30-7 まなざしが含む熱 リリアンの頼み
イザベラは見舞の翌日も翌々日も連続してアカデミーを欠席した。アンジェはいろいろと気を揉んだが、授業で見かけるクラウスの様子に変わりはなく、風邪だと思っているフェリクスは無邪気に心配そうにしていて、考えを話さないルナは口数が少なく、同じく何か考え込んでいるリリアンは悲壮な表情で上の空だった。
「おはよう、アンジェ。今日も寒いね」
「おはようございます、フェリクス様。春が待ち遠しいですわね」
更にその翌日。登校時間が剣術部の朝練でかなり早くなったというのに、フェリクスという男は相変わらず校門でアンジェのことを待ち構えていた。断っても断っても何やかや理由をつけて手を取られてしまうので、最近は諦めて素直にエスコートに応じるようにしている。フェリクスはニコニコしながらアンジェが馬車の踏み台を降りるのを見守り、御者から鞄を受け取って歩き出した。最近は着替えが面倒くさいので、コートの下は既にサラシとジャージだ。それは足元を見る限りフェリクスも同じようだった。
「フェリクス様、昨夜はイザベラ様はどのようなご様子でしたの?」
「ああ、言おうと思っていたんだ」
フェリクスを見上げたアンジェを、王子は怪訝な表情で見つめ返す。
「昨日は夕食の席に出てきたんだよ。だけどけだるそうでね、あまり話もしていなかった。食事の後に追いかけて様子を聞いたのだけれど、貧血だから気遣い無用、としか教えてくれなかったよ」
「まあ……それはそれで心配ですわ」
「女性はなにかと貧血になりやすいからね。長引くようなら、滋養の付く食べ物でも贈ろうか」
「ええ、ええ、ぜひそうなさってくださいませ」
いつものように正門から校舎までの道を歩き、そのまま玄関に入るのではなく少し曲がって部活棟を目指す。あたりには朝練のある部活の生徒たちがまばらにいて、それぞれ練習の支度をしているようだった。その中に、部活棟の渡り廊下へと続く柱に寄りかかって、鞄を抱えつつ、つまらなそうに自分の指に息を吹きかけているストロベリーブロンドの小柄な少女の姿が見える。
「えっ、リリィちゃん?」
「おや」
アンジェの声が聞こえたのか、リリアン・セレナ・スウィートがこちらを向いた。紫の瞳がフェリクスとアンジェを──フェリクスが恭しくアンジェをエスコートしている姿を捉える。慌てて手を振りほどこうとするアンジェに、フェリクスはにこりと微笑みながらその手をぎゅっと握る。立ち止まった二人のもとに、リリアンがてくてくと歩いてくる。その顔は怒気に染まるというより、深刻に思い詰めていると言った方が的確だ。リリアンが目の前までやってくると、フェリクスはわざと手をつないでいるところをリリアンから見えるように前に出し、彼女の目の前でようやっと手を離した。
「おはよう、リリアンくん。アンジェを借りていたよ」
「おはようございます、殿下、アンジェ様」
「お、おはよう、リリィちゃん」
リリアンは頭を下げつつ、自分の目の前で解かれた二人の手をじっと見ていた。フェリクスは最近こういう時は少しばかり悪そうな顔で笑う。触れてほしくないリリアン、触れられたくないアンジェ、それぞれの意図を分かったうえで自分の意思を押し通し、かといって本人が怒り出すほど無理強いはしない、そのぎりぎりの匙加減を楽しんでいるのがよく分かる。その悪さは今までのフェリクスよりも大人びた表情だとアンジェは思っていた。いつもならばリリアンはそんな様子の王子と公爵令嬢に目くじらを立てて怒り、フェリクスにとってはそれも愛でる対象のようなのだが、今日のリリアンは唇をへの字に曲げて二人の手が分かたれるのを見ただけで、何も言及してこなかった。
「アンジェ様……これ」
「まあ、ありがとう」
リリアンはまずいつもの交換日記を渡してきた。水色のノートもページがいっぱいになったので、今度はピンク色のノートに代替わりしている。フェリクスが差し出してくれたアンジェの鞄にノートをしまっていると、切羽詰まった表情のリリアンは、自分の鞄からもう一つ封筒を取り出してきた。
「それから……これ。お目通しいただきたいんです」
「まあ、なあに?」
「イザベラ様と服飾部の、文化祭での出展計画書です」
差し出された封筒は、アンジェが触れる前から空中でぶるぶると震えている。
「……何と仰ったの?」
「イザベラ様と服飾部の、文化祭での出展計画書です。お目通しいただけますか」
