#08 ないたりなに別特の君
店の雰囲気は決して悪くない。薄暗い照明の下、カウンターの向こう側で色とりどりの酒瓶が輝いている。カウンター席のほかに二人がけの席が三つ、四人席が二つと割りと広い。テーブルはどこもピカピカに磨かれていて、マスターが笑顔で「いらっしゃい」と挨拶してくれた。
「なんだ、蒼井くんか」
「お久しぶりです、マスターお元気そうで」
「今日は彼女連れか。いいなぁ、若いって」
ジャズでも流れていそうな雰囲気だけど、実際はアニソンだった。しかも有名なアーティストが手掛けたアニソンではなく、アニメの途中で流れる挿入歌だ。アニメの登場キャラ(声優だが)が歌う、アニメを知らないとまったく乗れないタイプのアニソン。横を見ると莉愛が無表情で奥の席に着いた。ご機嫌斜めのようだ
「あ、すみません、今日はA禁止で」
Aというのは『アニメの話題』というこの店独自の隠語だ。一人のときはアニメの話題が大丈夫でも、アニメにまったく興味のない人を連れてきたときにアニメの話題で盛り上がってしまっては悪いし、なんだか恥ずかしいという人が多く、この隠語ができたらしい。
「オッケー。まあ、自由にやってよ。ノンアルコールでいいんだよね。彼女は?」
「じゃあ、ハーパーをダブルで」
莉愛がいきなりウィスキーを頼むとは意外だった。そんなに飲むような子だったか。しかもダブルって二オンスってことだよね。なんだかとても慣れているように見えるし、実際にそのとおりなんだと思う。
「この音楽なんなの? イライラするんだけど」
「あー……わかんない」
僕は割と好きだからいいんだけど、まったく興味のない莉愛にとっては不快でしかないらしい。確かに昨日のイタリアンと比べると劣るかもしれないけど、このお店だって料理を頼めば味はかなり美味い。僕がここに来たかった理由は、ここじゃないと莉愛と二人きりになってイライラしてしまいそうだからだ。
結果的に高感度を落とすことになりそう(美桜さんはそれでいいと言っている)だけど、部屋で二人きりよりはマシだと判断したためだ。下手したら『莉愛は浮気するだろ』とか口走ってしまいそうだし、喧嘩腰になってその場で破局なんてこともあり得る。それは最悪だ。美桜さんの期待を裏切ってしまう。
「それでゴールデンウィークはなにしたいの?」
「旅行行きたいなって」
「……えっと、六日と七日は予定があるんだ」
「なんの予定? またゼミとか言わないよね?」
不機嫌だからということもあるかもしれないが、莉愛の口調はものすごく嫌な言い回しになっている。別にゴールデンウィークすべてが埋まっているとは言っていないのに、なんでそんな言い方するんだろう。
「まあ、そうだけど」
「そう。春兎くんはあたしよりもゼミのほうが重要なんだ?」
「そんなこと言っていないよ。その他の日は全部大丈夫だから」
なんなら三日から五日の三日間を空けておいたのに不満を爆発させるとか、いったいなんなんだ。
「いいよ。別に。せっかく付き合ってはじめてお泊りデートしたかったのに」
「ごめん。お泊りはちょっと」
「なんで? あたし達付き合っているんだよね? なんでダメなの?」
「まだ付き合って間もないから……早いかなって」
「やっぱりあたしのこと嫌い?」
「そうは言っていないって。ただ、莉愛との関係は、他のなによりも大事にしたいんだ。ゆっくり育みたいな……って」
「……わかったよ。大切に思って言ってくれてるんだよね?」
「当たり前じゃん」
美桜さんから教えてもらった殺し文句『莉愛を他のなによりも大事にしたい』と『ゆっくりと育みたい』をこんなにはやく使うことになるなんて。この感じだと来年まで持ちそうにない。夏が過ぎたら冷え切って別れそうだ。
その後、僕はノンアルコールのカクテルを、莉愛はハーパーを飲みながらオムライスを食べた。あまり食べ物のメニューはないんだけど、実は裏メニューが存在していて、その一つがオムライスだ。デミグラスソースの絡むマッシュルームの甘みとチキンライスのほどよい塩分のハーモニーが絶品で、僕はかなり好きなんだけど、莉愛の口には合わなかったようだ。
五月三日に水族館に行くと予定を立てたところで話は終了し、莉愛は不機嫌のまま帰宅した。
莉愛が水族館に行きたいというから予定を組んではみたけど、僕は一応反対した。だって、ゴールデンウィーク初日の人気水族館なんて混むに決まっているじゃないか。それでも莉愛が行きたいというから仕方なく行くことに。もうどうなっても知らない。
問題はここからだった。アニメ好きのマスターがいるバーで莉愛とゴールデンウィークの予定を話してきたと美桜さんに報告すると……。
“『チェリブロ』ずる〜〜〜〜い。わたしも行く、絶対に行く!”
