私の天使をつかまえて

志央生

私の天使をつかまえて

 前職は恋のキューピッドでした。今はしがないコンビニ店員として下界で労働に励んでいる。

「いやぁ、鶴屋くんはよく働いてくれて助かるよ」

 閑散とした店内の棚に商品を並べていると店長が声をかけてきた。レジは無人になっているが客がいないから許されるだろうか。

「いえ、そんな褒められるようなことはしていませんよ。ここでの仕事は楽しいですから、つい力が入るだけで」

 顔は商品に向けたまま言葉だけを返す。パッケージを眺めて期限を確認して並べ直す。奥から手前に、と体が覚えた作業を繰り返し行う。

「ははは、楽しいだなんて嬉しいことを言ってくれるね。そうだ、そこの品出しが終わったらバックヤードで飲み物の補充もお願いするよ」

 そう言って事務所に引っ込んでいく店長を横目で確認しながら僕は頭をかく。楽しい、とは言ったもののあくまでこの仕事は身を隠すための仮初のもの。本来の僕の役割はキューピッドとして恋を成就させることだ。そのために、大学に近いコンビニを選んだのだから。

 学生は恋と性の味を覚えて溺れるようになり、付き合っては別れる、を繰り返す。その源流である大学の近くにいることは使命をまっとうするのに適しているはずだ。役目さえ果たせば、僕の容疑は晴れて天界に帰れるはず。雲よりも高く、人の目には見えないあの美しき場所に。

「すみませーん」

 レジの方から声がして膝をついていた体を起こす。声を微かに調整して「少々お待ちください」と口にした。小走りでレジに向かい僕は彼女と対面した。


「鶴屋さんって黒髪の女性がタイプなんですか」

 ピークを過ぎて閑散とした店内を見回しながらレジに立っていると後輩の岸本がそう声をかけてきた。

「なんでそう思うんだい」

 手持ち無沙汰を埋めるためにタバコの減りを確認して補充する。間を埋めるように商品名を小さく確認するように呟きつつ行う。

「いや、だって毎回黒髪の女性がレジに来ると嬉しそうに対応するじゃないですか。顔には出てませんけど、声のトーンとか少し違うのは流石に俺でも気づきますよ」

 軽く笑う声が聞こえたが僕は気にしていないふりをする。なるべく表に出ないようにしていたつもりだが、声までは注意が向いていなかった。そこでバレるとはこちらも思っていなかった。

「タイプというか、好みではあると思う。それに男性客相手にするより、異性相手でそれが好みに合っていれば声も少し変えて対応するさ」

「確かに可愛い子とか美人が来るとテンション上がりますよね。それはわかりますわ」

 岸本は気分良さげに廃棄商品をレジに通していく。

「でも、鶴屋さんの露骨さは異常ですよ。もう顔がにやけてまくっていて、気持ち悪いくらい」

 流れるようにバーコードをスキャンしてカゴに投げ込んでいった。

「気持ち悪いは言い過ぎだ。けど、顔を引き締めるように気をつけるよ」

 僕は銘柄が同じタバコを補充した。

「そうは言っても、すぐには無理だと思いますよ。鶴屋さんのお気に入りの子、もうすぐ来る時間でしょ」

 岸本が店内にある壁掛けのアナログ時計を指さして言うのにつられるように、僕も時間を確認する。彼のいうとおりでもう時期彼女が来る頃だろう。そう思っていると自動ドアが開き来店を知らせる音がなる。

「いらっしゃいませ」

 耳に聞くが早く口が自動で動く。染みついた癖のようなものでこの音を聞くと自然に発するようになってしまった。視界は開いたドアにいき、来店した客を見る。むさ苦しい男が一人だった。笠を被ったような髪型にダボったい服、ズボンはボンタンと間違えてしまったのかと思うほど膨れている。

「岸本くん、あれは流行りなのか。それとも個性なのか」

 小声で話しかけて僕は尋ねる。それを聞いて彼は笑った。

「鶴屋さんってああいう服装苦手なんですか。流行りってよりかは個性寄りだと思いますけど、大学生も多いし普通の服装だと思いますよ」

 ケラケラと笑いながらカウンターフードを補充する。揚げたばかりの唐揚げ串が香る。

「でも、鶴屋さんには似合わないと思いますよ。ああいうのは、着る人によってはダサく見えるんで」

 そういうと岸本はレジに向かい、店内を物色した男の相手をする。それを横目に動きを止めることなく僕はタバコを詰めていく。再び響く来店を告げる音に顔を向けると黒髪の彼女がやってきた。

「いらっしゃいませ」

 岸本に言われたことを思い出し、顔を引き締めて声も作る。やや低めでゆっくりと言葉を紡ぐ。実際に口から出た音が想像していたよりも紳士的なものになっていたことに心内でガッツポーズを決める。

「ありがとうございました」

 男の会計を済ませた岸本がゆっくりと近づき、ニヤッと口元を緩めた。

「鶴屋さん、今のいらっしゃいませって決め声ですか」

 その言葉に僕は首を横にふる

「決め声ではないよ。さっき顔が緩くなってだらしのない、と言われたから少し気を張ってみただけのことだ。それ以外の理由はない」

 断言するように言い切り、僕は最後のタバコを補充した。

「すいません」

 後方から優しい声音が聞こえ、振り向くと朗らかな笑顔をした彼女がレジに立っていた。手にはペットボトルがある。岸本を押し除けるようにして一歩前に出て、こちらも不自然にならないよう笑顔を作る。

「お待たせしました。こちら一点で」

 バーコードを読み取りながら値段を読み上げる。キャッシュレス決済が普及し始めて久しく現金での支払いは減っているが、彼女はいつもニコニコ現金払いをしてくる。少し多めの金額をレジに打ち込み、お釣りが計算される。レジスターが開いてお金を取る。

