9-5
空模様と夕暮れが近づいている所為で屋敷のエントランスは昨日とは打って変わってその凄烈ともいえる煌びやかさを無惨に失っていた。
光に足を埋めるようだった大理石の床は色彩を失った灰色の盤面と化し、壁際の絵画や彫刻もすべからく不穏な翳りに包まれている。
見上げるとドーム天井に描かれた女神がどこか訳知り顔で怪しい笑みを浮かべていた。
俺は一度あたりを見渡し、振り返って訊く。
「睦月が消えたのはこの辺りで間違いありませんか」
その質問に雑賀さんは深刻な表情で肯いた。
「ええ、そうよ。その階段の降り口のところでムッちゃんは消えたの」
彼女が指差した床に目線を落とした俺は次に左に向き直り、ひとしきりそこにある石造りの暖炉を見つめた。
目を凝らすとそこにわずかだが次元を歪めた痕跡がある。
睦月はあそこから霊界に連れ込まれてしまったのだろう。
だがそれをもう一度開く術はない。
たとえて云えばそれは内側から鍵を掛けた頑強な鉄扉を開けるようなものだ。
ミシャでさえそんな剛力は持ち合わせてはいない。
また、ここで無茶をする必要も意味もない。
ならばどうするか。
俺は視点を変えて考える。
キヨと名乗ったか。
あの少女の霊は最初に確かこう訊いた。
『……ねえ、どうしてきたの』
思い出してみるとその舌足らずな第一声は少し奇妙だ。
普通なら闖入者が何者なのかとまずは問うだろう。
それが『どうして』といきなり訪れた訳を訊いている。
彼女にとっては俺の素性よりもが来た理由の方が重要なのだ。
それにキヨは自分の存在が俺に感知されているとは思っていなかったようだ。
とすれば、彼女はここを訪れた者全てに同じ問いを繰り返していたのかもしれない。
次に俺はキヨの容姿を出来うる限りに思い出してみる。
粗末な藍色のかすり着物。
鼻緒の取れかけた草履。
面立ちも手足も痩せ細って見えるおかっぱ頭の幼い女の子。
彼女はその見た目の通り、屋敷に住んでいた者ではないと答えた。
ではなぜこの場所に居着いているのか。
その疑念は俺の思考を少しばかり剣呑な想像へと向かわせる。
推測通り睦月を連れ去ったのがキヨだとすれば、彼女は存外大きな霊力を持っているということになる。
霊力の多寡、それはすなわち残心の量だ。
つまり彼女はなにか大きな心残りを抱いたまま命を失ってしまったということに他ならない。
また、もしそうであるならこの場所こそがキヨの死地である可能性が高い。
いったい生前の彼女にここで何が起こったのか。
巨人の悪霊と関係はあるのだろうか。
そしてなぜ睦月を連れ去り、匿っているのだろう。
いくつもの疑問が押し寄せてくる。
けれど俺は今のところその謎を解き明かす十分な情報を手にしてはいない。
なんとかしてキヨをこの場に呼び寄せられれば良いが、睦月を隠してしまった彼女がそう簡単に呼びかけに応じることはないだろう。
けれど同時に睦月を霊界に引き摺り込むほどの霊力を使ったと考えれば、それほど時間が経っていない今なら痕跡をたどることも可能なはずだ。
となれば、気は進まないがやはりあの方法しかないか。
俺は誰にも悟られないようにそっとため息をつき、それから目を閉じてミシャへのチャンネルを開いた。
『というわけでちょっと出掛けてくる』
『ほほう、いつもより腰が軽いではないか。睦月とかいうあのボウズがそんなに大事なのか』
ずいぶんなことを言ってくれる。
俺は不貞腐れて見せた。
『あのな、どんなときでも俺は人命最優先だろうが』
『ふん、そうだったかのう。まあ、いい、留守は任せておけ』
軽々しくそう請け合ったミシャを俺はジロリと睨んだ。
『一応言っておくが、くれぐれも余計な事をするなよ』
『なんじゃ、余計な事とは』
そう訊いたミシャの顔に不吉な笑みが浮かんだのを見て俺はげんなりした。
そしてさらに睨め付けるような視線を彼女に向けて言い放つ。
『身バレするような事はやめろと言ってんだよ。違う人格に入れ替わったと知られたら面倒なことになるだろうが』
けれどミシャにはその喧しい忠告も暖簾に腕押し、一向に手応えはない。
『分かっておる、分かっておる、ワシは何もせんぞ。心配せずとも良い、おとなしぃくしておるわい。じゃから行け、早う行け、ほれ』
そう言って厄介払いするように手を振るミシャに気掛かりを覚えつつも俺はひとまず通信を切った。
そして目蓋を伏せて黙り込んでいた俺を不審げに見つめていた彼らに目線を配り、言伝をする。
「これから俺は睦月を連れ去った者の気配を追って意識体を飛ばします」
「え、それってどういう……」
柏木が怪訝な顔を向けてくる。
「まあ、簡単にいえば幽体離脱だな。肉体から剥離させた意識で睦月を連れ去った者の思念を探るんだ。上手くいけば隠し場所を突き止めるヒントが得られるかもしれない」
柏木はなんとなく肯いたものの、やはり理解は追いつかないようですぐに首を傾げた。綾香には以前にも見せたことがある所為かただ黙っている。
柏木父と雑賀さんは二人並んで立ち尽くし、やはり黙って俺を見つめた。
「しばらくの間、意識を失ったようになりますが心配は無用です。ただ、もしかするとその間に訳の分からないことを喋ったり、おかしな行動を取ったりすることがあるかもしれませんが気にしなくていいです」
ミシャが粗相をした場合の保険だが、それでもやはり不安は残る。
が、この際多少のリスクには目を瞑るしかないだろう。
俺は後ろ髪を引かれる想いを断ち切り、その場に胡座を掻いて座った。
そして目を半眼にして心を落ち着け、漂う霊気の残滓に意識を集中していく。
深く、深く……潜り込んで……いく。
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