あの花かんむりを忘れない
とらねこ
序
巫女がどのように生まれたのか、知るものはいない。
歴史の始まりにはいて、脈々と受け継がれる貴き人。
山祇に巫女は常に一人。
十に満たぬ女子の中から人知を超えた何かに選ばれ、新しい巫女の覚醒と共にその力は失われる。
そしてまた、新しい巫女に受け継がれる。
巫女の力とは清めの力。
穢れを祓う力。
不条理な死から生まれる、大地と命を蝕む猛毒たる穢れ。
悲痛が、怨嗟が、呪詛が、瘴気となって残り続けるこの世の地獄。
巫女だけが、それを祓い清めることができる。
急速に発展する技術と文明の光に照らし出され、怪も魔も存在しないと人々が知りつつあるなか。
世に残された、たった二つの神秘。
陽と陰の対を成す不可思議。
それが巫女と穢れ。
巫女には穢れを祓う以外に、もう一つ許された権能がある。
自らの守り手を選ぶ権能。
守り手は巫女と同じ、穢れに影響されない加護を得ることが出来る。
守り手は命を賭して巫女を守る。
巫女は命を守り手に預ける。
そこに生まれる絆は深く、固い。
家族よりも。
友情よりも。
恋人よりも。
◇◇◇
夜半に目が覚めた女は、寒さに裸身を震わせた。
掛け布団が薄いことよりも、一緒の布団で温めてくれていた人がいないことの方が身に堪えた。
体を起こして女は自分の体をかき抱く。
二十代も半ばになるのに、少女のように薄く華奢な体だった。
肉付きの薄い体に冬の寒さは堪えるだろう。
半開きとなった襖の向こうの縁側から差し込む月明かりを頼りに、女は狭い座敷を見回す。
月明かりを反射して、女の琥珀色の瞳が煌めいた。
乱雑に脱ぎ散らかされたはずの襦袢が、枕元に奇麗に畳まれていることに気が付く。
襦袢を手に立ち上がると、ひと房だけ真っ白な長く緩やかに波打った艶やかな黒髪がさらりと流れ落ちた。
襦袢に袖を通して、腰紐を簡単に結う。
そのまま女は襖を開けて縁側に出る。
雨戸を開け放した縁側には、一人の麗人が腰かけ、小さな庭を眺めていた。
中性的な、怜悧でありながら艶のある秀麗な横顔に女は見惚れる。
もう十年も毎日のように見ている顔なのに、飽きるということはなかった。
女と同じ長襦袢がまるで着流しのようで、座っていても背が高くすらりとした肢体をしていることが分かる。
ほっそりとしたその腕は力強く、しかし指先は繊細に触れてくるのだということを、女の体は誰よりも知っていた。
高鳴る胸を抑えながら、女はその人の隣に腰を下ろす。
女が見ているのに気づいていたのであろう、驚きもなく優しい目が女に向けられた。
「どうしたの、こんな時間に」
甘い声で問いながら、女は温もりを求めるように身を寄せて頭を肩に乗せる。
柳のようにたおやかな肩は、しかし女が身を委ねても小動もしない。
「起こしてしまいましたか、済みません」
耳元で響いた声に、ぞわりと女の背筋が震える。
少し低い声が耳朶を打ち、鼓膜を震わせ、脳を蕩かす。寝る前にもこの声に数えきれないほどの愛を囁かれたことを、体が覚えている。
「それはいいけど。急にいなくならないで」
「いなくなったりしませんよ」
怯えたように身を震わせる女の肩が、優しく抱き寄せられる。
「もう二度と貴女のそばを離れたりしません」
「それならいいけど」
「…信じてもらえませんか」
後ろめたいことがあるのか声が弱々しくなるのが、女は少し楽しかった。
裏切りともいえない、たった一度だけ約束を破ったことをいまだに後悔していることが愛おしい。
「疑ったことなんてないわ」
疑うことなどできるはずもない。
山祇の全てを敵に回しても守ってくれると、事実を以て証明してくれた人の何を疑えというのだろうか。
「出会った日から一度たりとも」
遠い日を思い出して、女は目を細める。
「もう十年ですか」
「ふふ。出会った日のことは今でもはっきり覚えているわ」
二人が出会ったのは十年前、まだ十五歳の成人を迎える前の子供の頃のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます