18-4

 鬱蒼と生い茂る林を泥に沈み込んでいくような不穏な静けさが覆っている。

 教会の前に立ちはだかった真っ黒で巨大な影、あの悪霊の絶大な霊気がこんな離れたところにまで影響を与えているのだろうか。あるいは睦月を運んだ得体の知れない怪異がこの近くに潜んでいるのかも知れない。

 蛇行する石畳の小径を進みながら、さつきは改めてその恐ろしさに背筋を凍り付かせる。

 降り注ぐ爽やかな木漏れ日が足許に光と影のまだらを揺らめかせている。初夏の草いきれと湿った土の匂いが混ざり合って漂っている。

 変哲など微塵も感じさせない光景のはずなのに、けれどどこか色彩に乏しい。鼓膜が拾う音もわずかにくぐもって聞こえるようだ。

 そのとき喧しい鳴き声が唐突に静寂を打ち破り、さつきは背筋をびくりと強張らせた。見上げると新緑の樹葉がそこだけ切り取られたような歪な形の隙間があり、突き出した枯れ枝に鴉が二羽留まっていた。不吉さに思わず顔をうつむかせ足を止めるとその左肩にそっと手が添えられる。


「大丈夫、さつきちゃん」


 小雪の声に我に返り、さつきは毅然とした表情を作った。


「うん、平気。ごめんなさい、早く行かなきゃだね」


 そう答えて右足を踏み出そうとすると肩に添えられた手がそれを引き留めた。


「無理しなくてもいいんだよ。だって怖いのは当然だもの」


 さつきは立ち止まりかけて首を左右に振り、それから肩に乗る手を振り切るように再び進み始める。


「……小雪さんは睦月を助けたくないの?」


 喉から絞り出された言葉が意地っ張りな自分を晒してしまった気がしてさつきはどうにもやるせの無い嫌悪感を覚えた。後ろで言葉に詰まる小雪の気配がある。

 別に彼女を嫌っているわけではない。姉のように慕っている、とまではいかないけれど誰かに家族の一人だと紹介しても良いぐらいには思っている。

 けれどその反面、睦月のことになると途端にムキになってしまい、苛立ちも隠せない。


 睦月の母親代わりをして良いのは自分だけだ。


 その頑なな想いが小雪の睦月への在り方を否定し続けている。


 ホームヘルパーを兼ねた牧師として小雪が我が家に住み込み始めたとき、当初は少しばかり警戒したものの彼女の気さくさや明るさに触れてすぐに打ち解けられるようになった。またとうに限界を超えていた家事を含めた雑事の負担が軽くなることが単純に嬉しく、小雪が来てくれたことに深く感謝していた。もちろん睦月のことについても特に偏見は持たなかった。むしろ自分に対してことごとく反抗の態度を見せる弟が小雪の言うことには素直に従うのでとても助かるとさえ思っていた。

 その気持ちが一変してしまったのは昨年の冬の初め。強い風が吹き荒ぶある夜のことだった。

 進路について相談したいことがあり、父の書斎のドアをノックしようとすると不意に中から声が漏れ聞こえてきた。


「小雪さん、例のこと考えてもらえただろうか」


 それは珍しく少しうわずったような父の声だった。

 思わずさつきはノックするはずの手を止め、耳をそば立てた。


「あの……本当に私などで良いのでしょうか」


 戸惑いの色が滲む小雪の声が終わらないうちに父の言葉が被る。


「ああ、もちろんだとも。子供たちもよく懐いているし、キミしかいないと思っている」


 頭の中が真っ白になった。

 無意識のうちに踵を返し、足音を立てないように廊下を引き返していた。そして途中からは駆けて自室に飛び込み、後ろ手にドアを閉め、その場に立ち尽くした。

 どうやら呼吸さえ忘れていたらしいとようやく気がつき、胸に溜まっていた息を一気に吐き出した。そして浅く速い呼吸を繰り返すと次第に思考が戻り始め、次いで父の一言が頭の中でめちゃくちゃに乱反射する。


『キミしかいない』


 いくら中学三年生でもその言葉が示す意味がひとつしかないことぐらい理解できる。


 パパと小雪さんが結婚するかもしれない。

 

 まさに青天の霹靂だった。

 ようやく落ち着いてきた呼吸とそれに反比例するように酷くなっていく動揺を持て余し、さつきはフラフラとよろめきつつベッドに腰を下ろした。


 ……どうしよう。


 雲をつかむような漠然としたその自問はやはりどこにも行き着かず、その疑問符だけがいつまでもグルグルと周回を続ける。けれどそれでも時間が経つにつれ、いくつかの具体的な帰結点が現れ始めた。


 ママはどう思うだろう。


 自問とともに母親の顔を思い浮かべるとすぐに答えが浮かんだ。


 きっと笑って祝福するに違いない。

 母はそういう人だった。

 綺麗で賢くて穏やかで、それでいて時々おっちょこちょいで、底抜けにお人好しで……。

 母親のことを思い出すと自然に頬が緩む。

 

 ママなら一も二もなくパパと小雪さんを応援するだろうな。


 その想像は少し寂しくもあったけれど、さつきはならば自分もそうするべきだと心に決めた。

 

 思考がそこから一歩前に進む。

 

 じゃあ、パパと小雪さんが結婚したら小雪さんが私のママになるわけ?


 思わず顔をしかめた。苦笑いに頬がわずかに歪んだ。

 あまりにも想像が付かないし、なんだかくすぐったい。

 しかしながら別にそれでも構わないと思える自分がそっと顔を覗かせる。

 それでパパと小雪さんが幸せになるのなら受け入れられるような気がする。

 

 となると小雪さんは睦月の母親にもなるわけか。


 ふと浮かんだその当然の結論に、けれど瞬間さつきは心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。


 駄目だ。それだけは許せない。

 

 網膜の裏に鮮明に甦るあの日の光景。

 そして息を引き取る間際の母に向けて放った自分の言葉。

 未だ鼓膜の奥にへばりついて離れない自分の声。


「ママ、睦月のことは任せて。私がお母さんになるから大丈夫だよ」


 そのとき母の唇が微かに動いた。

 耳をそばに寄せても聞こえてくるのは浅く吐く息の音だけだったが、「お願いね、さつき」と心に響いてきたように思えた。

 以来、家庭内のさつきは常に睦月の母親として振る舞っている。


 それをいまさら……。

 

 小雪さんとパパが一緒になるのは構わない。

 けれど睦月の母親代わりを許されるのは自分だけだ。

 他のことはともかく、この約束だけは絶対に破るわけにはいかない。

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