ROUND 2

第8話 トイレの花子さん vs LGBT①

「ん……」


 が起きたのは、金曜日と土曜日の間くらいだったろうか。

 時計を見るとまだ真夜中だったが、おしっこに行きたくなり、ぼくは目が覚めてしまった。部屋の電気は点けないまま、真っ暗の中を壁伝いに歩いていく。トイレの場所は分かっていた。中途半端な時間に起きてしまったせいか、瞼を持ち上げようとしても勝手に下へ下へと沈んでいく。廊下もまた真っ暗だった。閉じ切った窓ガラスの向こうから、今夜も元気に蛙の大合唱が聞こえてくる。それに合わせて、ぼくも大きく欠伸した。


 ……おかしい。


 しばらく歩いて、ぼくははたと立ち止まった。まさか自分の家で迷子になるはずもないだろうに、一向にトイレに辿りつかない。何だかまだ夢の中にいるような気分で、頭はぼんやりとしたまま、体が妙にふわふわと軽かった。


 しばらくすると、ようやくそれらしき小部屋を見つけ、ぼくはホッと胸を撫で下ろした。トイレの入り口の前に洗面台があり、そこに黒っぽく影になったぼくの姿が現れた。


「ん……?」


 何だ?

 何かがおかしい……。


 妙な胸騒ぎを覚え、思わず立ち止まる。閉じよう閉じようとする瞼を擦り、ぼくは恐る恐る鏡に近づいていった。


「んん……!?」


 やがて鏡の中に現れたのは、暗闇でも分かる白い肌、キラキラと彗星のように輝く両の瞳。風呂上がりで少し濡れそぼった長い髪……ん? 長い……?


「こ……これって……」


 ぼくは声を上擦らせた。明らかにぼくの容姿ではない。自慢じゃないが、ぼくの目はこんなに輝いていない。どちらかというとネガティヴな方で、いつもどんよりと濁っている。

「も、もしかして……!」

 鏡に写っているのは、どう見ても自分ではなかった。この人物を、ぼくは良く知っている。昨日も学校で会ったばかりだ。この人物は……は……!

「入れ替わってるーっ!?」


 ……いるかちゃんだ!

 ある日ぼくは目が覚めると、いるかちゃんになってしまっていた!


(伴奏)


 それから月曜日。


 週が明け、いつもよりかなり早く家を飛び出し、通学路を駆け抜けていく。今週はとにかく、土日が終わるのが待ち遠しかった。別に学校に行きたかった訳じゃない。もう限界だったのだ。あのまま鰆木家で過ごしていれば、すぐにボロが出ていただろう。


 一体、自分の娘が突然同級生の男の子とだなんて、良識ある大人の方々にどう説明すればいいのだろうか。こんなヘンテコな状況、きっとどう頑張っても誰も納得してくれないに違いない。


「はぁ……はぁ……!」


 ヘンテコなことが起きたら、ヘンテコな奴に聞くのが一番良い。それでぼくは、学校……ではく、近くの山の麓の、寂れた稲荷神社を目指していた。


「はぁ……はぁ。コックリさん……!」


 。汗を拭い、境内を覗くと、例のコックリさんはまだ社の中でキツネみたいに丸まって眠りこけていた。枕元にスマホが落ちている。きっと昨日は夜遅くまで、chatGPTをしていたに違いない。ぼくはため息をついた。全く。


「もう、起きてよ! コックリさん!」

「むにゃ……? ん? どうしたのじゃいるか殿? こんな朝っぱらから……」

「違うよ! ぼく、いるかちゃんじゃなくて悠介なんだよ! 朝起きたらこうなってたの!」

「何じゃと?」


 それでコックリさんがピクリと耳を天井に向けた。ぼくは昨夜起きた怪現象の一部始終を彼女に話して聞かせた。


「……で、コックリさんなら何か知ってるかなって」

「うーむ」

 コックリさんは小さな赤い座布団の上で腕を組み、小首を捻った。


「そういえば昔……」

「知ってるの!?」

「昔……隣町のそのまた隣町にの。何でも1000年に一度の巨大水洗トイレが出現するとかで、ワシらの間でも大騒ぎになったことがあったんじゃ」

「1000年に一度の巨大水洗……!?」

「その名も『ティアマト水洗』。じゃがそこで、不可思議な現象が起こった。ただの人間がトイレを借りようと『ティアマト水洗』に赴くと、何故か建物のトイレが全部女子トイレになっていたり」

「え……」

「終いには、男子トイレから出てきた客の体が、いつの間にか女子になっていたり、そのまた逆が起きたりもしたという」

「それって……!」

「『ティアマト水洗』には、げに恐ろしき厠の幽霊・トイレの花子さんが棲んでおったそうじゃ」


 トイレの花子さん……って、あの、学校の怪談で定番になってる、あの花子さん?

 ぼくはぽかんと口を開けた。コックリさんはぼくの方をジロリと睨め付けた。


「悠介。貴様……よもやトイレで粗相をしたのではあるまいな?」

「え? いやぼく……」


 トイレで粗相をしないで、一体どこで粗相をしろと言うんだ……というツッコミはさておき、話を聞く限り、確かにぼくに今起きている現象はその、トイレの花子さんとやらが関係しているのかも知れない。


「そういえば……」

「心当たりがあるのか?」

「いや、数日前なんだけど、どうしてもトイレが我慢できなくて、コンビニのトイレに駆け込んだことがあって。でも、女性専用トイレしか空いてなかったんだよ。それで……誰も並んでなかったから、つい」

「ははぁ」

「でも……でもそんなので性別まで変えられちゃたまんないよ!」

「それはの理屈じゃろ。にはの理屈があるのじゃ」

「悠介くん!」

「あ! いるかちゃん」


 するとタイミング良くいるかちゃん……見た目は当然ぼくなのだが、中身はいるかちゃんだ……がやってきた。いるかちゃんは今まで見たこともないほど狼狽していた。


「早く何とかして!! 私絶対、絶っっ対嫌よ! 一生この体で過ごすなんて!!」

「そこまで強い言葉で否定しなくても……」


 ぼくはいるかちゃんに、さっきコックリさんが話してくれたことを説明した。茂みの中に何処からともなく、軽やかなロック・ミュージックの伴奏が聞こえてくる。町はすでに目を覚まし、朝日とともに動き始めていた。


「……一度行ってみるしかないでしょうね。その『ティアマト水洗』に」


 いるかちゃんがぼくの顔でそう言った。


 考え過ぎかもしれないが、普段のぼくよりも、いるかちゃんが入れ替わったぼくの方が何だか表情がキリッとして見える。ということはぼく(いるかちゃん)の瞳も、今頃濁り始めているのだろうか? ダメだ、それは耐えられない……ぼくは何処までもネガティヴになって良いけど、いるかちゃんがそうなってはダメなのだ。早く何とかしないと。


「行こう」

「行きましょう」


 そういうことになった。

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