サイコバグなお兄ちゃん、Vtuberになる。

にいるあらと

一章

第1話「お兄ちゃん。一緒にVTuberやってみない?」

「ね、お兄ちゃん。一緒にVTuberやってみない?」


 部屋でゲームをしている時に、高校三年生にもなるのに小さな頃からの『お兄ちゃん』呼びが変わることがない僕の妹、恩徳おんとく礼愛れいあにそう言われた。


 『一緒に』という物言いからわかるように、僕の妹はVTuberをやっている。


 総合電子機器メーカーのIT関連の子会社が昨今の情勢を受け『New Taleニュー テイル』というVTuberのマネジメントを請け負う事務所を設立したそうで、礼ちゃんはそこに所属している。


 礼ちゃんが『一緒にやろう』なんて誘うのだから、おそらくは僕もその事務所に所属して一緒にVTuberとして活動しよう、ということなのだろう。


 あまりにも唐突なことだったので返答に窮していると、僕のリアクションを待たずに礼ちゃんは続けた。


「お兄ちゃんはゲーム上手だしお話もおもしろいし、それに声だって聞き取りやすくていい声じゃない? きっと人気出ると思うんだよね」


 可愛い妹に手放しで褒められるのは悪い気はしないけれど、事実とは異なるのでやんわりと否定しておく。


「はは……ありがとうね。でもゲームがうまい人なんていくらでもいるからね。それに、僕の話が面白いって感じるのは礼ちゃんが聞き上手なだけだよ。僕は学生時代、中庭でお昼ご飯を食べてる時に先輩から『君と話してると眠たくなる』って言われたことがあるんだ。実際にその人はご飯を食べ終わったらお昼寝しちゃってた。僕は話し始めて二分後には相手を寝かしつけられるくらいの逸材だよ?」


「それはきっとお兄ちゃんが落ち着く声をしてるからだよ! その人はきっとリラックスして気持ちよくなって、だから寝ちゃったんだ! それくらいいい声をしてるんだから、使わない手はないよ!」


「そ、それはとても前向きで……うん、ポジティブないい考え方だけど……」


「自分の声なんて自分じゃわからないものでしょ? つまりお兄ちゃんの声の良さは客観的にしか判断できないの。この場にはお兄ちゃん以外には私しかいなくて、客観的に判断できるのは私しかいない。その私がいい声だって言うんだから、つまりいい声なの」


「そ、そうなんだ……。えっと……あ、ありがとう?」


「どういたしまして」


 礼ちゃんの評価は身内贔屓という色眼鏡によってだいぶ脚色が施されていると思うけれど、たしかに否定はできない。自分の声がどんなふうに聞こえてるかなんて自分ではわからないものだ。


 困惑していると、礼ちゃんはモニターに向けていた顔を僕に向けた。肩ほどまでの長さの柔らかな黒髪がふわりと弾む。いつもは前髪で隠れているおでこをちらりと覗かせた。


「楽しいよ、きっと。楽しくなるよ、今よりずっと。それにお兄ちゃんと一緒にできたら私も嬉しい」


 普段はわりと鋭く見える瞳が今は穏やかに細められていて、整えられた眉は八の字を作っていた。


 礼ちゃんが多少強引にでも僕を動かそうとしているのは、僕のことを心配しているからだろう。


「ううむ……」


 VTuberになるにあたって必要になる技術的なことや知識的なことについては一度脇に置いといて、時間という側面だけに目を向ければ、僕に問題はない。


 一か月前、僕は二年と少しほど勤めていた会社を辞めた。


 僕が勤めていた会社はそれはそれは過酷ブラックな職場だった。記憶には残っていないけれど、仕事を終えて帰ってきた僕は家の玄関で倒れていたらしい。学校から帰ってきた礼ちゃんが発見してくれたそうだ。


 目覚めた時にはベッドの上で入院が決定していた。そこからは病室に泊まり込む勢いで心配してくれた礼ちゃんが父に連絡し、父経由で過重労働や労働災害などに明るい弁護士の先生を紹介してもらって対応した。


 そんな一大スペクタクルチックな紆余曲折を経て、今や僕はどこに出しても恥ずかしい立派なニートとあいなった。


 結論。


 時間ならある。潤沢に持て余している。


 きっと礼ちゃんは僕の将来を心配して、とりあえず何か動いたほうが精神的にも社会的にもいいと思ったのだろう。


 優しい子なのだ、礼ちゃんは。


 そもそも倒れはしたものの、すでに肉体的な問題は解決したし、精神的には最初からあまり影響を受けていなかった。今は至って健康だ。


 なんなら弁護士先生が辣腕を惜しげもなく披露して、過小に計算されていた労働時間と未払いだった残業代、休日出勤などの手当て等々の手続きまで処理していただいたおかげで纏まったお金が手元にある。さっさと自立して一人暮らしでも始めて、再就職していてもおかしくはなかったくらいだ。


