことがあって……」

「キショイ」

「全然キモくないし~。ペロッてしただけだもん‼」


本人曰く、その子の血は舌の上に乗せた瞬間、高級ステーキのごとく一瞬にして溶けたらしい。甘い風味が口の中を支配し、危うく興奮しすぎて死にかけたという。


「あの感動をもう一度味わいたい」

「その時は私が迷わず逮捕します」

「大人の処女だったらオーケー?」

「強姦で逮捕します」

「そこはちゃんとお互いの合意のもとでやるからさー」

「お互いの合意でもダメです」

「冤罪ハンターイ!」


終点まであと二駅。

心底くだらない話に五分も費やしてしまった。

一旦、束の間の小休止を挟む。


「かっゆ」

「ん?」

「なんか蚊に刺されました」

「どこどこ?」

「腕です」


この季節に珍しい。患部が少し赤く腫れ、痒みを伴う。

掻きむしりたいところだが、下手に触ると傷になり兼ねない。家に帰ってムヒを塗るまで我慢しよう。


「ほのかちゃん。これってマジで蚊に刺されたヤツ?」

「えっ……。まあ、アリの可能性もありますが、この腫れ具合からして恐らく蚊だと思われます」

「ウチの目には別の類のように見える」

「は?」


吸血鬼が急におかしなことを言い出した。しかし表情は至って真剣で揶揄っているわけではなさそうだ。

私の腕を食い入るように観察したのち、患部を抓んできた。


「ほら、これ見て」

「どれですか?」

「見えない、これ?」

「見えません」


吸血鬼は患部から何かを抓み取ったようで、眼前に掲げてくる。だが視力Aを持ってしても、彼女が何を抓み取ったのか分からない。

私は顔を顰め、首を横に振る。


「これは“ノミ”だよ」

「ノミって、猫とか犬に付くアレですか?」

「うん。それもただのノミじゃない。害虫の中の害虫だ」


目に見えない“ノミ”を手のひらに乗せ、じっくり吟味している。

普段と目の色が変わった。彼女の様子を見て、事態が深刻であることを悟る。


「ほのか、もう一回腕見せて」

「は、はい……‼」

「ゴメン。少し痛むと思うけど我慢して」

「ひゃい……⁉」


吸血鬼はそう言って、躊躇なく私の腕を甘噛みする。

私は彼女の突拍子もない行動に驚き、思わず頓狂な声を漏らしてしまった。


「きゅ、急に、何するんですか⁉」

「腫れた傷の毒素抜いてる」

「そんなことしなくても日が経てば治りますって‼」

「ダメ。早急に手当てしないと毒素が全身に回ってガチでヤバい」

「どうヤバいんですか⁉」

「死ぬ」

「ひっ⁉」


ひたすら噛んでは吐いて、噛んでは吐いての繰り返し。吐かれた血は床に飛散する。もちろん全て私の血液だ。

“死”というワードを聞いた途端、気が動転して座席から転げ落ちそうになる。


「今、何がどうなってるんですか⁉ 詳しく教えてください‼」

「それは後から……」


吸血鬼の動きがピタッと止まった。頬には微量の汗が伝い、瞳孔が開く。そして私の腕から手を離し、車内の天井にゆっくり視線を移す。


「ほのか。こっから逃げて」

「は⁉ どういうこと?」

「いいから早く逃げろ‼」


彼女は必死に叫んで、私に別車両へ退避するよう促す。しかし“敵”は悠長に待ってくれなかった。

天井から無数の物体が落下し、床で黒く蠢く。


「なになにっ……‼ なんなのこれ⁉」


床で蠢くのはただのゴミじゃない。どこかで見たことある寄生虫のような生き物。それが無数に散らばり、ピョンピョンと愉快に跳ね始めた。


「きゃあああああああああああああああっ⁉」


私は両手で頭を抱え、甲高い叫び声を上げる。

吸血鬼は咄嗟に私の口を抑え、首筋の頸動脈にチョップをお見舞い。忽ち視界が眩み、意識が遠のく。


「ちょっと静かにしといて」


意識が途切れる直前。吸血鬼は鼻に人差し指を当て、薄っすら微笑んでいた。その表情はどこか歪で、底気味悪かった。


■■■


「さてと。この量をどうやって捌こうか」


ほのかを座席に寝かせたあと。“ノミ”で敷き詰められた車内を静かに見渡す。