“『ラビット』クローバーが失望するくらいだから行かないほうがいいと思いますけど”
庶民の莉愛が不機嫌になるくらいのバーなのに、大財閥のお嬢様が行って満足するとは思えない。いや、そればかりか怒り狂って店を買収し、自分好みに改造しました、とか訳の分からない事態になりそうで怖い。
“『チェリブロ』変装するから連れてって”
“『ラビット』それでもやばいんじゃないですか?”
“『チェリブロ』ホワイトと一緒に行く”
ちなみにホワイトというのは
言い出したら聞かない性格のようで、仕方なく翌日も行くことになった。今日は送迎付きで店の前に横付けした車から降りる。店の外には見張りの私服ボディガードが多数いて、目を光らせていてくれるらしい。莉愛もしくは九頭見が偶然通りかかっても、僕たちに鉢合わせさせないためだ。僕と美桜さんは変装(キャップにパーカーのフードを被っただけだけど)をしているからバレないって美桜さんは言うけど……。
「いらっしゃ——え。蒼井くん、そちらの人たちは?」
一発でバレたじゃないか。マスターだから信用できるからいいけど。
「同じ大学のゼミの子たちで、どうしても来たいっていうから」
「はじめまして。わたくしは
「ウチは白鷺ッス。よろしくッス」
完全にお嬢様に戻った美桜さんだけど、白鷺さんはまるで部活帰りのJKのごとく簡単に挨拶を済ませてカウンター席に座った。そう、美桜さんはカウンター席を所望したのだ。その理由はすぐにわかった。
「え!? まだ『デレる彼女のクリティカルアタック』って続いていたんですかっ!?」
「まさか知ってるなんて。美桜さんは通だね」
「えへへ。高校の時に夢中で読みました。あれって確か、アニメ化されるはずだったけど、作画崩壊に作者がブチ切れて無しになったんですよね?」
「そうそう。知ってる? あの作者って名前を変えて『メルブライン家のご令嬢』を書いているの」
「……は? え? それホントの情報ですよね?」
「そう。こういう店をしていると情報がいっぱい入ってくるからね」
「やばっ! 聞いた、蒼井くんっ!? すごい情報だよ。やっぱりなんとなく表現とかセリフの言い回しが似てるなーって思っていたの」
終始はしゃぎっぱなしだった。美桜さんはよほど楽しいらしく、お酒をかなり召し上がっている。でも全然顔に出ない。その横で白鷺さんは「ぽへ〜〜〜姫らめれすよ、ほみふぎちゃ」と酔い潰れていた。酒豪のような雰囲気でビールを一気に流し込んでいたから、白鷺さんはザルなんだと思っていたけど、どうやらそうでもないらしい。白鷺さんは面白いくらいにへべれけになっている。
「なんかお腹すいてきちゃったなぁ」
「莉愛に不評だったオムライス食べます?」
「もち、食べる。食べなきゃ明日は訪れない。さあ、おやじ、この食材を至高の料理にしてくれ」
「それは、“異世界ブランチマスター”の“ミヒナ”ね」
「お、ウサギちゃんせいかーい!」
「ウサギちゃんって……僕は相棒のアルミラージなんですね」
異世界ブランチマスターのミヒナは、異世界に転生したけどなにもできないくせに食いしん坊、というよくわからない設定のアニメだ。その傍らで人語を喋るアルミラージという角の生えたウサギがツッコミ役。まあ、今の状況からすると美桜さんと僕の関係はアニメの内容通りなんだけど。
「面白い子だね。よし、待っていて。いつもよりソースマシマシで作ってあげるから」
わーい、と喜んで美桜さんは目を輝かせた。
莉愛といるときよりも遥かに気持ちが楽だし、なぜか胸が苦しい。こんなに喜んでくれるなんて思ってもみなかった。終始ニコニコしていて、医学部生のときでも、教職員棟のプライベートルームのときに見せる顔でもない顔の美桜さんが隣にいる。
もしかして、これが本物の美桜さんなのかも。話が面白く、人を惹きつける魅力と可愛くて、つい抱きしめたくなってしまう衝動に駆られるような女の子。中学高校と、この輝きが他の女子の嫉妬を産んだとするなら、すごく納得してしまう。
「蒼井くんはお酒飲めないんだもんなぁ。ごめん、わたしばっかり飲んじゃって」
「いえ。僕も楽しんでいますから」
美桜さんの左隣でカウンターに突っ伏して寝ている白鷺さんに僕の上着を掛けた。寒くはないけど、寝ていると体温は下がるから。
「いいな。明日音ちゃん」
「なにがです?」
「ううん。なんでもな〜〜〜い」
「はい、おまちど〜〜〜う。ソースマシマシスペシャル! 文句は食べてから言いな。こいつを食べてそれでも不平が言えるならな」