封筒を差し出した姿勢でアンジェを見上げたリリアンは、アンジェを──アンジェの顔よりも少し下、コートの中でも主張が激しい輝きふたつをじっ……と見て、花壇に大きなムカデが出た時のような顔をする。
「アンジェ様しか……頼れる人がいなくて……」
言いながらリリアンはぎりり、と歯ぎしりをして視線を落とす。まるで魔法サッカーチームで応援するチームが失点した時のようだ。
「どうか、お願いします。助けて下さい」
「…………」
「服飾部の出展はイザベラが関わっていたのか。知らなかったな」
「はい、そうなんです」
口調と表情のちぐはぐさにアンジェは眉をひそめたが、フェリクスはその点は気にしていないのか無視することにしたのか、驚いたような声を上げた。
「中身も見ずに無下にすることはないだろう、アンジェ。イザベラが関わるのなら僕も無関係というわけではないね、彼女が君に負担をかけてしまうが、見るだけでも見てやったらどうだい」
「ええ……それはもう……拝見はしますけれど……」
アンジェは首を傾げつつ封筒に手を触れると、リリアンは封筒をぐっと握り、どんぐりを奪われそうなリスの顔になった。だが唇を噛んで仏頂面になると、猛烈な力がかかっているかのようなそぶりで、実にもったいつけながら封筒から手を離す。
「……何なんですの?」
「ありがとうございます、アンジェ様……」
まだどんぐり強奪リス顔のまま、リリアンは疲れ果てた様子でげんなりと呟いた。
「それで……お目通しいただいたら、今日の放課後、少しお時間をいただけますか?」
「まあ、今日? 今日は確かお菓子クラブでしょう?」
「はい、あの、そうなんですけど……クラブのみんなには私から言っておきます。お願いします。文化祭までもう日にちがなくて」
「ええ、まあ、リリィちゃんがそう仰るのなら……そのようにいたしますわ」
「ありがとうございます!」
リリアンはみるみるうちに涙目になると、ぼふりとアンジェに抱き着いた。
「アンジェ様、ありがとうございます! 大好きです!」
「……貴女の頼みなら何でも叶えて差し上げますし、何もなくても愛していましてよ」
「愛っ……」
アンジェを抱き締めるリリアンの腕の力が、ぎゅううと強くなる。ストロベリーブロンドの間から見える耳が赤くなっているのは、どう見ても早朝の寒さのせいではなさそうだ。アンジェがリリアンの頭をそっと撫でてやると、リリアンは顔を上げて手を伸ばし、アンジェの頬を捕まえると、そこに素早くキスをした。
「りっ」
「りりっ」
アンジェとフェリクスが二人揃ってギョッとする。少し離れたあたりを歩いていた生徒も何人かがギョッとしている。リリアンは身体を離して真っ赤になった王子と自分の恋人を見ると、クスクスと笑い声をあげた。
「殿下、私、今日は手をつないでも怒りませんからね」
「うん? あ、ああ」
「アンジェ様、ありがとうございます! また放課後に!」
「え、ええ、放課後ね」
機嫌が戻ったらしいリリアンは、飛び跳ねるようにして先に部活棟の中に走って行ってしまった。残されたアンジェとフェリクスはしばらく呆然としていたが、気を取り直したようにフェリクスがアンジェの手を握り、アンジェはそれで我に返った。
「実に……軽やかだね、君の恋人は」
「え? ええ……」
未だ頬を染めているフェリクスは、微笑みつつも惚けながらそう呟く。
「あんなにも軽やかに、人目も憚らずに君にキスするなんて……」
「……ごめんなさい、後でよく言っておきますわ」
「いや、咎めてはいないんだ。朝から素晴らしいものを見せてもらったし、君に触れてもいいとまでお許しが出たよ。これはしっかりお礼をしなくてはね」
フェリクスはニコニコしながら、握ったばかりのアンジェの手を自分の胸元に引き寄せ、両手で押し抱くようにしながら手の甲に長々と口づけた。鼻先が擦れ、漏れる吐息がこそばゆく、離れる間際に唇で皮膚をついばまれる。むず痒さが触れられたところから全身に広がって行く。
「……僕たちも行こうか、アンジェ」
フェリクスはアンジェの青い瞳を覗き込むと、またしても悪そうに微笑んだ。手を取られて歩き出しつつ、アンジェは高鳴る心臓を、痺れる頬と手の甲を抑えるので精いっぱいだった。
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