傀儡の花苑より

18:軽い

　階段を駆ける。

　駆けて、駆けて、駆けて。

　背後は振り返らない。

　絶対に、振り返らない。

　――振り返りたい。

　ティリムはその言葉を、グッと心臓に押し付けた。

　声に出してはいけない。

　絶対に声に出してはいけない。

　ダイアも、アイジスも。振り返りたいが、それは叶わないと理解しているのだ。

　いま振り返ったとして、コルが助かることも無いし。

　戻ったって、いまコルのいる所が最も危険なのだ。直ぐに殺されて終わりだろう。

　だから。

　もうコルの顔を見る事は無い。

　もう二度と、無い。

　――もう、二度と。

　◆

「あっ…………！」

　俺はアレの存在を思い出した。

　アレがあれば、自衛がよりこなし易くなる。

　それがあるのは一階、玄関の近く。

　取って直ぐに外に出て練習できる様に、玄関付近の棚に入れてあるのだ。

　駆けて、駆けて。

　階段を下り終えた。

　そして向かうは玄関。

　そこから外へ出て、領民に避難を呼び掛けるという手筈だ。

　異形が飛び込んできた時の音が果たして領地内に広まっていれば話は早いのだが。

　若しかしたら、異形襲来に気付いていないかもしれない。

　そうならば、混乱を招くのは必然であるが、異形の存在をどうにか知らせるしか無い。

　そしてその方法も、異形襲来を叫ぶ他無い。

　もっとマシな方法があるのかもしれないが、今は余裕が無く、この程度の方法しか思いつかなかった。

　異形に気付かれる心配など、するだけ無駄だ。

　異形は論理的思考なぞ持ち合わせていない。

　ただ破壊のみを目的としているが如く、兎に角暴れ回ると、ルイアは言っていた。

　なら、叫び声に釣られるのも、その異形の気分次第な訳で。

　俺達が叫ばないからといって、確実に領民を襲わない保証は無いのだ。

　なので叫んで避難を促した方が犠牲者が少なくなると思われる。

　なので今からは、外に出て、領民に避難を促し、ここから離れさせる。

　それをどれだけ迅速時行えるかが、生存者の増加に帰結する事は言うまでも無い。

　取り敢えず何事にも、無駄な時間を掛けないことだ。

　◇

　駆け、駆け。

　一階へと降り立ち、そのまま出入り口へと走る。

　階段から出入り口までは、然程遠く無く、十秒程で行ける距離にある。

　そしてその傍に……

「あった！」

　俺は直様“それ”を取り、外へと出る。

　“それ”とは当然――

「アイジス！　何をしようとしてるの……？」

　――刀である。

「だって、僕がお母様とダイアを守らなければ――」

「何を言ってるの！」

　そう言ってティリムは俺から刀を取り上げた。

「あのね……私を守りたいのなら、私にアイジスを守らせて。これでも、貴方の母親なのだから。貴方が死ねば、私が生きる意味は無い」

「そんな事――ッ」

「あるのよ」

　俺の目を真っ直ぐと見つめる。

　その眼光は熱く、その想いは普遍的であると語っていた。

「でも僕はアイジスじゃありません」

　そう言おうとしたが、どうしてか憚られた。

　ティリムには、言ってはいけない言葉だと思ったのだ。

「――だから、刀は持たないで」

　そう言ってティリムは刀を抱えた。

　一応は持っておく様だが、俺へ渡すつもりは無いらしい。

　当然、そこから無理矢理取り返す様な真似はしない。

　最善は異形から逃げて生還する事。

　スレイヴには悪いが、ここで足止めして貰う他無い。

　申し訳ないが、ティリムの方が何倍も大切なのだ。

　◇

　外へ出る。

　予想通りだが、外が騒ついている。

　異形が襲来した際の音の所為か。

　いや…………

「何――これ……？」

　幾つかの家屋が倒壊し、そこから煙が上がっていた。

「ママ…………ママァ‼︎」

　其処彼処で悲痛な叫び声がこだましていた。

　煙を見ると、北から一直線に整然と並んでいた。

　異形がどの様に攻めてきたのかが一目瞭然だ。

　そして、母を叫ぶ少女の目の前には、倒壊した家が一軒。

　恐らくその家はその少女の家で、そこに向かって母の名を呼ぶと言うことは。

　その下に――ッ！

「ウプッ――」

　思わず嘔吐しかけた。

　瓦礫に敷かれ、柱に潰され。そんな状況で、生きているとはとても思えない。

　恐らく、もうあの少女の母は。

