31-2 文化祭《ローゼン・フェスト》 王女の矜持

 夕食が終わり、一同が解散したすぐ後、アンジェは急ぎイザベラを追いかけた。足早に退出しようとしていたイザベラもさすがにそれを無下にすることはできなかったようで、アンジェを自室に招き入れる。アンジェを追いかけてきたフェリクスとリリアンは二人しで締め出されることになり、落ち込むリリアンをフェリクスが「後で迎えに行こう、それまで菓子厨房パティスリーで皆にデザートを作ってくれないか、アンジェもきっと喜ぶよ」と機嫌を取っていた。菓子厨房パティスリーに入れると聞いたリリアンはあっさり機嫌を直し、フェリクスは彼女を連れ、アンジェにウィンクをして去っていった。


「……心配をかけたわね、アンジェちゃん」

「はい、それはもう……」


 応接セットの椅子に座るイザベラは、寛ぐというよりも力が入らないといった様子で、背もたれによりかかっていた。もともと色が白い肌は青ざめているようにすら見える。イザベラは王妹アリアドネに似て色素が薄く、そえゆえに大人には珍しい、春の雪のようなプラチナブロンドを持っていた。それは彼女が持つ典雅な雰囲気をより神々しいものに高めているように見える。アリアドネは兄王に似たのか、女性にしてはしっかりとした骨格の持ち主だが、華奢で小柄なイザベラの体型は母よりも母従妹の王妃ソフィアの体つきに近く、端正な顔立ちと緑の瞳が、彼女たちこそ親子だと言っても差し支えないほど、二人の容姿をよく似たものに仕上げていた。


「……その……」


 アンジェはイザベラがソフィアに向けていた視線を思い出しながら、言葉を紡ぐのを躊躇う。彼女はその視線の先に何を見ていたのだろうか? 公然と恋人として交際しているように見える、王妃と大公夫人。大公夫人と国王の庶子、クラウス。そんな、何度か言葉を重ねないとたどり着けないような男のことを、それでも何か名残を見つけたくて思い出していたのだろうか?


「……アンジェちゃん、ありがとう。レーヴ・ダンジュのこと、引き受けて下さって」

「ああ、いえ……わたくしならとお任せくださって光栄ですわ」

「驚いたでしょう、ブラとショーツですもの」


 イザベラは自分の対面に座るアンジェを見てクスクスと笑う。


「はい……久々に実物を見ましたわ」

「アンジェちゃんも一緒に出られたらと思って、予備を用意しておいて正解ね」

「イザベラ様は……もう、お出にならないとお決めになられたのですか?」

「……ええ、見たでしょう、招待客を」


 イザベラは視線を落とす。しばらくポケットをまさぐり、僅かに顔をしかめ、取り出したハンカチで口許を覆う。


「恥さらしもいいところだわ。フラれたのに……下着姿を見せるなんて」

「そうでしょうか? 確かにメインは下着ですけれど、わたくしも上に羽織るものがありましたし……なによりイザベラ様のブランドですわ。ご自身がお出になられた方が、ブランドファンの皆様も喜ぶのではなくて?」

「……でも……」


 身を乗り出したアンジェに、イザベラは口許を隠したまま視線を逸らす。


「恥などではありませんわ、イザベラ様……恋をすることも、想いが叶わないことも、自分を見て欲しいと声に出すことも……何も、恥ではありませんの。それを、誹謗中傷や暴力として表してはいけないだけなのです」


 アンジェの脳裏に、乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」が──険のある顔で怒鳴り散らしてばかりいた悪役令嬢アンジェリークの顔が思い浮かぶ。フェリクスを奪われた悲しみに飲み込まれて暴走していった彼女。あんな風にはなるまいと思っていた、自分の未来の可能性。アンジェはリリアンがエリオットに恋をしていた頃に、恋を奪われた苦しみを、痛みを、嫌というほど体感した。それは人格をがらりと変え、悪と呼ばれる行為に走らせるには十分な衝撃を伴っていることも。


「わたくし、悪役令嬢につきよく存じていましてよ」


 イザベラははっと目を見開いて、アンジェの方を振り向く。


「アンジェちゃん……」

「イザベラ様は、よくわたくしのフェリクス様の話を聞いてくださいましたわ。だからいつか、イザベラ様の恋のお話もお聞かせいただけたらと思っておりましたの」


 アンジェは優しくにこりと微笑んで見せる。


「ですから……何にならなくとも、お心の吐き出し口にしていただくので結構ですから……お一人にならず、お話ししてくださいまし、イザベラ様。どのような恋だったのか、どのような所を好ましく思われたのか……コイバナとはそういうものでしょう?」


