第12話



 部屋には土間はなく、靴を脱ぐ場所がなかった。フローリングの床にベッド、その隣にはちょっとした小物を置く用のテーブルが置かれている。窓ガラスはあるがベランダはなく、柵もなかった。まぁ、夢の世界だし、飛ぼうと思えば飛べるから、飛び降り自殺が~とかは問題ないんだろうな。


 俺はふぅ、と一息ついた。思えば、この世界に来て、こうしてゆっくりした時間を過ごすのは初めてかもしれない。いや、ゆっくりしていちゃ、本当はダメなんだ。一刻を争うんだ。第四層で見ていられる夢の期間は『最大で』2年間。それより下層で時間を食っていたら、そこから差し引きされるし、俺は下層で呑気に敵を倒して遊んでいた。時間はもっと少ない。現実での状況を鑑みれば、もっと。


 無限に続くかに思えた異世界スローライフへの道は遠く、とにかく俺は下層に行かなければいけない。


 しかし今は待つしかなくて。


 ああ、畜生。と髪をぐしゃぐしゃと搔き回す。



「生きなきゃいけねぇんだ。俺はここで生き続けなくちゃいけないんだ。これは夢だ。ただの夢だ。交通事故に遭って死の間際に見ている最期の夢なんだ。ああ、だから俺は、ここで生き続けなくちゃいけないんだ。でも、ああ、なのに、あぁ……畜生。何で、俺はこんなに無力なんだ」



 俺は思い出したかのように禁煙していた煙草を作り出して、やけくそな思いでそれに火をつけ、吸ってみた。


 意外なことに、煙草は美味かった。久しぶりに吸ったのにヤニクラもなく、吸い続けていた頃の、一番美味しい風味が鼻腔の奥を抜ける。


 今なら肺腑の奥まで吸い込んでもダメージゼロ。夢の世界に肺ガンはない。



 煙草を一本吸いきる頃には、幾分か気分が落ち着いてきた。


 手から離れれば吸い殻は塵になって消えるので、灰皿もいらない。クリーンな世界。


 副流煙も口から離れれば、少し経って消えてしまうため部屋はスモーキーになるわけでもないが、なんとなく生前(?)のノリで窓を開けて換気をする。


 窓を開ければ爽やかな外の空気が入っ……てこねぇな。夢の世界では風が吹かないらしい。そういえば現実ではどうやって風が生まれてるんだろう。地球が自転してるからかなぁ。だったら、風が吹いてる異世界物語は全部惑星ってことになるな。どうでもいいけど。


 俺は二本目の煙草に火をつけながら、なんとなく眼下の町並みを見下ろす。


 食事を摂る必要がないので商業なんかは流行っていないようで、当然ながら行商人なんかもいない。町の人たちは、いくつかグループを作って井戸端会議のように、会話をしているようだ。何を話してるんだろ。この世界についてだろうか。それとも、元の現実世界についての世間話だろうか。単に人と話すことに飢えているだけのようにも見える。


 夢にまで来ても所詮は人か。人はどうしてこんなにも人を求めるのだろう。もっと自分の内に心を向けて自由に生きればいいのに。


 それが愛であれ、嫌悪であれ、憎しみでさえ、あるいは嘲笑の的でも何でもよくて。他者を求めずにはいられない。人間をそんな浅ましい生き物だと思い、芋虫のように蠢く人混みを見下ろしていた。


 ふと、芋虫の中でも青い輝きを放つ人に目が行った。青い長髪の眼鏡をかけた少女。名前も聞いていないあの子が、部屋で休むでもなく、ふらふらと人混みに向かって歩いていく。


 あの子もそっちの人間のひとりか。そんな風に見下ろしていた。



 長髪の少女はふらふらと人に近づき、その辺の男にすり寄るように身を寄せる。


 ぞくり、と背筋を冷たいものが走った。


 少女の手がトラバサミのように変形し、がぶりと男の胸元を食らった。悲鳴が上がる間もなく、両手をトラバサミにした少女が次々にグループの人間を食らっていく。


 一瞬で五人を殺し、少女は、パズルのピースみたいに砕け散った人間を食らいながら、にちゃりと笑った。眼鏡が落ち、彼女の黒い目が光った。



「もう待てないの、アタシ……だってだって、ずっとガマンしていたから」



 ドス黒い深淵の底みたいな、絶望が渦を巻いて収束したかのような、黒々とした目だった。


 彼女は一瞬だけ俺を見た。俺は情けないしゃっくりみたいな声を出して、彼女はすぐに次の標的を見定め、食らいかかる。


 ばくり、ばくりと三人は食べた。


 ああ、逃げ惑う市民も、狩りで強くなった彼女からは逃げられない。


 ただの内気な女の子だと思っていた。


 なのに、違う。なんだ、なんだあの怪物は。


 人の皮を被った怪物が、そこにいた。

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