28-6 文化祭に向けて 恋の相手

「そうそう、今日の焼き菓子はとても美味しいのよ。アンジェちゃんも気に入ると思うわ」


 重苦しくなった空気を取り払うように、イザベラが明るい声でお菓子をアンジェに勧めた。


「まあ、本当ですの? 実はわたくし、ずっと気になっておりましたの」


 アンジェも出来るだけ華やかな声で応じ、ケーキスタンドに美しく並べられたプチケーキとクッキーを自らとりわけ、捧げ持つようにしてイザベラに渡した。イザベラは満足気に微笑みながら受け取る。


「さあ、いただきましょう」

「ありがとうございます」


 可愛らしい焼き菓子は味もさることながら細やかな細工が見事で、皿に並べて眺めているだけでも楽しめそうだった。一つずつ味も違い、食べ比べていると自然と脳裏にリリアンの顔が思い浮かぶ。先日の祝賀会のように、一つ一つじっくり眺めては吟味するのだろうか。あるいは歓声を上げて、あっという間に食べ尽くしてしまうのか。


【わあ、エルメのクッキー!】


 脳裏に残る親友も、お菓子の差し入れをとても喜んでいた。店名を確かめ品目を確かめ、一つ一つくるくる回して造形を確かめ、幸せそうな顔をして食べる。祥子は何も気にせずにパクパクと食べてしまう性格なので、いつも先に食べ終わって、熱心な彼女をニコニコしながら眺めていた。


【祥子ちゃん】

【ショコラちゃん】


 二人してSNSの知人と交流するようになってから、呼び名が変わった。二人とも仕事があり、休日も合わないので顔を合わせることが減っていっても、スマホの画面の中のリプライが薄まり続ける関係性をつなぎ止めてくれていた。


【ショコラちゃんはフェリ様が好きだと思うな】


「…………」


 いつかのメッセージのやり取りが、凛子の声になって脳裏に響く。新しい恋人に二股されていたことが分かり、意気消沈している祥子に凛子が教えてくれた乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」。凛子の言う通り祥子はフェリクスにどハマりした、それこそ最初のスチルで心臓を射抜かれた。凛子は笑いながら祥子をイベントに連れ出して、メロディアとユウトを見かけてまたしても脳天に衝撃を受けた祥子を見て、二人に声をかけてくれた……。


「イザベラ様……」


 アンジェのお菓子の皿の上に、ぽたり、ぽたと雫が落ちる。


「凛子ちゃんは……苦しい、最期、だったのでしょうか……」

「アンジェちゃ……ショコラちゃん」

「わたくし……お別れも言えなくて……」


 アンジェはハンカチを取り出して目尻を拭った。イザベラはお菓子の皿をテーブルに置いて立ち上がると、アンジェの隣に座り直し、自分より背の高いスカラバディの背中をそっとさすってやる。


「ショコラちゃん」

「メ……イザベラ様……」

「メロディアでよくてよ」

「……メロディアさん……!」


 アンジェの涙は止まらない。嗚咽を堪えるかわりに後から後からこぼれ落ちて、うさぎ刺繍のハンカチを濡らしていく。


「ごめんなさい……わたくし……こんな……」

「……ショコラちゃん」


 イザベラは眉根を寄せて言葉を続けるのを躊躇っていたが、艶やかな唇を噛み、ハンカチを握るアンジェの手にそっと触れた。


「ユウトは今でも、はっきり言わないほうがいいと言っているのだけれど……見ていられないから言うわ」

「…………はい」


 イザベラはアンジェの手からハンカチを取ると、涙に濡れた頬を拭ってやる。長い睫毛の先についた小さな雫も丁寧に取り、真剣な眼差しで、青い瞳を、その奥の奥まで覗き込む。


「リリコちゃんは、ショコラちゃんのことが好きだったのよ。アンジェちゃんがリリアンさんをお慕いしているのと同じように」

「……っ……」


 アンジェは息を呑み、視線を落として俯き、またもぽろり、ぽろりと涙を流す。


「本当なのでしょうか……? ルナ……ユウトさんも同じことをちらりと仰っていて……」

「なあに、あいつも結局言ってるんじゃない。気を揉んで損したわ」


 イザベラはにこりと微笑み、アンジェの手をそっと握った。アンジェはその手に縋るように握り返す。


「わたくしも……祥子も、凛子ちゃんのことは大切に思っていましたわ。でも、それは恋愛じゃなくて、親友だからで……お互い彼氏がいた時期だってあって……」

「……メロディアはね。よくリリコちゃんとサシ飲みしていたの」


 イザベラは独り言のように呟き、視線を自分たちの手に落とした。


「あの子はとてもやきもち焼きで……最初の頃は、ショコラちゃんがあんまりにもフェリ様そっくりと褒めるから、ユウトにも突っかかってきたのよ。さすがにメロディアが叱ったら、なんだか懐いてくれて……ショコラちゃんに新しい彼氏が出来る度に飲んだくれて、本当に手がかかる子でしたわ」

