18-9

「……ヤバい奴」


 綾香は呟き、それから口を噤んだ。

 林の奥に息づいている不穏な気配。なにか得体の知れない巨大な怪獣の鼓動にも似た波動。確かに自分は感じている。

 不可思議ではあった。悪霊の霊気なら真咲がいる教会の方から漂うはずなのに、これは別の場所から忍び寄ってくるように思える。

 清々しいはずの朝の日光と空気に目に見えない瘴気のシェードを掛け、朝露に濡れた五月の草や土を霜立たせるような冷ややかで禍々しい気配。

 けれどそれは自身が所詮は素人であり霊体に関する知識がないせいで感じるバグのようなものかもしれないと思い込もうとしていた。


「まあ、でも仕方ないか。感じることと理解できることは違うからね。あれがどれほどの化け物なのかあんたには分かりっこないわよねえ」

 

 自分の心をうちを読まれたようでかえって綾香は素直に頷けない。代わりに挑むような口調が硬く結んだ唇の隙間から漏れ出ていった。


「バカにしないで。あんたこそ、それが分かっていてどうして逃げ出そうとしているの」


 すると鉄心斎はその詰問がどうにも腑に落ちないとでもいうように肩をすくめる。


「あら、心外ね。逃げ出すなんて」

「ヤバい奴がいるから逃げる。その通りじゃない」

「ふん、違うわ。私が帰る理由は報酬が見合わないから。さっきからそう言ってるはずよ」

「でも、そんなくだらない理由で……」


 綾香が睨み上げて食い下がると大男の眉根にわずかな皺が寄った。


「はあ、くだらないですって? なんにも知らない小娘が言ってくれるわね。じゃあ聞くけどあんた、お金を持たずに買い物に出かける人? 欲しい洋服やバッグがタダでもらえる? 無銭飲食は犯罪じゃないとでも?」


「そ、それとこれとは話が……」


「同じよ。いい? アタシたち隷鬼党が扱うのはどれも平安の古来より練って練って練り込まれた秘術。そのひとつひとつを完成させるのに膨大な時間と血の犠牲を払ってきた。あんたはそれを二束三文で安売りしろっていうの? ふん、お断りよ。アタシは別に好きでこんな仕事やっている訳じゃないけどね。それでも党の歴史と威信を穢すような真似はしたくない。分かった、生意気なお嬢ちゃん? じゃね、そういうわけでアタシ帰るから」


 険しかった目つきと口角が言葉尻とともに柔らかく緩む。

 そして軽く手を挙げて踵を返しかけた鉄心斎に、けれどそのとき綾香の背後からおずおずとした声が投げかけられた。


「い、いくらですか」

「はあん?」


 大男は足を止めた。

 そして振り向き、訝しげに声の主を睥睨する。


「誰、おじさん。悪いけどアタシ、年上は趣味じゃないのよね。それにお金で買えるほど安くないの。ま、罪なのは隠しきれないアタシの魅力の方だから許してあげるわ。じゃあね」


 そして投げキッスをして立ち去ろうとしたので宗佑氏は身慄いを抑えながら慌てて言い募った。


「い、いや、ちょっと待ってくれ。私はこの家の者だ。今、石破くんが戦っている悪霊が息子を襲おうとしている、そう聞いてないか。必要なら金はいくらでも出す。だから協力してくれないだろうか」


 右足を踏み出した鉄心斎がそこで動きを止めた。そしてしばらく宙を見つめたあと、「ふうん、いくらでも、か……」と呟きながら振り返った。その顔には鬼も逃げ出してしまいそうな凄みのある笑みが満面に浮かんでいた。


「じゃあ、これだけ用意できる? おじさん」

 

 そう訊いた大男は指を一本、拳から突き立てて肩口に掲げた。


「い、一千万円か。いいでしょう。大丈夫です」


 宗佑氏が表情を強張らせて頷くと同時に振り向いた綾香がそれを咎めた。


「さつきパパッ、駄目です。吹っ掛けられてるんですよ。落ち着いてください」

「いいんだ、城崎くん。それで睦月たちが無事でいられる確率が上がるなら安いものだ」

「でも……」


「お取り込み中に悪いけどさあ、お二人さん。一部訂正させてもらっていいかしら」


 見ると鉄心斎がチッチッと舌を鳴らしながら立てた人差し指を振っている。


「訂正……ってなによ」


 綾香が戸惑った口調で訊くと鉄心斎は小さくため息をついた。


「だからぁ、金額が違うんだって、一桁」


 その言葉の意味を理解するのに綾香は数秒を要した。そして大きく目を見開き、とにかくなにか糾すべき言葉を吐かなければと考えているところで宗佑氏がおもむろに口を開いた。


「す、すると……つまり一億ということだろうか」

「当たり前じゃない。一桁下がるわけないんだからさあ」


 人を喰ったような顔つきで即答した鉄心斎に綾香は思わず絶句する。次いで口を開こうとするとその唇が震えた。


「あ、あんたねえ、くだらない冗談ならもういい加減に……」


 そして眉間にキツく皺を寄せて詰め寄ろうとしたそのとき、左肩がそっとつかまれて足が止まった。


「……分かった。払おう」


 彼女の傍らから低く冷静な声が響いた。

 目を丸くして見遣るとそこに血の気を失った宗佑氏の顔が浮かんでいた。

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