　◆

　今まで、人の死と言うものに触れた事が無かった。

　死とは、軽かった。

　命とは、軽かった。

　前世で、祖父が死んだことがあった。

　しかしその祖父も、飛行機で行く様な場所に祖父母の家があったが為に、三回か四回程しか会った事が無かった。

　当然そんな場所なので、火葬には立ち会わず。

　結局、四十九日での納骨で会うのが五度目になるのだが。

　その祖父に対して大して思い入れも無ければ、思い出もあまり無い。

　顔もハッキリ思い出せないし、声なんて一切覚えていない。

　だから大して衝撃もなく、死という概念の本質を、理解しかねている。

　死とは、涙を誘う。

　しかしもう亡くなってから暫く経っていたので、家族誰も泣かず、祖父との昔話に花を咲かせていた。

　当然その話にもついて行けず、ただ祖父の墓を眺めて、「綺麗な石だな」とか「なんて書いてるんだろ」とか、挙げ句の果てには「この墓って幾らするんだろ」なぞ、頭の悪い事ばかり考えて時間を潰していた。

　死とは軽い。

　命の散り様を知らないからだ。

　そしてコルが死んだ。

　そして視線の先には、母が倒壊した家の下敷きになり泣き喚く少女の姿。

　死とは、綺麗では無かった。

　美しく無かった。

　死体は、悍ましい。

　鮮血など、美しくも何とも無い。

　ただ、汚らしい。

　死に嘆く姿は、ただ莫大な寂寞感を募らせるばかりで。

　その想いを考えるだけで、心底不快感に苛まれる。

　悍ましい。

　今まで軽んじてきた命の、その果てしない重さを知った。

　◇

　しかし足を止めている暇はない。

　此処からでも、避難を促す為叫ぶ。

　それこそ、今できる最大限なのだと、思考を放棄して。

　息を大きく吸い。

　吸い。

　吸い。

　吸って――

　その時だった。

　背後から、再び轟音が響いた。

　俺達はすぐさま振り返る。

　しかし振り返る前に、俺は“それ”をこの目で捉えた。

　“それ”とは。

　――虚空に飛ばされたスレイヴの姿だった。

　そしてそれに追随する様にして、異形も飛ばされているスレイヴを追う。

　――何が起きた……？

　いや、考えられないが、異形ならば不可能では無い。

　異形は、途轍もない力でスレイヴを吹き飛ばしたのだ。

　家の壁を見ると、壁の一箇所に大きな穴が空いている。

　つまりスレイヴは、壁を突き破って吹き飛んでいったのだろう。

　そして二人の飛んで行った先は。

　当然住宅街であった。

「このままじゃ領民への被害が――」

　免れない。

　そう言おうとした。

　瞬間。背後にある家が、軋んだ。

　ギィギィと、不快な音を立てる。

　そしてそれは徐々に。

　こちらへ向かって倒れようとしていた。

「危ない‼︎」

　俺はそう叫びながら、咄嗟にダイアとティリムの手を握り、駆ける。

　駆け、駆け、駆け。

　その度に。

　軋み、軋み、傾く。

　どうする、どうすれば良い。このままじゃ全員下敷きになってしまう。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。死にたく無い、死んでほしく無い。これから知っていくって決めた所なのに。知る手立てはその人が生きているからこそ知られるのであって、死んで仕舞えばもうそこに新たな想いも残らず、ただ自分の知るその人が虚像となって心に残るだけなのだから。結局それは知っているということではなく。人を知る事を放棄している事にすぎない。

　諦めるな！　走れ！　足を動け！

　――軋む。

　死なせたく無いんだろう！　死にたく無いんだろう！

　――軋む。

　だったらもっと走れよ！

　――軋む。

　このノロマ！　愚図！

　――軋む。

　――軋む。

　――軋む。

　――軋む。

　――軋む。

　――軋む。

　――軋む。

　――軋む。

　――軋む。

　――軋む。

　――軋む。

　――軋む。

　―――　　　―倒れる。

「間に合わッ――――」

　その時、背中を強く押された。

　五歳の俺はその所為で前方に吹き飛び。

　隣からも同じく、ダイアが転ける音が聞こえた。

　誰が押した？

　――そんなの、一人しかいない！

「母様――‼︎‼︎」

　直後。

　激しい噪音と共に、ティリムは瓦礫に呑まれた。