「えっ……?」

「存じ上げないでしょう、ショコラちゃん? あの子、必死に隠していたもの」

「そんな……」


 呆然とするアンジェの瞳から、忘れ物のようにぽろりと涙が滑り落ちる。


「わたくし……全然……だって、普通に、好きな人とか、彼氏の話とか……」

「架空の話をしたり、誰かのエピソードを流用したり……、ショコラちゃんとダブルデートするためだけに、一瞬付き合った方もいるはずよ」

「そんな……」

「大体、ショコラちゃんは男を見る目がないのよ! ろくでもない男にばっかり引っかかって……ショコラちゃんを幸せにしてくれる男なら諦めがつくのに、がリリコちゃんの口癖でしたのよ? 相手が妻子持ちだと分かった時なんかものすごい怒りようで、不倫男の家族旅行に合わせて……あっ」


 イザベラは目を見開いて自分の口を手で押さえる。


「……えっ?」


 きょとんとしているアンジェをイザベラは気まずそうに見やり、苦々しいため息をついた。


「……まあ、本人たちはもう死んでしまったのだし、時効ということにしてちょうだい」

「言われてみれば、そんなことがありましたわ……祥子は完全に偶然だと思っていましたけれど……」

「でしょう。あの子はとにかく、仕事以外の時間のほとんどを、ショコラちゃんに費やしていたのよ。ショコラちゃんのためにお菓子を焼いて、ショコラちゃんが好きそうなアニメやゲームをチェックして、ショコラちゃんの彼氏の素行を調べ上げて……それでも想いを伝えずに、親友だねと笑い合うことを、あの子は選んでいたの」


 イザベラは握り合っていた手を離し、自分の膝の上で美しく重ね置く。


「……転生先が、それこそフェアウェルローズの生徒だとか、どこかの市井だとかでしたら、わたくしも、アンジェちゃんに言うつもりはありませんでしたの。けれどマラッ……キオンのところにいるのかもしれないでしょう? ……アンジェちゃんを攫おうとして……王国の守護神ヘレニア様に危害を加えようとする魔物のところにいるのかもしれないでしょう? どのような立場で、どのような心境か全く分からないわ」


 典雅の化身のようなイザベラは、険しい顔で自分の指先を見つめている。


「そんな状況で、リリコちゃんの記憶を持っている相手に……ショコラちゃんが、リリアンさんを恋人だと呼んでご覧なさい。わたくしたちは、仲間として助け合えるはずのリリコちゃんを敵に回してしまうかもしれなくてよ」

「イザベラ様……」

「多分……同じ恋人でも、それがフェリクスくんなら丸く収まるのよね。お相手がリリアンさんで、女の子だから……リリコちゃんの地雷を踏んでしまう気がするの」

「…………」


 アンジェはイザベラの横顔をじっと見て唇を噛む。口の中がカラカラに渇いているのに気がつき、お茶を少しだけ飲んだ。渇きに染みるお茶のように、イザベラの言葉が身体のあちこちに染み渡っていく。


「イザベラ様、……それは、わたくしの恋人をフェリクス様にするべき、と仰っておりますの……?」

「あっ、いいえ、違うのよ」


 イザベラはパッとアンジェの方を向くと、慌てて顔の前で手を振ってみせた。


「そこはご自分のお気持ちを大切になさって。周りの言うことなど気にしなくていいの……ただ、何も知らないまま、無邪気にリリコちゃんにもリリアンさんにも接していただきたくなかったの」

