シャトランジ 王と奴隷の物語
二宮酒匂
王奴の青年
第1話 スッカル
スッカルは黒く短い髪の、二十四歳の青年だ。今かれは
「身内を奴隷に売れというのか」
一口かじったとき悲痛な声が背後から届いてきて、スッカルはふりむいた。
通りの向こうの広場から、揉め事の気配がしてきていた。
広場には難民たちの天幕が立ちならんでいる。
「だからさ、場所代を払えといってるだけだよ。このカラクの町に居座るならよ」
どすの利いた声は
はたして、脅しの声がどんどん高まっていく。
「おまえら臭いんだよ。市場の客の入りが悪くなっちまわあ」
「心苦しいとは思っている。しかしわれらは北方の戦から逃げてきたばかりで、路銀を使い果たし本当に行くところがないのだ。においは恥じるしかないが……それは皆の衆に、公共の井戸を使うのもなるべく遠慮してもらっているからだ。
この町のご領主さまがいらっしゃるならば、お慈悲にすがれないかおうかがいをたてる。それまで待ってほしい」
「ははっ、ご領主さまは当分来ねえよ。戦がいそがしすぎてな。二度と戻らねえんじゃねえか?
ご領主さまのご存念がどうあれ、まず俺たち元からの町の住民に筋を通せ。
根無し草のよそものが居座りたきゃ場所代をたっぷり払え。金がないなら物でいいから価値あるものを出せ。それもないなら人でいいといってんだ。あんたら、女子供の数だけは多いじゃねえか。下の人間を何人か差し出せよ。ひとりにつき三日ここにいていい。若い娘ならもっと猶予はやる」
「われわれは同じ部族だ! みんな自由民だ、上下はない。私が引き渡せるのは私だけだ」
「いわせてもらうがじいさん、自由民には上下がなくとも奴隷になった後にはあるんだぜ。あんたは老いぼれだからたいした値段にならん。奴隷としては価値は下のほうだから、やれる猶予は一日だ。
あんた、若い娘がいたよな? なかなかのべっぴんだ。あれなら十日やるよ。なんなら俺が個人的に買い取ってやってもいい。
いやなら出ていきな、みんなそろって自由のまま砂漠で死ね」
ドゥーリーのおどし方には嗜虐の響きがたっぷりこもっていて、聞いていて気分のいいものではない。
飯がまずくなる、とスッカルが眉をひそめて思ったとき、平パンの上でずるりと重みが崩れる感触があった。
かくて悲劇が発生した。
スッカルが顔を戻したとき、平パンの上にピラミッドよろしくこんもり盛られていた野菜と肉――「あんたはでかいし若いからな、しっかり食えよ!」とケバブ屋は太っ腹なところを見せてくれた――はすでに大部分が、地面に身を投げて臨終していた。
スッカルは無言だった。無言でもちゃもちゃ咀嚼し続けた。
それからパンを手に、立ち上がった。
背丈十七
「なんだ、貴様?」
「やかましいぞ。パンの具が落ちた」
スッカルが八つ当たりすると、ドゥーリーは面食らった様子で顔をしかめ……
「みるからにとろそうな顔しやがって、でくのぼうめ。怖いもの知らずなのか俺のことを知らないのかどっちだ? 自己紹介しておいてやるが、俺はドゥーリーだ。俺のいうことをきく舎弟が三十九人いる」
「そうかい」
スッカルの淡白な反応を、ドゥーリーはお気に召さなかったようだった。かぶっていた
「このドゥーリーさまは記憶力が自慢でね。俺に無礼を働いたのはどこの誰か、あとからどこに行けば落とし前をつけてやれるか、そういうことをぜんぶ忘れないんだ。なあ貴様、そんなに図体がでかけりゃ喧嘩には自信があるだろう、何人かを相手にしても勝てると思い上がっているんだろう? だがな、眠っているあいだに貴様の喉を掻き切る刃物に、図体で勝てるか? 俺は貴様のことを調べあげられる。人に貴様のあとをつけさせ、貴様が眠るときまで交代の見張りをつけることもできるんだ。
俺ににらまれたら貴様なんぞ死んだも同然だとわかったか?
さあ、いますぐ消えろ。忘れてはやらんが一度だけ見逃してやる」
長々とした脅迫。
スッカルはそれに対し、間延びした声で告げた。
「おれも自己紹介しとく。スッカルだ。二ヶ月前からここの市場の警士でな」
「……ああ、それが?」
「市場の良好な環境は、警士が守るべきものだ。
異臭と騒音。どっちも公害だ。
異臭は洗えばなんとかなる。
騒音だが、ドゥーリー、口をつぐみな。聖典には客人をもてなせと書いてある。信徒は互いに助け合わねばならないとも。あんたも天国行きたきゃよそ者には親切にするこった。
これで解決だ。知恵の道を示したもう唯一の神はたたえられてあれ」
もぐもぐとパンを食いちぎりながら、スッカルはいう。
みるとドゥーリーは呆然としているようだった。
こいつはごろつきのくせに町の名家の出だったな――とスッカルは、伝え聞いた話を思い出す。
たしかにドゥーリーは馬鹿にされることに慣れていないようだった。その髭のはえたイタチのような顔はいまや紅潮し、つり上がった目の下がぴくぴくとひきつっていた。
「でくのぼう野郎。俺はな、俺を舐めた者を生かしちゃおかない」
低い声音。難民の老人が蒼白になってふたりからあとじさる。
「肉をのせたその
それを聞いてスッカルはちょっと首を引く。
「げ。おい、おまえの手下ってまさかこの市場で働いてたり――」
スッカルがパンに目を落としたとき、
ドゥーリーが帯に差していた短刀を抜き、
スッカルのみぞおちめがけて突きこもうとし、
前に一歩出たそのひざがスッカルによって蹴られる。体重をかけて踏みつけるように。無造作のようで完璧に機を合わせた攻撃。
押し込まれたひざが伸びる。関節が逆側に曲がる。脱臼。
踏まれた枯れ枝よろしく、脚がぼきり。
倒れるドゥーリーの絶叫。
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