 今僕は、こう言っちゃなんだけど先行き不透明かつ不安定なVTuberよりも、安定したお仕事を探すべきなのではないか。


 家を出て離れ離れになるのはとても寂しいけれど、いずれは礼ちゃんもいいパートナーと出会って結婚する時がくる。こんなに可愛い優しい賢いその他諸々合計三拍子以上揃っているできた妹だ。引く手数多だろう。


 家族といえど、兄妹といえど、ずっと一緒にはいられない。


「うっ……ぐっ」


 どうしよう、想像しただけで比喩ではなく胸が痛い。狭心症と診断された時よりも心臓が締め付けられるように痛い。こんなことでは、礼ちゃんが嫁に行ったら確実に胃に穴が空く。いや、もう空いたかもしれない。空いた。


「ごふっ……」


「お兄ちゃんっ!」


 僕が急に胸を押さえてうずくまったことで、礼ちゃんに誤解させてしまったようだ。体を気遣うように背中をさすってくれた。


「ご、ごめんっ! ごめんなさい! そっ、そうだよね?! お兄ちゃん、ずっと大変な思いしたんだもんね?! これまでいっぱい頑張ったんだもんね?! もっとゆっくり休んでてもいいよね!? ごめん、ごめんなさいっ……」


「……礼ちゃん、大丈夫だから。僕のほうこそごめんね。心配してくれてありがとうね」


「お、お兄ちゃ……っ」


 悪いのは僕だ。


 いや、悪いのは本当に僕だ。僕しか悪い奴はいない。


 勝手に嫁に行くことを想像して勝手に心に深手を負って勝手に自爆した面倒くさいお兄ちゃんになんて、謝る必要は皆無だ。


 いずれは必ず訪れる未来なら今のうちに予行練習として、可及的速やかに家を出て一人暮らしするべきだ。礼ちゃんがいないという生活に早く心臓を慣らしておかなければ命が危ない。


 ついに僕にも妹離れをする機会が訪れたのだと、そう前向きに捉えることとしよう。


 寂しいけれど、仕方のないことなのだ。


 覚悟を決めて、礼ちゃんに向き直る。


 言うのだ。『もう一緒にはいられない』と。『仕事を見つけて家を出る』と。今、この場で。


「楽しそうだよね、VTuber。できるなら、一緒にやりたいなあ」


 ああ、意志の弱い僕をどうか許してほしい。


 でも仕方のないことなのだ。


 ここでいきなり『VTuberにはならない。僕は家を出る』なんて言い出したら、礼ちゃんが泣いてしまうかもしれない。僕にとっては、その一点のみが重要なのだ。


「ほ、ほんとに? 無理、してない? 私がお願いしたからって、無理してない?」


「無理なんてしてないよ。礼ちゃんが楽しそうにゲームの実況とかやってるの観て、すごいなあって、輝いてるなあって思ってたんだ」


「そんな、輝いてるだなんて……恥ずかしいなあ。……ん、ちょっと待って? 私の配信観てたの?」


「あっ……」


「恥ずかしいから観ないでって約束したのに!」


「『私の配信観ちゃだめだからね』って言われたから、礼ちゃんのチャンネルでの配信は観てないよ? 有志が編集してアップしてくれている切り抜きを楽しんでるだけであって」


「屁理屈だよねそれ! もう! いつの観たの?! 昨日のとか観てないよね?!」


「母さんから頼まれてたお手伝いを消化してたから、まだ観てないね。作業を済ませたあとの楽しみにしてたんだ。お茶菓子でもつまみながら観させてもらおうかと」


「優雅に観ようとしないで! 観ないで! 観ちゃだめだからね!」


「あはは」


「なんの笑いなの?! ごまかされないからね!」


 このままでは切り抜きすら観られなくなってしまいかねない。ここは策を弄さねば。


「でも、仮に僕もVTuberとしてやっていくことになったとしたら、礼ちゃんは同僚……じゃないか、先輩になるわけでしょ?」


「え? ま、まあ……そうなるの、かな?……えへへ、お兄ちゃんが後輩かあ……」


 先輩後輩というワードがそんなに琴線に触れるのか、嬉しそうに、それでいて照れくさそうに身をよじりながら小声で呟いていた。


「だから、先輩が頑張っている光景を目に焼き付けるのは、配信者として勉強をしていく上でとても大事なんじゃないかな? 配信を観てくれている人たちを楽しませるにはどうすればいいか、参考にしたいしね」


