10. Into the Memory 48 - 63
10-1
ここはどこだろうか。
視線の先に狭小なセピア色の世界。
映写機が映すスクリーンのように時折、縦ヒビのノイズが入る古めかしい映像。
やはり古い霊の記憶は鮮明さに乏しい。
キヨは浅く激しい息遣いをしている。
走っているのだろうか。
いや、違う。
ぼやけてはいるが景色はほとんど静止している。
けれどよく見ると視界の中央部分に微かな蠢きがある。
なんだろう。
動いているのは人の手のように見えるが判然とはしない。
そしていやに視野が狭い。
ああ、なるほど。
周囲が影になったこれはおそらく戸口の隙間か、もしくは壁に穿たれたピンホールあたりから覗いている映像だろうか。
ということはキヨはこの映像を隠れた場所から捉えていると考えられる。
けれど、それならばもっと息を潜めなければならないはずだが。
俺はその理由を求めて視界の中央に存在するぼんやりとした明るみに意識を集中する。
キヨが瞬きをしたのだろう。
一瞬だけ視界が暗く閉ざされた。
そしてすぐにまた光を取り戻す。
再開した映像はかなりクリアな画質となった。
最初、彼女が覗いているそこは陽の差し込む明るい室内のように思えたが、よく見ると眩いのは部屋の中央だけで周囲は暗闇に包まれていた。
その白浮きした視界の中心で蠢いているのはやはり人間の手だったようだ。
腕の持ち主は白っぽい衣服を身につけ、顔の下半分も白いマスクのようなもので覆われている。そして頭にはやはり白い頭巾のようなものを被り、手前には低い卓台(キヨの目線とほぼ同じ高さ)が据えられているため腰から下は見えない。
身長を比推できるものがないので確実ではないが、肩幅や首筋の太さからその体躯は男性のものだと思われる。また大きな円盤状の電燈が男の頭よりも少し高い位置に浮かんでいて、眩い光はそこから彼の手元に向けて放たれているようだった。
彼はキヨが覗く透目の正面に向かい合うように立ち、卓台の上で概ね忙しなく、けれど時としていくぶん慎重な手付きでなにかしらの作業に没頭している。
再び次第に視界がぼやけてくる。
息遣いは荒いまま、キヨが微かに鼻を啜る。
もしかして泣いているのだろうか。
涙のせいで視界が不鮮明になるのかもしれない。
そしてまた瞬き。
えっ……。
思考がフリーズした。
俺は何を見たのか。
一瞬、卓台から別の手が持ち上がったように……。
そう思った次の瞬間、男が着ている白服の胸から腹のあたりにいきなり黒っぽいまだら模様がパッと浮かび上がった。
刹那、キヨが息を詰める気配。
じんわりと視野がぼやけ、ゆっくりとした瞬き。
暗転する視界。
それから次いでゴリッゴリッという奇妙な軋轢音が続き、そこに男のものであると思われるウッウッという力を込めるような声が混じり聞こえてくる。
男は何をしているんだろう。
キヨが目蓋を開いた。
明瞭な視界。
不審げに見つめる俺の目線があるものを捉えた。
シンプルなハンガースタンドのようなものから逆さに吊られた瓶とそこから下に落ちていく細い管。
あれは点滴だろうか。
どうやらそれは卓台の上に置かれた何かに繋がっているらしい。
台の上の何か……?
どうして見落としていたんだろう。
確かに何かがそこに置かれている。
黒い布を掛けられているようだが、それはわりと大きな膨らみ……。
あらぬ想像にスッと背筋に冷えを覚えた。
さっきの手はもしかして……。
気付けばキヨの息遣いがさらに浅く速くなっている。
何度も視野がぼやけ、頻繁に瞬きを繰り返す。
そのときだった。
ひと際大きな轢音が響き、男がため息のような長い息を吐いた。
そしておもむろに何かが持ち上げられる。
それを見た俺はキヨの視界の中で瞠目し、息を詰めた。
同時にキヨも呼吸を止めた。
そして片手で口もとを押さえる気配があり、目蓋がギュッと閉じられる。
訪れた暗闇。
けれど一瞬前に俺の意識視覚はしっかりとその物体の輪郭を捉えていた。
男が両手で持ち上げたそれは切り離された一本の細い腕。
その両端には血の気を失った白い指先と肩口から滴る黒っぽい液体。
男の満足げな含み笑いが聞こえた気がした。
そこにキヨが発した微かな悲鳴が重なる。
彼女の目蓋がパッと開かれた。
視野の中央に男の姿。
台に戻したのか、その手に切り離された腕はない。
代わりに声が聞こえた。
「……誰か、そこにいるのか」
密やかに発せられたそれは陰湿な掠れが混じるバリトン。
視界からフッと男の姿が消える。
突然、景色が変わった。
そこは弱く黄ばみがかった光がぼんやりと支配する薄暗い場所。
視界の正面に草蔓の彫刻が枠に施された頑丈そうな木製扉がある。
そのドアノブの下に白々とした歪で小さな光の領域。
そうか、キヨはあの鍵穴から覗いていたのか。
慄くように後退るキヨの視野。
そのとき背後に軽い衝撃を感じた。
おそらくは背中が壁に当たったのだろう。
そして悲鳴にも似た喉を裂くような音を伴う浅く速い呼吸。
溢れ出す涙で滲み、繰り返される瞬きと相まって視界はもはやフラッシュ映像。
やがて彼女が視野の中心に捉えていた銀色のドアノブが微かに回った。
そして響いたカチリという不穏な音に続いて扉がゆっくりと開き始める。
「……誰だ」
ドアの隙間から再び響いてきたその低く悍ましい声にキヨは一瞬大きく目を見開き、そしてひとつ目の記憶はそこで終わっていた。
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