#7 吹き返す呼吸:取り戻された日常

朱珠は美優に歩み寄り、

美優の顔を目掛けて腕を伸ばすも、

その力は弱く、

拳は美優に届く間も無く簡単に振り払われてしまう。


朱珠の拳は、

回を増す事に弱々しいものへと変わっている。


月花 美優

『もう止めろ。

あんたには、争いは向いていない・・・。』


その言葉を聞いた瞬間、

朱珠の目からは大粒の涙が溢れていた。

だがその涙とは裏腹に、

朱珠は力強い目で美優を睨み付け、

『あかんねん! 私! 約束したんや!』と、

強い口調で言い放ったのだった。


その言葉を聞き薄らと微笑む茜と、

圧倒され驚いた表情を見せる美優達。


そんな中、

美優は「一つの異常」に気付く。

それは、さっきまで朱珠と美優達を

覆っていた霧が段々と薄くなり、

周囲の灰色だった景色は、

元の色へと徐々に戻りつつあったのだ。


美優は歩いて来た廊下の方へ顔をやると、

廊下は既に鮮やかな色を取り戻していた。


そんな中、朱珠は、

その一瞬の隙を見逃さなかった。

「セコい」と言われようが、

「ダサい」と言われようが、

そんな事は、どうでも良かった。


朱珠は「虐めから解放されたい」

という思いと同じくらいに、

茜の想いや行いを無駄にしたくは無かったし、

図書室に居る幽霊と

交わした約束を守りたかったのだ。


お互いに喧嘩をした事が無いとはいえ、

朱珠が美優と拳を交わし合う中で、

朱珠が美優に勝てない事は、

誰が見ても十分に理解出来ていたに違いない。

だからこそ、

この一瞬を見逃す訳にはいかなかったのである。


朱珠は自分の体に残された力の全てを拳に込め、

美優の頬を目掛けて右腕を伸ばし、

見事に美優の左頬に拳を打ち込んだ。


月花 美優

『・・・ッ!』


朱珠の拳が美優の頬に触れた頃には、

霧は完全に姿を消しており、

いつもの日常を取り戻していた。


だが、見慣れた普段の景色を

取り戻していた事に朱珠が気が付いたのは、

美優の頬に拳を打ち込んでからであった。


神原 朱珠

『ひぃ! う・・・嘘やろ!

御免! ちゃうねん! 私・・・。』


美優の微かに腫れた頬を見て焦る朱珠。

黎空と凛心も動揺を隠し切れない様子だった。


だが、そんな朱珠を眺める美優の表情は、

先程までの表情とは異なり穏やかであった。

それは、2人を眺める茜の表情も同様である。


月花 美優

『何、謝ってんだよ。

そんな事されたら、私の立場が無いだろ。』


美優は黎空達の方へ向かい、

側に立っていた茜の肩を軽くタッチした後、

『あんた達の勝ちだ。

私は、あんた達から身を引くよ。』

と静かに語りかけ、

壁に立て掛けてあった鞄を手に取った。


黒田 黎空

『ちょっと美優! あんた何言ってんのよ!』


月花 美優

『あんたも私の立場を、無くす気なのか?

約束は約束だ。』


黒田 黎空

『でも!』


美優は虚な目で黎空を眺めながら、

『金も無い奴に集って何になるっていうんだ?』

と言い、正面玄関の方へと歩いて行った。


黎空は美優を睨み付けながら舌打ちをして、

悔しそうな表情で茜と朱珠を眺めた後、

美優と同じく正面玄関へ去って行き、

その後を続く様に凛心も駆け足で、

正面玄関の方へと消えて行ったのである。


立ち尽くす朱珠の方へ歩み寄る茜。


綾女 茜

『おめでとう。』


神原 朱珠

『あんがと!』


茜を眺める朱珠の表情は、

一昨日から見ていた表情とは一転し、

晴れ晴れとした表情をしていた。


綾女 茜

『動ける?』


茜の言葉を聞き、

体の痛みを再び思い出す朱珠。


神原 朱珠

『そうやった! 私、体痛いんやった!』


しゃがみ込む朱珠。

茜は朱珠の背中を摩りながら

隣にしゃがみ込んだ。


綾女 茜

『ゆっくり休んで大丈夫よ。

今日は、もうずっと一緒だから。』


神原 朱珠

『ずっと一緒?』


綾女 茜

『家に帰るまで、側にいてあげる。』


その言葉を聞き、

満足気な表情を浮かべる朱珠。


そんな中、

茜のスマホに電話がかかって来た。


綾女 茜

『もしもし。』


電話に出る茜。

どうやら電話の向こうには、

図書室に向かう途中で電話越しに話した

紫月からの電話の様だった。


綾女 茜

『今、離れて行った所よ。

多分こっちは、もう大丈夫。

あの子達が、そっちに行く事も無いと思うわ。

寒い中、無理を言って御免ね。

アサガオちゃんも、もう帰って良いわよ。

今日は付き合ってくれて、本当に有難う。』


朝顔 紫月

『そうなんだ。 それなら安心した。

私なら大丈夫だよ。

寒さ対策もして来たし、

クロワッサンを食べながら、

温かいコーヒーも飲んでいたから、

体もぽかぽかだよ。』


綾女 茜

『本当にクロワッサンが好きね。

食べた物と飲んだ物の領収書を切っておいて。

明日、私が払うから。』


朝顔 紫月

『えっ! リーダー、

そんな事しなくても大丈夫だよ!』


綾女 茜

『駄目よ。

私が頼んだ仕事なんだから。 私が出すわ。』


朝顔 紫月

『分かった。 有難う。

宛名は、どうしたら良い?

