それは、事件にもならない
氷垣イヌハ
第1話 探偵の行くところ
聞くところによると、名探偵のいく所というのは何かしら事件が起きるものらしい。その真偽のほどはそれとして、かく言うこの私も探偵をやっている。
名探偵というと、何かしらの事件が起きたときは華麗な推理のもとに犯人や原因を突き止め真相を暴き出すものだというが、私のそれはちょっと違う。
探偵といっても、私の仕事は不倫調査や借金を踏み倒した人物の行き先調査のようなものが多い。不倫調査なら張り込みや、対象の交際費の調査など地味でその上時間のかかるものだし、借金の取り立ては交友関係、目撃情報、直前の行動がどうだったかなどの聞き込みから段階を踏んでターゲットを追わねばならない。
それでいて受け取れる金額は安いと来た、あまり割のいい仕事ではない。
そんな私は毎度のことだが不倫の証拠を得にとある温泉旅館に来ていた。
その仕事先の旅館で、事件が起こった。
宿泊者の男性が何者かに刺されたのだ。
鍵のかかった部屋。細身だが決して筋肉がないわけではない比較的長身の男。仰向けに倒れる、その腹部には根本近くまで刺さった刃物が、垂直に突き立てられている。
先の話が真ならば、この私も名探偵の仲間入りということになるのだろうか?
私が本当に名探偵になったとしたら、ここで事件の犯人や手口の一つも解き明かし、事件の真相を暴き出さねばならないところだが、残念ながらその辺は専門外だ。
推理などせずとも大抵の事件は警察の仕事。探偵の私が出るまでもない。
そもそもそんなことは、この私には役不足も甚だしい。
しかしながら、今回の事件についてなら私にもすぐに犯行の手口も男性を刺した犯人の正体も突き止めることができる。これは、推理するまでもない。
もっと言うならば、これは事件にもならない。
なぜならば、私は犯人が犯行に及ぶまさにその時、現場にいてその最初から最後までをこの目でしかと見届けているのだから。
だから、華麗な推理劇を披露するまでもなく、ここで私がただ一言、犯人はあなただと指させば事件は終わる。まあ、そんなことを私がすることは絶対にないのだが。
なぜしないと非難する気持ちもわからなくもないが、今現在の状況ではそうできぬのだから仕方あるまい。
なぜならこの密室の中でただ一人、腹部に刃物が刺さったまま仰向けに倒れる男。
その
所で、事件というものはどういったときに成立するかご存じだろうか。
普通の人なら、今回の事件で言えば、私が犯人に刺された時点を思うだろう。
真の意味では正しい。この国の法律においてもそうだ。
だが、実際には違うのではないだろうか?
果たして、自分の全く知らぬ世界の片隅で起きたことなど、だれが事件として扱うだろう。
事件が事件として始まるとき。それは事件が事件として広く人に認知された時だ。
簡単に言えば、事件が起きたことを皆が知ったとき事件は起こったといえる。
だから、これは「まだ」事件にはならない。
この密室で私が刺されて倒れていることを知るものは、今この時点では、私を刺した犯人と被害者たる私自身しかいない。まだ誰も気づいてはいないのだ。
まもなく誰かが気付くのだろうが、今はまだこれは事件にはならない。
正義感あふれるものならば、まずは役者をそろえてほしい。
まずは、この出来事の発見者。
それから、なんにでも首を突っ込みたがる、『名探偵』が必要だ。
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