第39話 人間 vs 妖怪⑥

 物陰からそっと顔を覗かせると、薄暗い廊下の向こうから、たぬき先生が歩いて来るのが見えた。先生はポケットから鍵を取り出し、指でくるくると回しながら、音楽準備室の前で立ち止まった。窓の外は晴れ渡っている。遠くから運動部の歓声と、射撃音が聞こえてきた。


(さっきぼくが開けた時は何にもなかったけどなぁ……)

(シッ! 聞こえるわよ)


 先生は軽やかに鼻歌を歌いながら……ワグナーの『ワルキューレの騎行』だ。映画『地獄の黙示録』にも使われた……鍵を準備室に差し込んだ。髑髏の形が掘り込んである、何だか気味の悪い鍵だ。ぼくはその鍵に、キツネの尻尾を形取ったキーホルダーが付いているのを見た。


(ねぇ、あれって……)

(静かに!)


 先生はそのまま準備室の中に入って行った。

 果たしてその中に何があったのかは、前述した通りである。


 教室の扉を開けると、異界へと繋がっていた。

 無明の闇の奥で、魑魅魍魎ようかいたちが蠢いていた。


「いよいよだ」

 闇の向こうから顔を覗かせながら、たぬき先生が嬉しそうに顔を綻ばせた。

「いよいよ百鬼夜行が始まる」

 ぼくらは先生が行ってしまってから……それでも念のためしばらく待って……ようやく物陰から這い出してきた。


「見たか!? あの化け物!」

「あのキーホルダー……」

「まさか先生が妖怪だったなんて……」

「ママ〜!」


 ぼくらはしばらくその場で呆然としていた。まるで狐か狸に化かされたみたいだった。けれど、健太の両手は相変わらずハサミのままだし、秀平はいつまで経っても蛇男のままだった。どうやら夢ではないらしい。だとしたらとんだ悪夢だ。百鬼夜行だなんて。百鬼夜行って何だ?


「妖怪たちの行列よ。先生はこの世界に悪い妖怪たちを解き放ち、メチャクチャにしようとしてるのよ!」


 ぼくらは試しに、恐る恐る、職員室から借りてきたマスターキーで音楽準備室を開けた。けれど、やっぱり中は普段通りのままだった。いるかちゃんが小首をかしげた。


「きっとあの鍵で開けたら異界に繋がるのよ」

「あの中に入ってると……魂というかエナジーというか、とにかくどんどん体の中からエネルギーが吸い取られていく感じになって……」


『恐怖! 蛇人間』と化した秀平が、ぶるると細長い体を震わせた。確かに闇の奥は尋常じゃなかった。『蓋』の中身は、妖怪製造機だったのだ。きっと先生は『蓋』の中に子供達を閉じ込め、妖怪そのものへと変化させようとしているのだろう。だとしたら大変だ。


「あのキーホルダー、コックリさんの尻尾とそっくりだったよ」

 ぼくはそわそわと髪を撫でつけながら言った。

「もしかしたらコックリさんたち、たぬき先生のせいで、あの中に閉じ込められているのかも……!」


 こうしちゃいられない。

 健太と秀平は、たぬき先生から鍵を奪いに行く、と息巻いた。

「あのたぬ公! ※※※す!」

「気をつけて」

 ぼくといるかちゃんは、急いで校長先生の元に向かった。たぬき先生の正体は妖怪だ……なんて言っても信じてもらえないかもしれないが、生徒を監禁しているとなると、さすがの校長でも重い腰を上げざるを得ないだろう。 


「校長先生!」


 日曜日だが、幸い校長先生は学校に来ていた。重たい校長室の扉を開けると、校長先生が、高級そうな牛革の椅子に腰掛けていた。さすがに葉巻は吸っていなかったが、立派な髭をたくわえている。これほど立派な髭をたくわえているのだから、さぞ立派な人間なのだろう。普段偉そうな話ばかりしているのだから、いざと言う時には難しい問題もたちどころに解決してくれるに違いなかった。