相変わらずこの光景は何度見ても慣れない。気持ち悪くて鳥肌が立つ。


「ほんと趣味が悪いな~、あの子は」


多勢に無勢。今回も例によって分が悪い勝負だ。負傷は避けられない。


「こりゃあ、あとの燃料補給がヤバそう」


近い未来を想像して憂鬱になる。古傷も疼いて気乗りしないが、もうやるしかない。

指の爪を限界まで伸ばし、全身に張り巡らされた血管が浮き出る。髪を青く染め上げ、人間の皮を完全に脱いだ状態で地面を蹴る——。


■■■


あれから何分経っただろう。

重い瞼を擦り、ゆっくり目を開ける。


「あれ……?」


見えるのは車内の天井じゃない。見知ったアイツの顔だった。

口の端から小気味よく血が滴り、私の額へ落ちていく。


「やっと目覚ましたな」

「アンタ……ここは?」

「さあ、どこでしょう?」


正面に映るのは吸血鬼の顔のみ。顔を少し横に傾けると遠くの方に改札口が見えた。


「もしかして終点のホーム?」

「そう、大正解」


吸血鬼はパチパチと吞気に拍手する。なんとなくバカにされた感じがして気分が悪い。


「これはどういう状況なんです?」

「膝枕してる」

「誰の?」

「もちろんウチの」


どうりで後頭部に伝わる感触が暖かくて柔らかいはずだ。顔を動かすたびに鼓動が煩くなる。


「あら、離れないの?」

「離れたいのは山々ですが、その元気がないです……」


腰を上げようとしたが、全身が痙攣して上手く動かない。暫くはこの体勢で我慢するしかない。かなり癪だが。


「ケガ大丈夫なんですか?」

「ヘーキヘーキ」

「服、けっこう汚れてますけど……?」

「問題ない。家に帰ってすぐ洗濯すれば明日中に乾くし」

「顔もボコボコです」

「これはダウンタイム中」

「どこで整形したんですか」


二日目のときと同様、返り血の量が凄い。生々しく鉄っぽい匂いが刺激的で、鼻が曲がりそう。

一見元気そうに見える彼女だが、瞼が腫れあがって片目がほとんど開いていない。致命的なパンチを食らったボクシング選手のようだ。


「さすがに目の傷に関しては医者に診てもらったほうが……」

「保険証持ってないから行かない。それに吸血鬼だからこのぐらいの傷、勝手に治るわ」


「心配してくれてありがと」と頭を撫でてきた吸血鬼。「そこまで気を許した覚えはない」と私は即座に拒絶する。


「そう云えば、あの“寄生虫”達はどうなったんですか?」

「ウチが駆除した」

「私って死にます?」

「死なない。毒は全部抜いたわ」


取り敢えず危機的状況から脱したようだ。

少し安心したおかげか力が抜け、全身の痺れが少しずつ取れてきた。そろそろ動けそう。


「起き上がります。顔退けてください」

「いーや」

「頭ぶつけますよ」

「いいよ♪」

「はい、ドーン」

「痛ッ⁉」


正面の顔が邪魔だ。

容赦なく吸血鬼の額に頭突きを入れる。彼女は額を抑えて痛がっていた。

天性の石頭を舐めてもらっては困る。


「吸血鬼もちゃんと痛覚があるんですね」

「ああ~。ほのかの“くせに”生意気~」

「“くせに”ってなんですか。“くせに”って⁉」


「バカにするな」と追加で額にデコピンをお見舞いする。パチンと良い音が鳴った。

吸血鬼はヘラヘラ笑って額を赤くする。


「じゃあ、私はもう帰ります」

「一人で帰れる? 良かったらバイクで送ってあげようか?」

「いいです、一人で帰れます。てか、バイク乗りなんですか?」

「うん。ちなみに愛車はハーレー」

「中々厳ついですね……」


一度乗ってみたい気もするが、これ以上コイツと関わるのは疲れる。

ベンチから立ち上がり、そのまま改札口の方へ歩く。


「また会いに来てくれる?」


背後からそう声を掛けられた。私は一度足を止め、顔だけを後ろを向く。


「気が向いたら来るかも、です」


来ないとは否定できない。

今日の一件があったにも関わらず懲りない女だ。我ながら呆れる。

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