第86話人生初の贈り物

 しばらく二人して水槽の中の海月を眺めていた。手はかたく握ったまま。今だに心臓は跳ね上がり落ち着きがない。



 じ、人生初のデートだ。


 さっきは焦って告白しようなんて早まった考えを抱いたりもしたが、今はこの瞬間を心に刻んでおきたい。


 だって、こんな機会もうないかもしれないし……最近乙成やその他の女性といる機会が増えたけど、元々の俺の人生には「女性」と呼べる存在は母親しかいなかったのだ。24歳にして初、お金を払わずに女性と親しくしている。



「あ、あの前田さん……?」


「え? な、ななな何?」


 俺の隣で大人しく水槽を眺めていた乙成が急に声をかけてきた。この声にびっくりして、不自然で素っ頓狂な声をあげて返事してしまった。


「私、今日……」


「え?」



「はい。タイムアップです」



 何かを言いかけた乙成に聞き返した途端、乙成が次の言葉を発するより前に、休憩から戻って来た美作さんが俺の両肩を後ろからポンと叩いて、俺達の会話を制止した。美作さんの隣には相変わらずのニコニコ顔の麗香さんがいる。


「美作さん……! タイムアップとは?」


 振り返らず上を向いて美作さんを見る。肌まで綺麗なんだな……くそ。


「前田くん、貸しイチです」


「……は?」


 何を言っているんだ? この人は。


「さっき麗香さんを助けてくれたので。だから一個貸しと言う事で、猶予を与えました」


「は、はぁ……」


 そう言われてもよく分からん。ちゃんと説明してくれ。


「その猶予期間が終了したという事です。その手を今すぐ離してください。この変態」


「はぁ?!」


 手を繋いでいる事を指摘され、真っ赤になって思わず手を離してしまった。てか、自分だって麗香さんと手繋いでるだろ。なんでこれしきの事で変態扱いされないといけないの?!


「さ、どうぞ、あいり」


「あ、ありがとう……ございます」


 何処からともなく取り出した除菌シートを乙成に手渡す美作さん。俺、病原菌扱いされてるの……?


「危ないところでした。もう少しで前田くんの溢れる性衝動を抑えきれず事件が起こる所でしたよ。あいり、よく手を拭いてください。どこ触っているのか分からないので」


「し、失敬な! ちゃんと手洗ってますよ!!」


「さぁ? それはどうですかね? 洗ったと思っているのは、前田くんだけかもしれませんよ?」


「どういう事?!」


 俺達のやり取りに、乙成と麗香さんは困り顔で笑っていた。


 ほんの束の間のデートらしいデートは、俺が不潔な変態であるという、不名誉なキャラ付けをされたままで幕を閉じた。



「前田くん、今日はとても楽しかったです。とても有意義な時間を過ごせました」


 帰りの車の中。行きは電車でここまで来たのだが、帰りは俺が送り狼になると信じて疑わない美作さんのゴリ押しによって、美作さんの運転する車に同乗する事となった。それにしても普通に運転してるな。その辺りは普通の人と同じなんだ……。免許を持たせたら駄目なタイプの人間だと思うけど。


「はは……俺はもうこりごりです……」



 後部座席に座り、俺はミラー越しに見える美作さんの顔を見ながら言った。隣に座っている乙成は疲れたのか、先程から全然喋らない。


「乙成、疲れた?」


「……え? ああ! 大丈夫ですよ!」


 話しかけられても何処かボーっとしているというか、上の空だ。思えば、あのクラゲコーナー辺りから少し様子が変な気がする。俺、何かしちゃったかな?



 そうこうしている内に、車は俺の家の前までやって来た。ただの嫌がらせなのか分からないが、アパートの塀ギリギリに車をつけて降りづらくされた。俺は、麗香さんに別れの挨拶をして、不本意だが美作さんに送ってもらったお礼を言うと、ほんの僅かな隙間から体を捻じる様にして、なんとか車から降りた。



「前田さん!」


 俺が車を降りたと同時に、乙成も降りてきた。車の中から何か言っている様な声が聞こえたが、乙成は気にせずドアを閉める。


「ちょっとこっちへ!」


 そう言って、道の角まで連れて行かれる俺。ここからなら美作さんの車は見えない。乙成は美作さんがこちらを見ていない事を確認すると、持っていた鞄から、ゴソゴソと何かを取り出した。


「さっき渡しそびれちゃったので……これ、バレンタインはもう過ぎているのですが……」


 そう言って乙成が手渡してきたのは、ピンク色の可愛い包装紙に包まれた箱だった。


「これ……もしかしてチョコ?!」


「はい! ……そんなに驚きますか? チョコ、お嫌いでしたっけ?」


「いやいや、嫌いとかじゃなくって! 嬉しいよ、ありがとう!!」


 不安そうに首をかしげて聞いてきた乙成に向かって、俺はありったけの笑顔でお礼を言った。女の子からチョコを貰うなんて……母さん以外から……こんなの初めてだ……!


「良かった……」


 ホッと胸をなでおろす乙成。これを渡すタイミングを見計らって、先程から口数少なくなっていたのか。


「え? 良かったって?」


「受け取って貰えないかと思ったので……」


「なんでそう思うんだよ? さっきだって、て、手繋いだりしたのに」


 言ってて自分で恥ずかしくなった。でも本当に、なんで俺が乙成からのチョコを受け取らないなんて思うんだ??


「家族以外の方に、こういうの渡すの初めてだったんです……初めて渡すのなら、前田さんがいいなぁって思ってて……」


 恥ずかしさでモジモジする乙成。チョコを受け取ったまま静止している俺。


 こ、ここは格好良いセリフの一つや二つ言わないと……!



「じゃ、じゃあ前田さん!!! また連絡しますね!」


「あ……」



 俺が格好良いセリフを吐くより早く、顔を真っ赤(?)にした乙成は急いで車へと戻って行ってしまった。


 アパートの前の道に一人取り残される俺。貰ったチョコの包み紙が、何故か温かく感じたのは、ずっと鞄にしまわれていただけじゃないだろう。



 俺は人生初、女の子からバレンタインチョコを貰ったのだ。



 

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