「……そういうことですのね。イザベラ様は本当に広く深く思慮が行き届いて……感服いたします」


 アンジェが微笑むと、イザベラはどこか安堵した様子でため息をつく。


「いろいろ、混乱させられるわよね、前世というものは」

「ええ……」

「記憶を取り戻したばかりのアンジェちゃんの恋心と祥子ちゃんの推しが一致したのは、とても良いことだと思うわ。大して混乱もなく受け入れられたでしょう?」

「はい……あの……わたくし、だから、イザベラ様とルナは、てっきりそういう、……良い仲なのかと思い込んでいましたの」

「……そうねえ」


 イザベラは懐かしいとも切ないともつかない眼差しになり、自分のカップを手に取った。


「今でも、悪からず思う心があるのは本当よ」


 その緑の瞳は、貴賓室のどこも見ていない。


「でも……その時にはもう、恋をしていたのだもの。その気持ちを曲げるのは、なかなかどうして無理でしょう」

「えっ……、恋!?」


 アンジェはギョッとし、ソーサーに戻そうとしていたカップでがちゃんと音を立ててしまう。


「ええ、恋よ」

「えっ、えっ!? どど、どなたにですの!?」

「どうしましょう、話してしまおうかしら」

「話していただけるものなら是非!」


 イザベラはどこか楽しそうにニコニコとし、扇子を取り出して口許を隠した。


「アンジェちゃんと同じで、メロディアも彼の方が推しでしたの」

「えっ、ええっ、攻略対象ということですの!? まさか……フェリクス様!?」

「それだけはないと言わせてちょうだい」

「ええっ、じゃあ、アンダーソンさん!? それとも剣術部の、ローランドでしたっけ、赤い髪の……!?」

「さあ、どなたかしら」

「ええっ、教えてくださいまし、イザベラ様!」


 慌てるアンジェを見てイザベラがクスクス笑っていると、扉が遠慮がちに叩かれる音がした。メイドの声が来客を告げ、イザベラが入室の許可をすると、アンジェの恋人が目をクリクリさせながら入室してきた。


「あれ、アンジェ様がまだいる」

「話が長引いたのよ、ごめんなさいね、子リスちゃん」

「大丈夫ですっ」


 リリアンは笑いながら首を振り、イザベラとアンジェが隣り合って座っているのをじっと眺めた。んー、と首を傾げると、二人が座る長椅子まで歩いて来て、イザベラとは反対側のアンジェの隣──アンジェは長椅子の肘掛けのすぐ横に座っていたので、ほんの少ししか空いていない隙間にぐいぐいとその身をねじ込んできた。


「ちょっと、何をなさるの、リリアンさん」

「……人がいるところでもちゃんと呼んで下さい」

「えっ、だって」

「殿下だってアンジェ様のこと、アンジェリークじゃなくてアンジェって呼んでるじゃないですか」


 リリアンはニコニコしてはいるが何か圧を感じさせる笑い方で、アンジェはたじろぎ、思わずイザベラの方を振り仰ぐ。イザベラは扇子で顔の大部分を隠しながらホホホと笑い、アンジェから少し離れて座り直した。


「教育に余念がありませんことね、リリアンさん」

「はい、イザベラ様なら全然気にしないんですけど、気がつくと王子殿下がすぐくっついてくるんです」

「ホホホ、そうね、にゃんじぇちゃんは意外と押しに弱いから、よくよく言ってお聞かせなさい」

「はいっ」

「いっ……イザベラ様までその呼び方をなさるんですの!? この件はどなたがご存知のことですの!?」

「あら、聞いていませんの? あの日円卓でお茶をした面々は全員おりましてよ。ね、リリアンさん」

「はいっ、イザベラ様っ」


 小柄な二人はニコニコと微笑み合うと、どちらともなく真ん中に挟まれたアンジェを、その誇らしい曲線をじっ……と見た。リリアンは険しい顔になり、イザベラは扇子を畳んで小さくため息をつく。


「では、ごめんなさいね、アンジェちゃん。リリアンさんと次のお約束がありますの。続きはまた別の日にお話ししましょう」

「……承知いたしました」


 アンジェは釈然としないか反論するわけにもいかず、座ったまま礼をした。だがふと思いつくと、自分にピッタリとくっついているリリアンを見下ろす。


「ねえ、リリィちゃん?」

「はいっ!」


 リリアンの顔がぱあっと輝く。イザベラもハッと目を見開き、ニコニコニコニコしながら二人の様子を窺っている。


「この後、イザベラ様と何のご用事なのか、後でこっそり教えてくださいませんこと?」


 リリアンは、にこりと笑ったアンジェを見上げ──


「それは、駄目なんですっ、ごめんなさいっ」


 最高に上機嫌な顔で笑ってみせたのだった。




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