「何だね? キミは?」

「校長先生……聞いてください、実は……」

 ぼくは先ほど起きたことをかいつまんで説明した。だけど立派な校長先生は、立派な髭を撫でつけ、立派な目を細めるだけだった。


「やれやれ。何を言い出すかと思えば……」

「校長先生、ホントの話なんです。ぼくの友達もさっきまで閉じ込められてて……」

「田貫先生がそんなことするはずないだろう」

「そんな……信じてください!」

「悠介くん! 待って!」


 校長先生はぼくの話を全然取り合わなかった。なおも追い縋ろうとするぼくを、いるかちゃんが小声で引き留めた。


(目の下にクマが出来てるわ)


 ぼくは思わずあっ、と声を上げそうになった。確かにその通りだった。校長先生の目の下は、まるで寝不足のように真っ黒になっている。たぬき先生そっくりだ。


「田貫先生は立派な先生だよ」校長先生がニコニコしながら云った。

「彼の云うことを疑っちゃいかん。彼の云う通りにしておけば、万事大丈夫だ」

 校長は、もはや心ここにあらずと云った具合に、虚ろな目をして嗤った。唇の端からつう……と涎が垂れている。ぼくはゾッとした。すでに校長先生も、たぬき先生に操られていたのだ。


「待ちなさい……キミタチ……」

「ひ……っ!?」

「キミタチも……妖怪になるのだ。妖怪は良いぞぉ。試験も何にもない! 学校に行く必要もないのだ」

「だったら校長先生もクビじゃないですか」

「黙れ! 人間風情が!」

「うわぁっ!?」

「逃げましょう!」

 ぼくらは急いで校長室を飛び出した。ちらりと後ろを振り返ると、校長先生がゾンビみたいに両手を伸ばし、ぼくらを追いかけて来るのが見えた。


「はぁ、はぁ……! どうしよう……どうすれば!?」

「他の先生も、操られてるかもしれないわね」


 いるかちゃんの心配した通りだった。

 よくよく見ると、職員室に来ていた先生も、グラウンドで汗を流していた運動部たちも、みな目の下にクマを作っているではないか。もはやこの学校はたぬき先生の手中だった。


「とにかく警察に相談しないと!」


 ぼくらは学校を出て、交番へと走った。だけど、結果は散々だった(当たり前だ。突然小学生が交番に行って『担任の先生が実は妖怪だったんです』と言ったところで、信じてくれるはずもない)。


 だけど一応、見回りに行った方が良いと思ったのかもしれない。あるいはふざけた生徒がいると先生に注意しに行こうと思ったのか。年老いた駐在さん(眠そうだったが、クマはなかった)が重たい腰を上げ、奥から古ぼけた自転車を引っ張り出した。


「早く! 早く!」

 ぼくらは駐在さんを急かしながら学校へと急いだ。角を曲がり、消防署の壁が見え始めた頃…… その向こうが小学校だ……空はいつの間にか、西の方から橙色に染まり始めていた。逢魔時。

「……なんだ、ありゃあ?」

 突然駐在さんが素っ頓狂な声を上げて立ち止まった。しきりにメガネをずり上げながら、まるで山を見上げるように首を限界まで曲げている。ぼくも振り返り、思わず叫び声を上げそうになった。


 


 小学校があるはずの場所に、巨きな、真っ黒な山が出来上がっていた。黒い山は、だけど、まだほんの頭の天辺が見えていただけに過ぎなかった。やがてぐんぐんと……雲を突き抜け、宇宙そらまで届かんばかりの勢いで……その背が高くなっていく。駐在さんが自転車から転がり落ちた。


「ダイダラボッチだ……」


 ぼくは声を震わせた。黒い山……ダイダラボッチが咆哮を上げた。それだけで、近くにあった民家の窓ガラスが一斉に割れ、足元の地面が、まるでプールの水になったかのようにいとも激しく波打った。

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