第3話

「とにかく、今度同じようなことがあったら俺に言って?」



「安田さんにですか?」



「うん。今日みたいに手伝うことはできるからね。1人で抱え込まないで。それに、俺たち同僚なんだから敬語はやめようよ」



安田の言葉に、今まで胸につっかえていた気持ちがフッと楽になるような気がした。



「あ、ありがとう!」



澄恵はそう言い、赤くなった頬を両手で隠したのだった。



「これ、昨日の分です」



翌日、澄恵は入力し終えた書類を久美へ返した。



データ化されたものはすでにメールで提出している。



「あぁ、ありがとぉ」



久美は澄恵の方を見もせず、手鏡を取り出してリップを塗り直している。



「おばあさんの様子はどうなんですか?」



「え? おばあさん?」



久美が鏡から顔を上げて怪訝そうな表情を澄恵へ向ける。



「昨日早く帰ったのは、おばあさんが骨折したからじゃないんですか?」



その問いかけに久美はようやく思い出したように目を見開く。



「あ、あぁ。そうねぇ。たぶん大丈夫かなぁ?」



首をかしげて曖昧に返事をする。



きっと、これからも同じような手で仕事を押し付けるためだろう。



それがわかっていても、澄恵にはなにも言えない。



ただ「そうですか」と、冷たい返事をするのが精いっぱいだ。



澄恵が自分の席へ戻ったとき、美穂と文音が近付いてきた。



「久美、昨日は残念だったね」



美穂の言葉に一瞬なんのことか理解できなかった。



しばらく考えて、そういえばフレンチを予約したんだったと思いだす。



「そうだね。でもまた機会はあるから」



澄恵は素直にそう言った。



フレンチに行けなかったおかげで、安田との貴重な時間を過ごすことができたのだ。



でも、それを2人に教える気はない。



「ほんっとぉについてなかったよねぇ、澄恵ちゃん」



文音が眉をハの字に曲げて言う。



はたして本心かどうかわからない。



本当に澄恵のことを考えているなら、3人でさっさと仕事を終わらせて、一緒にフレンチへ行けばよかったのだから。



文音への返事に困っていると、安田が書類を持って久美へ近づいて行った。



昨日のこともあって、つい安田のことを目で追いかけてしまう。



「これ、昨日の書類です」



「え?」



受け取った書類を見て久美は首をかしげている。



それから澄恵へ視線を向けた。



「あまりに量が多かったから、俺が半分引き受けました」



ピンと背筋を伸ばして言う安田に久美は慌てたように「そ、そうなの」と、返事をしている。



「でも、与えられた仕事は自分でするものよ。人にやらせちゃダメ」



立ちあがった久美は澄恵の前までやってきてそう言った。



澄恵はその言葉に唖然としてしまい、返事ができない。



(今この人、なんて言った?)



そもそも仕事を澄恵に押し付けてきたのは誰だっけ?



そんな空気が漂ってきても、久美本人は気にする様子はない。



すぐに自分の席へ戻ると、また鏡の中の自分に夢中になってしまったのだった。


☆☆☆


「もぉほんとうに、久美ってどうなの!」



文音が声を荒げたのは給湯室だった。



ここ、給湯室は我らがOLの強い味方になる場所。



どんな口でもここにくれば吐き出すことができる。



「ほんっとそうだよね。自分が澄恵に押し付けたんだろっつーの!」



美穂も、さっきの久美の態度には御立腹だ。



もちろん澄恵自身も怒っている。



怒っているが、どうして2人がここまで怒っているのか理解できなかった。



(おしつけられたの、2人じゃないよね……?)

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「だいたいさぁ、澄恵もキッパリ断らないからダメなんだよ!?」



突然名前を出された澄恵は驚いて数センチ飛び上っていた。



文音の言葉に瞬きを繰り返す。



「え、えっと……」



「そうだよ澄恵。久美なんかの言いなりになってちゃダメだって!」



追い打ちをかけるように美穂に言われて、「そ、そうだね」と、肯定するしかしなくなってしまった。



「だいたい久美ってさぁ、あの体型でいつもミニスカートじゃん? すっごい度胸だよねぇ」



「あはは、いえてるぅ! でも度胸があるとかないとかじゃなくてぇ、単なる勘違い、みたいな?」



「そうそれ! 今井さんがすぐに褒めるから、自分が30手前だってことも忘れてるんだよねきっと!」



2人の悪口は延々と続く。



澄恵は2人に合わせて、ただ笑顔を浮かべているだけだった。


☆☆☆


美穂と文音は同期で仲良しだけど、でも時々一緒にいることが疲れるんだよね……。



澄恵だって久美のことをよくは思っていない。



でも、仕事中に給湯室で何時間も悪口を言えるほど、悪くも思っていなかった。



2人にかぎっては久美から仕事を押し付けられた経験だってないのだ。



それなのにあれほど白熱できるのが澄恵には理解できなかった。



「福森さん」



時計の針がもうすぐ5時になろうかという頃、久美が体をくねらせながら近づいてきた。



その手には書類が握られて、澄恵は一瞬逃げ腰になる。



けれどその書類が昨日の半分以下の量だとわかると、ついその場にとどまってしまった。



「悪いんだけどぉ、今日もお願いできないかなぁ? おばあちゃんの調子があんまりよくないみたいなのぉ」



テカテカに塗ったリップで久美は言う。

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