18-11

 すくんでいた脚に再び力を入れ、踵を無理やり地面から引き剥がしたさつきは今、ツンのめるように体を前倒しにして足早に教会へと向かっている。


 あれは絶対に睦月じゃなかった。

 外見はそのままなのに中身がそっくり別の何者かに入れ替わってしまっていた。

 

 睦月の瞳に宿っていた不穏な光源。

 見つめ続ければいつのまにか捕らわれて奈落の底に引き摺り込まれてしまいそうな青黒くて不気味な虹彩の色。

 思い返すだけで身震いがしてくる。

 そして無意識のうちに踏み出していく足が止まりかける。


 さつきは首を振り、そんな自分を奮い立たせた。


 怯んでいては駄目だ。

 睦月は私が守らなければ。

 お母さんとの約束だもの。


 時々、後ろを振り返りたくなる。

 数歩後ろ。着いてくる小雪の足音が聞こえるがさつきの意識はさらにその後方、ついさっき自分が立っていた場所にまだ細い糸で繋がっている。


 あのとき、少しだけ期待してしまったのだ。

 変容してしまった睦月の様子にたまりかねたお母さんの霊が墓石の近くに現れて力を貸してくれるのではないかと、ほんの一瞬だけれど本気でそう願った自分がいた。


 おとといの夕方、あの場所で感じた不思議な気配と空気の揺らぎ。

 姿は視えなかったけれど、さつきは誰かの視線が自分に向けられているように思えた。石破さんによれば確かにそこに女の人の霊が立っていたという。訊けば容姿は生前のお母さんそのものだった。

 寂しそうで少し不安げな目をして私を見つめていたと石破さんは言った。

 それでも私は嬉しかった。お母さんはここにいて私たちを見守ってくれている。そう考えただけで胸の奥がじんわりと温かくなり、恐ろしい悪霊にも立ち向かえる勇気が湧いてくるような気がした。


 だからさっきもお母さんがどこからともなく現れて睦月を助けてくれるような気がしたのだ。

 けれど何も起こらなかった。

 お母さんは現れなかった。

 そして睦月の姿が消えた後、我に返ったさつきの胸に小さな落胆が芽生えた。


 お母さんはそんな薄情な人だったの?


 さつきはその母に問い詰めたい言葉を振り弾こうと頭を振り、そして大きく足を踏み出す。


「さつきちゃん、危ないからお屋敷に戻ろう。むっちゃんのことは石破くんに任せた方がいいよ」


 何度もそう言い募りながら小雪が後を追ってくる。

 さつきは何も答えない。振り向きもしない。

 自分の行動が理性的でないことぐらい分かっている。


 いったい何が起こっているのか、さつきには知りようがない。

 けれど睦月が何か恐ろしい者に取り憑かれていることは間違いないのだ。

 石破さんが戦っている悪霊とは別の何か。

 だとすれば霊感も何も持っていない自分が駆けつけたところで意味などないのかもしれない。むしろ石破さんの足手纏いになってしまう可能性だってある。


 けれど、それでも自分はこの足を止めることはできない。

 いや、絶対に止めてはいけない。


 お母さんは現れなかった。

 となれば、なおのこと自分しかいない。


 さつきは両手で頬をパチンと打った。


 私には睦月を守る義務がある。


 意地を張っているようなものかもしれないけれど、それを曲げてしまったらその瞬間、自分の存在意義が跡形もなく泡のように消えてしまうように思える。


 覚悟が強まったせいか、足の運びが自然に速まった。

 小雪はもう引き留めることを諦めたのか、数歩後ろからその足音だけが着いてくる。

 周囲に明るさが増してさつきが顔を上げるとちょうど石畳が木立を抜け、教会の背面が姿を現したところだった。

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