「……そっか、そうだよね。なるほど……それならしかたない、のかな?」


「うん、仕方ないね」


 どこまで観ていいかは指定されていないので、拡大解釈すれば配信は全部観ていいということになる。これまでやった配信もさかのぼって観させてもらおう。


「それじゃ、さっそく応募の準備しよっか! 違う企業さんだといろいろ条件あったりするけど『New Tale』はそのあたり緩いからね。これといって制限はないし、動画で特色出していければきっといけるよ! お兄ちゃんだからやっぱりFPSかなあ。あ、でも声もすっごくいいからそっちでもアピールしたいなあ。歌とかかなあ」


 乗り気な礼ちゃんには悪いけれど、応募したところで受かるとはまるで思っていない。


 礼ちゃんが『New Tale』に入るということで以前調べたことがあるけれど『New Tale』に所属している男性Vtuberは一人しかいない。その一人だって長いこと活動休止状態だ。もはや女性しかいないVtuber事務所という認識になっている。


 そんな中で、これといって取り柄もなければ配信者としての心構えも技術も経験も持ち合わせていない男の僕が選考を通るとは到底思えない。


 しかも『New Tale』はVtuber事務所としては三本の指に入るくらいに人気のある事務所だ。応募者はとても多くなると予想される。僕が仮に本気で自己PRして書類なり応募動画なりを送ったとしても合格できる可能性は限りなくゼロに近い。


 オーディションに落ちたら、礼ちゃんも少しはしょんぼりしてしまうかもしれないが、さすがに仕方がないと諦めてくれるだろう。そこで駄々をこねるような礼ちゃんではない。


 職探しをしながらほとぼりが冷めるのを待ち、家を出る準備を進めよう。そうすれば礼ちゃんが変に罪悪感を抱くこともないはずだ。


 一分の隙もない計画だ。


 ただ、隙はなくとも懸念はあった。


「ねえ、礼ちゃん」


「……歌、ボイス……恋人シチュエーションのボイスドラマとかも捨てがた……え? どうしたの、お兄ちゃん?」


 聞き捨てるにはあまりにも意味深がすぎる発言が一部あったが、触れるのも怖いので記憶に蓋をして流しておく。


「僕が礼ちゃんのお兄ちゃんだってことはしばらく秘密にしておいてね」


「どうして?」


「他の応募者に対して不公平になったらいけないでしょ? そういうのってあまりよくないと思うんだ」


 懸念というのがそれだった。他の応募者がどうこうというのは建前でしかない。


 もし万が一、オーディションを突破してしまう可能性が存在しているのなら、それは礼ちゃんの兄だからという縁故採用的なルートだろう。その可能性を潰すためにも、礼ちゃんには口を閉ざしていてもらおう。


 そしてついでに、炎上対策のリスクヘッジでもある。


 今のネット社会、何が理由で人の反感を買うか予想できない。配信者の知り合いを採用するのはわりとある話らしいけど、コネクションを使って自分の都合を押し通そうとしたなどと悪意ある捉え方をされないとも限らない。


 リスクの芽は念入りに摘み取っておかなければならない。


「ああ、なんだ、そういうこと……。ほんと、お兄ちゃんってそういうところあるよね。自分に有利になりそうなら、なんでも使っちゃったらいいんじゃないかなーって、ふつうは思うよ」


「Vtuberになったら否が応でも正々堂々やるしかないんだから、ずるい手を使ってオーディションに受かってもしょうがないよね」


「あはっ、やっぱりお兄ちゃんはお兄ちゃんだなあ」


 おかしなことを言った覚えはないけれど、礼ちゃんはすごく笑顔になっていた。よくわからないけど、礼ちゃんが幸せそうならそれでいいです。


「それじゃあ応募する動画作り手伝ってもらっていい? 僕は詳しくないからさ」


「うん! まかせて!」


 花も恥じらい月も隠れてしまうほど華やかにして輝かしい笑みで、礼ちゃんは迷うことなくお願いを引き受けてくれた。


 忙しい礼ちゃんの貴重な時間を削るのは心苦しいけれど、一緒に動画作りするくらいのおいしい思いはしていいだろう。この一件が過ぎ去ればこの家から離れることになるのだから、兄妹で共同して簡単な動画を一本作った、なんていうささやかな最後の思い出くらい、作っても許されるだろう。


 あと何度見られるかわからない目がくらむほどの礼ちゃんの笑顔を、僕は網膜に焼き付けた。

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