「お! ブランチマスターの四話目でカッコつけて料理出したのに五話目で負けたおっさん!」
オムライスを二人でシェアすることに。僕はそんなに空腹ではないし、美桜さんは一人で一皿は食べられないと言うからあらかじめ一皿しかオーダーしていない。さっそく取皿をもらって僕が分けてあげる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。なんだかごめんね」
「え?」
「本当ならわたしが分けるべきなのに」
「女性だからとか、そういうのは時代錯誤ですよ?」
「ううん。そうじゃくて、食べたいって言ったのはわたしなのに。蒼井くんはただわたしのワガママに付き合ってくれているだけじゃない?」
「そんなことないですよ。僕だって食べたかったんですから」
「でも、昨日も食べたんでしょ?」
「昨日よりも今日の方が絶対に美味しいですから」
「……え?」
「え?」
「うん?」
「はい?」
昨日に比べて、今日のソースマシマシスペシャルのオムライスは絶対に美味しい。僕はソースびちゃびちゃのここのオムライスが好きだから、食べられるのは幸運だと思っている。ソースマシマシはマスターの気分次第。ソースマシマシはコストがかかるからあまりやりたくないって前に言っていた。今日のマスターは機嫌がいいらしい。
美桜さん急に赤くなっているな。そろそろ酔いが回ってきたんだろうか。
「そういう表現もあるんだ。蒼井くんはなんていうか……上手だね。味は食べる相手によって変わるっていうし、納得」
「……どういう意味です?」
「そのまんまだよ」
よくわからないけど、お酒のせいでよくわからないことを言っているのだろう。スプーンですくわれたオムライスが美桜さんの唇の奥に吸い込まれていく。僕はその様子を
「うぅ〜〜〜〜ッ美味しい〜〜〜〜ッ!! 絶品だねっ! 毎日でも食べたいっ!」
「喜んでくれて嬉しいな。美桜さんは本当に人から好かれるタイプだね」
美桜さんが一瞬固まった——ような気がした。でもすぐに元の表情に戻って、ふた口目のオムライスを口に入れていた。
「んがっ! は、はい、寝過ごしひゃしたッス」
「いいから、白鷺さんは寝てて」
「明日音ちゃんってお酒弱いのに飲むから」
ビール一杯で酔い潰れるとなるとアルコール耐性は僕と同じか、もしかするとそれ以下かもしれない。美桜さんはオムライスを食べ終わった後、甘いカクテルをオーダーして、マドラーで混ぜながらアニソンを口ずさんだ。
「美桜さんってアニメとか好きだったんですね」
「うん。だって現実逃避できるでしょ」
「そうですね」
「蒼井くんも好き?」
「……」
別にここまで来たら隠す必要はない。それに白鷺さんから僕の過去は聞いているはずだし、美桜さんも好きなら共通の話題ができるじゃないか。
「まあ、好きです」
「よかった。ねえ、たまにそういう話もしよう? ね?」
「は、はい。喜んで」
「よかった」
美桜さんはそう言って僕に手を差し出した。どういうことなのかと考えたけど、握手を求めているって普通に解釈していいんだよな。でも、なんの握手なんだろう?
おずおずと手を差し出すと、美桜さんは僕の手をギュッと握った。温かくて柔らかくて、なんだかドキドキした。
「友達としてよろしく」
「え? 今まではなんだったんですか?」
「なんだろう。よくわかんない。でもよろしくねっ!」
酔いが回っていて明日になって忘れているかもしれない。でも、美桜さんはきっと友達が欲しかったんだ。美桜さんの手も少しだけ……震えていた……から。
「今晩は楽しかったぞよ。拙者、異世界に来てはじめて馳走になったゆえ、」
「異世界ブランチマスターはもういいですって。しかもそれって四巻に出てくる一瞬で死んだサムライみたいなモブですよね? よく覚えているなぁ」
「あはは。蒼井くんだって一瞬でわかったじゃん」
家の前で降ろしてもらって、僕はワンボックスカーを見送った。
信号待ちをして交差点を曲がって見えなくなるまで。
◆
ラビットの手記〈スケジュール帳より転記〉
美桜さんとはじめてバーに行った日
とにかく楽しかった。美桜さんはお酒に強く、白鷺さんは弱い。
美桜さんと握手をして友達になった。
美桜さんはおいしそうにオムライスを食べていて、すごく喜んでくれた。
その姿を見ていたら、なんだか苦しくなった。
2024年4月
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