中空のバナナ

わらびさん

中空のバナナ

危ない! そう言ったものの、コンマ一秒遅かった。思わず目をつぶる刹那、八起やおきの足が空を切るのが見えた。

「大丈夫ですか! 八起さん!」

アヤはしゃがみこんで八起の腕を掴む。絵に描いたような転び方だったが、幸い頭は打たずに済んだようだ。八起の頭がだめになっては、助手であるアヤも食いはぐれてしまう。

「すり傷程度で良かった。さ、事務所に……あっ」

アヤは込み上げてくる笑いを飲み込み、マフラーで口元を隠した。八起がプルプルと肩を震わせながら立ち上がる。頭の上に乗ったそれ、、をつまみ上げ、そして叫んだ。

「誰だ、こんな所でバナナを食った奴は!」


「恥ずかしいからそれ、捨ててくださいよ」

商店街。バナナの皮を片手に歩く八起に、奇異の目が集まっている。

「やなこった。犯人の顔面に投げつけでもしないとこの怒りは治まらん」

「見つかるわけないでしょう。そんなことより浮気調査、片付けちゃいましょうよ――って、あれ? それちょっと見せてください」

アヤはひったくるようにして、八起がぶら下げた皮を取った。

「おい、何をする。取り上げたって俺はやめんぞ。新しく買ってでも投げつけてやる」

「いや、そうじゃなくて。見てくださいこれ。バナナの皮に赤いシミが。……血、ですかね」

「どれどれ。――血にしては鮮やかすぎるだろ。それに、誰の血だ。俺は出血してないぞ」

言われてみればその通りだ。手がかり発見と思ったのだが。

「やっぱり、見つかりっこないですよ。仕事に戻りましょ。――ん、八起さん?」

突然、八起が立ち止まった。腕を伸ばし、何かを指で示している。

「あいつだ」

 えっ? アヤは慌てて示された先を見る。十メートルほど前方、商店街の出口付近で除雪作業中のおばちゃんが一人。

あんなに穏やかそうな人が? いやまさか。大体、ポイ捨てをするような人間が雪を掻いたりするものだろうか。あまりにも情緒不安定だ。

「そっちじゃない、右ッ」

アヤが戸惑っていると、八起がすぐ隣にきて、もう一度指を突き出した。今度は慎重にその指が示す先へ目をやると、若い男の姿があった。

ベレー帽をかぶったその男は、商店街の出口脇でスツールに腰かけていた。両の手に絵筆とパレットを持ち、イーゼルと向かい合っている。路上にいくつかのキャンバスが並べられていて、ふと、そのうちの一枚に目が留まった。

「あれって――」

それは、あまりにシュールな絵だった。宇宙空間と見られる暗闇の中でバナナが一本、地球をバックにプカプカと浮かんでいるのだ。そしてキャンバスの隅には、赤い絵の具でサインが施されていた。

「あいつは実物のバナナを見ながらあの絵を描いた。一丁前にサインなんか入れた後、用済みのモデルを腹に収めて、皮は路上に投げ捨てた。赤い付着物は血液ではなく、絵の具だった。――あの野郎、よくもやってくれたな」

八起が足を踏み鳴らすようにして、男へと近づいていく。男はそれに気付かず、悠々と筆を動かしている。見ると、今度は風景画らしい。八起が片手に持ったバナナの皮を大きく振り上げた。

本当にやる気だ。暴動を起こして八起の信頼が地に落ちれば、事務所は潰れてしまう。助手であるアヤの生活も危ういものになるだろう。

止めなければ。そう思ったとき、アヤはふとそれ、、に気が付いた。もうわずかにまで縮まった男と八起との間、その道の上に氷が張っていたのだ。

「喰らえ、この野郎!」

「八起さん、危ない!」

二人の叫びが重なり、続けざまに鈍い音が響いた。八起の手を離れたバナナの皮は宙に大きな放物線を描き、尻もちをつく彼の頭上に着地した。アヤは額に手を当てる。

またしてもコンマ一秒遅かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

中空のバナナ わらびさん @warabi3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