「blanc」で良いかなぁ?』


綾女 茜

『私の名前で良いわ。

「綾女 葵」でお願い。』


朝顔 紫月

『うん、分かった。 有難う、リーダー。

じゃあ、また明日ね。』


綾女 茜

『うん。 気を付けて帰ってね。』


朝顔 紫月

『うん。 リーダーもね。』


電話を切る茜。

茜の方を不思議そうに眺める朱珠。


神原 朱珠

『なあ、茜ちゃん。

今の領収書の件やねんけどな、

「綾女 葵」ってどうゆうことなん?』


綾女 茜

『私の名前よ。』


神原 朱珠

『えっ? どゆこと?

私には「茜」って言ったやん!』


綾女 茜

『そうだったかしら?

私の名前は「綾女 葵」よ。』


※以下、「綾女 茜」は「綾女 葵」で記載。


神原 朱珠

『(もしかして、

私が信頼できる人間かを探るまで、

偽名を名のてたってことなん?

やっぱり、この子変わってるわぁ〜。)』


そう思いながら、葵の顔を眺める朱珠。


綾女 葵

『どうかした?

私の顔に、何か付いているのかしら?』


慌てて首を振る朱珠。


葵はスマホの画面に目をやると、

少し慌てた様子を見せた。


神原 朱珠

『どないしたん?』


綾女 葵

『仕事がある日は仕方ないとして、

仕事の無い日は、門限が決まっているの。

まさかこんな時間になっていたなんて、

思ってもいなかったわ・・・。』


神原 朱珠

『(何だかんだ不思議な子ではあるけど、

門限を気にして焦ってる所とか、

親近感あって可愛いなぁ。 安心したわ!)

私なら大丈夫やから、先に帰ってええで!

私も少し痛みが和らいでから帰るから、

気にせんといて!』


綾女 葵

『でも・・・。』


神原 朱珠

『ええねん、ええねん。

私の門限は、17時やから!

葵ちゃん、早いんやろ?

早よ帰らな、皆心配すんで!』


綾女 葵

『有難う。

じゃあ、門限まで後15分しか無いから、

先に帰らさせてもらうわね。』


神原 朱珠

『今日は、ほんまにあんがと!』


笑顔で葵の顔を見る朱珠。

心なしか葵もいつもより少し笑顔に見えた。


手を振った後、

正面玄関に向かって歩いて行く葵。


去って行く葵の背中を眺めながら、

朱珠は大きな声で、

『 私、部活も入ってへんし、

何も用無いねん!

せやから、明日から葵ちゃんと

一緒に帰りたいんやけど、ええかな?

葵ちゃん、門限何時なん?

明日から一緒に帰ろうや!』と、

葵に問い掛けた。


すると葵は、朱珠の方へ振り返り、

いつもより少し大きな声で、

『17時半よ。』と言い、

再び背を向けて、正面玄関へと歩き始めた。


神原 朱珠

『え・・・。

(確か門限まで15分しか無いって

言いよったよなぁ・・・。

・・・ッ! 嘘やろ!

じゃあ、今17時15分なん?

とっくに門限過ぎてんやん!

何で教えてくれへんの?

この子怖いねんけど〜!)』


朱珠が鞄からスマホを取り出すと、

そこには、帰りが遅い事を心配した

母親からの電話やメール、

SNSでのメッセージが大量に入っていた。


顔を真っ青にして、痛い体を起こし、

『葵ちゃん! 待って! 私も帰るー!』

と言いながら、葵の方へ走って行く朱珠。


朱珠は葵の鞄の中で

球体が複数個破損していた事を知らず、

また、初めての喧嘩という事もあり、

時間の感覚が麻痺していたのだった。


何故、ここまで効果が

継続的に反映されたのかと言うと、


葵の鞄の中で割れた

複数個の球体から溢れ出した霧が

廊下で密集し行き場を無くした事により、

本来よりも霧が消滅する時間が

長引いていたのであった。


葵は、ちゃんと時間内には帰宅が出来たものの、

朱珠が帰宅したのは、17時30分を回っており、

母親から物凄い剣幕で叱られたのだが、


その理由を話す中で、

初めて虐めに合っていた事を

母親に打ち明ける事が出来た。


勿論、虐めに合っていた事を黙っていた事で、

より叱られたのだが、

朱珠は、母親の愛情を改めて実感する事ができ、

朱珠と母との絆は深まったのであった。

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