 イザベラの緑の瞳から、一粒、二粒、涙が零れる。喉の奥から漏れる嗚咽がハンカチでは隠し切れない。イザベラはハンカチをくしゃりと握り締め、顔を覆った。


「ありがとう、アンジェちゃん……これは、罰なの」

「罰……?」

「ユウトは……変わらずに、わたくしを愛してくれていたわ。わたくしが彼を選ばなくても変わらずに……ユウトを、選べないくらい、クラウスに夢中になっていたわたくしを……」

「…………」


 アンジェはルナを──優しく悲しそうなあの微笑みを、否が応にも思い出してしまう。


「……けれど、どれだけ言っても、彼はいつもどこか遠い目をしていて……彼はわたくしを見ているのではないの……だから、どうしても、手に入れたかった……あの人ではなく、わたくしを、わたくしだけを、見て欲しかったの……クーデターなどに堕ちなくとも、わたくしがいると……わたくしは、貴方を愛していると、届いてほしかった……」


 クーデター。

 泣き崩れるイザベラを見ているアンジェは、全身から血の気が引いていく。


「……イザベラ様」


 イザベラはアンジェの気配を察したのだろう、涙をハンカチで拭って顔を上げる。


「……クーデターのことを、ゲームシナリオのほかにも、ご存知なんですの?」


 イザベラはゆっくりと瞬きをした。その顔が、泣き崩れる少女から、王家の責任を負う者に変わっていくのが分かる。拭いきれなかった涙がぽろりと頬を伝うが、王女はもうそれを拭おうとはしなかった。


「まだ……確たる証拠がないの。武器を集めているわけでもないし、危険思想というほど過激なものでもない……けれど、ほぼ、間違いないでしょう」

「……そうなんですのね……」

「わたくしは……クラウス・アシュフォードに、彼らと縁を切るように助言をしました。縁を切らなければわたくしとの縁を切ることになると……他に、賭けられるものがなかったのよ。きっとわたくしを選んでくれると、慢心してもいた……」

「イザベラ様、その者は」


 アンジェが拳を握り締めて身を乗り出した瞬間、こんこん、と扉がノックされる音がした。イザベラの侍女の声が、フェリクスとリリアンとデザートの来訪を告げる。アンジェとイザベラは顔を見合わせる。


「どちらにせよ……確たる証拠がない状態で、王女たるわたくしの口からお伝えすることは出来ないわ」

「……そう……ですわよね……」

「……ありがとう、アンジェちゃん」


 うなだれたアンジェを見て、イザベラは悲し気に微笑み、アンジェの手にそっと触れた。それから侍女に入室を許可する旨を伝えると、王子を出迎えるためにアンジェと二人してその場に立ち上がる。


「失礼します、イザベラ様、アンジェ様。ご気分が落ち着くような、優しいミルクシャーベットはいかがですか」

「まあ、子リスちゃん、わざわざわたくしのために作ってくださったの? 嬉しいわ」

「リリィちゃん、ご苦労様、ありがとう」

「えへへへ~お城の菓子厨房パティスリーは冷凍果物がいっぱいあって素敵です」


 リリアンは上機嫌に、召使が押すワゴンと共に入室してきた。その後ろからフェリクスがニコニコしながら入ってきて、アンジェと目が合うと嬉しそうに微笑んで見せる。


「ありがとう、フェリクスくんも。どうぞこちらにおかけになって。アンジェちゃんもご一緒しましょう」


 席を勧めた三人と共に、イザベラはもう一度長椅子に座り、疲れた様子でハンカチで口許を──鼻から口にかけてを大きく覆った。リリアンが目をきらきらさせてシャーベットの味を説明しているのを眺めながら、こほ、こほ、と小さく咳き込む。優美な弧を描く眉をわずかにひそめ、ハンカチを離してその内側を覗き込む──緑色の瞳に、鮮烈な赤が映り込んだ。王女はもう一度ハンカチを鼻に当て、誰も自分を見ていないことを確かめてから、そっとため息をつく。


「メリル。わたくしの扇子を取ってちょうだい」

「こちらに、イザベラ様」


 侍女はイザベラにすぐに扇子を差し出した。どこか安堵したような表情のイザベラは、受け取る手に小さく折り畳んだハンカチも持つ。侍女は眉一つ動かさず、だが一瞬動きを止めて、咄嗟にポケットからハンカチも取り出して扇子に添えた。


「ありがとう、メリル」


 そのやりとりに気が付いたアンジェが見たイザベラは、瞼の腫れた緑色の瞳を優雅に細め、一度も泣いたことなどないと言いたげに、完璧に、微笑んでいた。

 



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