鬼が啼く刻 大正鬼婚譚
白鷺雨月
第1話史乃は鬼と出会う
かの帝都を襲った大地震より三ヶ月が過ぎた。年はかわり、大正十三年の冬である。
寒い冬の朝、かじかむ手で史乃はポンプを押し、桶に水をいれる。
ジャバジャバと水が吐き出され、桶に水がたまる。冷たい水が跳ね返り、史乃の青白い顔を濡らす。
史乃の細い指はあかぎれだらけで痛々しい。けれでも水汲みをさぼるわけにはいかない。もしこの仕事をさぼればどのような叱責を受けるかわからない。それは史乃にとって想像するのも恐ろしいことであった。
顔立ちはまず美人といって言いほど整っているのに栄養不足のためか顔色は青白い。
史乃は実の家で下働きをさせられていた。
この家の当主である
本城家は東京府でも屈指の富豪であったが、先の震災でかなりの被害を被り、今は斜陽を迎えようとしていた。それでも庶民よりはかなり裕福な生活を送れているはずであるが、史乃は下働きとしてこき使われている。
それは史乃の体質に問題があった。
彼女は幼いときから人には見えない者が見えた。何もない空間に話しかけたりしているのは日常茶飯事であった。夜中にとりつかれたように歩き回ったり、悲鳴をあげたりすることは数えきれないほどあった。
気味悪がった幸彦は史乃を座敷牢のようなところに閉じ込めた。
史乃の実の母親は彼女を生むとすぐになくなっており、味方をするものは誰もいなかった。
後妻の多恵子を迎えた幸彦は、その娘である加代を溺愛するようになった。
成長し、ヒステリー症状はかなりおさまったものの父親である幸彦は史乃への興味も感心もまったくもっていなかった。
「食べさせてやるだけありがたく思え」
それが幸彦が史乃への対する口癖であった。
史乃が重い桶を両手に持ち、屋敷へと運んでいると一人の少女が声をかけてくる。
「史乃さん、一つ持ちますよ」
そう言いながら、少女は手を伸ばし桶を一つ持つ。
「ありがとう
史乃は小柄な少女に礼を言う。
少女の名は
史乃の二つ下で活発な働きものであった。
「いいのよ史乃さん」
にこやかに文は微笑む。文の手も水仕事で荒れていた。
自分の仕事もあるのに体の弱い史乃を思いやるそんな優しさ文にはあった。
史乃は水を
文たちと粗末な朝食を食べたあと、今度は屋敷の掃除と洗濯仕事が待っている。
そのあとは夕食の準備が待っているのだが、この日はそうではなかった。
血のつながらない母親である多恵子が声をかけてきた。
「今夜は
多恵子はそう言った。
それは突然の命令であり、もちろん史乃はパーティーに着ていく衣装などもっていない。
彼女はその日の夜、いつもの女中が着る粗末で古い着物のままそのパーティーに参加せざる終えなかった。
「お姉さまには私の引き立て役になってもらいますからね」
パーティー会場である椿原邸に到着した加代は遠慮無しにそう言った。
加代の衣装は史乃とは対照的に赤い豪華なドレスを着ていた。
化粧もきっちりし、どこからどう見ても名家の令嬢であった。
加代の風貌はその衣装に負けないぐらいに美しい。その美貌は加代自身がよく知っていた。
加代はその美貌を生かし、このパーティーで結婚相手を見つけようというのだ。
それは加代の両親の意思でもあった。みすぼらしい着物を着ている史乃はそんな加代の引き立て役にすぎない。
椿原邸の大広間にはすでに各界の名士たちが集まっていた。その名士や華族の貴公子に令嬢たちは皆が皆息をのむほどの豪華で華麗な衣装で着飾っている。
テーブルには山海の珍味や豪勢な料理が並んでいる。それは史乃が決して口にできないものであった。
手を伸ばせば届くところに美味しそうな料理があるのに史乃は口にできない。
多恵子は史乃にいやしく料理を食べることを禁じていた。
加代はそんな史乃にこれ見よがしに料理を口にいれる。
ボーイの一人が加代に飲み物を提供する。
それを礼も言わずに当たり前のように加代は口に入れる。
お嬢様育ちの加代は身分の低い者に礼など言わない。
「お姉さまにもどうかしら」
そう言い、食べ残しの皿を加代は史乃に見せる。お腹が空いている史乃でもさすがにそれを口にはできない。
史乃は視線だけをずらす。
その様子を下品な眼で加代は見る。せっかくの美少女が台無しだと思われたが、そんな顔は史乃にしかみせない。
対外的に加代は深窓の令嬢を完璧に演じてみせることができる。
「下げていただけるかしら」
加代はボーイに命じて、皿を下げさせた。
「これはこれは本城加代さんではないですか?」
モーニングを着た人物が加代に声をかける。
椿原家の次男である椿原宗次郎であった。
「宗次郎様、ご機嫌麗しうございます」
ドレスのスカートの両端をちょこんとつまみ、加代は礼をとる。
史乃もお辞儀する。
「加代さん、今日は珍しい人が来ているのですよ。私の友人で
椿原宗次郎は言った。
椿原宗次郎の背後に背の高い軍人がいた。
史乃は最初、暗闇がいるのかと思った。
その男は漆黒の軍服を着ていた。まるで闇夜を切り取り、造られたような軍服であった。腰に赤い鞘に収められた日本刀をぶら下げている。軍帽を目深にかぶり、丸型のサングラスをかけている。そのサングラスの奥の瞳は不思議なことに紫色に輝いていた。
まるで紫水晶のようだと史乃は思った。
「渡辺司であります」
低い声でその漆黒の軍服を着た男は敬礼し、そう名乗った。
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