12-2

 ※ 作中に少し残酷な表現が含まれますのでご注意くださいませ。


 自分の中に他人とは全く異なる資質が含まれていると気がついたのはいつの頃だっただろう。

 それについてもあまり明確には思い出せない。

 ただいくつかの断片的な記憶は残っている。


 私が九歳を数えてすぐの春先、夕食を終えて自室に戻ろうとした時に屋敷の厨房から控えめな悲鳴が聞こえてきた。足を止めてそっと覗き込むと給仕の女が手を口に当てて、もう一方の手で並んだ竈門のひとつを指差していた。

 そして料理人の男が「どこだ」と訊いている。

 彼らの会話からどうやらネズミが出たらしいと分かった。

 なんだそんなことかと身を翻そうとしたその時だった。

 給仕の女がまた短い悲鳴を上げた。

 目を遣ると指し示していた竈門の隅から白く小さな生き物が顔を覗かせていた。

 料理人がそっと近づき、素早く手を差し向けて捕まえようとした。 

 けれどネズミはそれをあっさりと躱し、目にも止まらない速さで男のそばをすり抜けた。集まっていた使用人たちの目が一斉にそれを追う。そして口々に短い言葉や小さな悲鳴を発しながらネズミを囲い込んだ。

 その慌てふためく彼らの様子がなんだか可笑しくて私はそのくだらない茶番をずっと見つめていた。

 そのうちに逃げ道をことごとく塞がれたネズミが使用人の一人の足下に狙いを定めて強行突破を計ったが、気の毒なことにそれは失敗に終わった。

 すなわちネズミは男が振り下ろした草履の下敷きになってしまったのだ。

 刹那、女が喉元に押さえ込む悲鳴が蝦蟇がまのような声になって響いた。

 踏みつけた男が顔を顰めながらその足を持ち上げ、次いで周囲の男たちがわずかな歓声と笑声を漏らした。

 その安堵と嘲笑が混じる終幕の最中、私の瞳は彼の足下に変わり果てた姿を露わにしたネズミに釘付けにされていた。

 ついさっきまで驚くほど素早い動きで大人たちを翻弄していた小さな動物が、今は微動だにせず床に体をへばり付かせている。

 それが本当に不思議で興味深く、私は無意識のうちにその場に足を進めていた。

 近づいてみると裂けたネズミの腹からは鮮血と共に滑らかな曲線を描く臓物が奇妙な形状のまま溢れ出していた。

 また飛び出した片目が尖った髭の上に身を横たえていた。

 さらに覗き込むと灰色の土間床にネズミの鼻から吹き出された血液が小さな放射状の斑点を作っていた。

 そして間歇的に起こる微かな痙攣を目にとらえた私の身の内にこれまでに感じたことのない感情がふわりと湧き立った。

 あれをもっと近くで見たい。

 そしてこの手で触れてみたい。

 その衝動のまま伸ばした右手は、けれどそれに気がついた使用人に阻まれてしまった。


「あ、いけません、櫂世かいせ坊っちゃん」


 手首をつかまれた私は抵抗してなおも左手を伸ばしたが、別の人間にそれも止められてしまった。


「駄目ですよ。ネズミに触ると病に罹ります」


 膝立ちの姿勢を抱き起こされた私は厨房の外に連れ出された。


 その夜、私はなかなか寝付けなかった。

 目蓋を閉じるとその裏側に踏み潰されたネズミの死骸が鮮明な像を作り、私は目を見開いた。

 暗闇に覆われた天井を見つめながら、ふと思った。

 あれほど素早く走り回っていたネズミの生命力はいったいどこへ行ってしまったのだろう。

 命というものが目に見えない形であるとして、それが一瞬で消えてしまったことがやはり不可解で、けれど幼い私にとっては胸をざわつかせるほどに魅力的な事象でもあった。

 なによりも目に焼きついた緋色の血液と赤黒い臓物を思い起こすたびに得体の知れない高揚感が訪れた。

 そうして眠れないまま、夜が更けていったことを憶えている。


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