「こちらお釣りになります」

 そっと触れるようにお釣りを手渡しする。だがここで本当に触れてしまうのは紳士の振る舞いとして失格であろう。こういう場合は、ギリギリで触れないで渡すことが重要なのだ。

「ありがとうございました」

 レジを去っていく彼女の背を惜しみながら見送り、僕は思わずため息を漏らす。それをまた聞いていた岸本がニヤニヤ顔を携えてやってくる。これが一連の流れとしてあるのだ。


 岸本がバイト先での友人だとすれば、僕にはもう一人頼れる人がいる。

「先輩、お疲れ様です」

 スマホを操作して文字を打ち込み送信する。アプリを介してやり取りをしている友人で通称を先輩としている。彼は物知りでこちらのだいたいの疑問に答えてくれる。

「今日も彼女が来てくれました。教えていただいた通り、紳士的な振る舞いとして、御手に触れないようお釣りを渡しました」

 本日の報告のような形で言葉を入力し送っていく。今、彼にしているのは恋愛相談というものになる。

「いい心がけです。続けることで効果が出るでしょう」

 淡白な返事だが、それでも岸本とは違い笑ったりはしない。文字だけのやり取りだが、僕の心を支えてくれているのは間違いない。

「ありがとうございます。次はどのようなことをしたら彼女の気を引けるでしょうか」

 レスポンスの速さはピカイチで送った先から返事がくる。

「告白です」

 瞬間的な返信が表示され、僕は文字を打つ指を止めた。いついかなる時もそれは選択肢として考えてはいけないと叩き込まれてきた。それは自分が恋のキューピッドであるからだ。

 人の恋を結ぶことを意義としているのに、キューピッドが恋に落ちるなど許されることではない。それは欠陥と言えるし、他のキューピッドにバレれば処分されるだろう。

「段階的に踏み込むべきではないですか。いきなり告白は難易度が」

 文字を打つ指に力が入る。今の胸にある感情がなんなのか、口にすれば自分の欠陥を認識してしまう気がした。けれど、それを否定するのもできなかった。

「遠回りしてもいいことはない。時間をかければ動くことに臆病になる。そうなる前に行動をするべし」

 仁別もなく先輩からの返信が届き、僕は抵抗を諦めた。


 やるべきことは決まったが、どう行動を起こすかは決まっていない。漠然とした目的のためにやっていかなければいけないことは多くあるはず。そのどれもが難易度の高いことであるのは承知していたが、先輩の言葉を信じて進むほかはない。

「鶴屋さんは真面目っすよね。なんというか、不器用みたいな」

 ケラケラと笑う岸本が慣れた手つきでカウンターフードを並べている。僕はレジの札をまとめながら軽く聞いていた。

「いやね、思うんですよ。真面目っていいとは思うんですけど疲れるじゃないですか。ほどほどに力抜いた方が楽なのに、その力の抜き方がわからないって言う人が多くて。だから、真面目イコール不器用みたいなイメージあるなって」

 トングでつまむ揚げ物の衣のカスがハラハラと落ちている。

「不器用なのは確かだけど、真面目だからというのは違うかもしれない。単純に器用ではないから、一つのことに集中しないとできないだけなんだよ」

 計算を終えたお金をレジに戻して閉じる。岸本は「そういうもんすか」とトングで音を鳴らしながら答えた。

「でも、鶴屋さんの真面目はなんと言うか見本みたいな感じがするんですよね。真面目が人の形をしたら鶴屋さんになる、みたいな」

 手を動かしながら岸本は口を止めることなく続けた。

「そんなに言うほど僕は真面目じゃないよ」

 口で否定しつつも、内心は少し焦りを感じていた。キューピッドでありながら、下界で人として生活するにあたり真面目で勤勉であることを心がけて行動をしてきた。それが周りから見ると少し浮いて見えてしまっていることに気がついたからだ。ただ、ここから急に真面目さと勤勉さを取り除くことはできない。あくまで現在のイメージを崩さないように生活していくのが得策だろう。

「時間的にもう少ししたら鶴屋さんのお気にの子が来ますね」

 いつの間にか隣に来ていた岸本が肘で僕をつつく。「やめろ」と制しながら僕も掛け時計を見て時間を確認する。今日も来てくれるかな、と気持ちがはやるのを抑えて、店のドアが開くのを待つ。

「いらっしゃいませ」

 ドアが開いて音が鳴ると同時に声が出ていた。爛々とした気持ちが背を向けていたドアに向かって体を動かした。

「すいません、少々時間いいですかね」

 顔を向けた先にいたのは、期待した彼女ではなく強面の男二人組だった。


 スーツ姿に身を固め、肩を縮めているが消せない威圧感は顔の剣幕がすごかったからだ。二人組でやってきた男は懐から写真を二枚出した。

「こちらの女性に見覚えはありませんか」

 レジの上に置かれた写真には黒髪の女性が写っていた。横から岸本も顔を覗かせて確認している。

「あっ、これ鶴屋さんの前のお気にの子達ですよね。最近は見かけなくなってますけど」

 相手が誰なのかわかっていないのか岸本は呑気に声をあげていた。僕は「そうだな」と同調するように声を出してから男に写真を突き返す。

「以前にうちのコンビニを利用されていたお客さんだと思います。最近は見かけていませんが、この女性たちがどうかしたんですか」

 探るように男の求めているであろう返答をする。そうすると男は写真をしまいながら別の手帳を取り出した。

「いや、すいません。我々はこういうものでして」

 開いた手帳には警察の印があった。おおよそ見当はついていたが岸本は本気で気づいていなかったのか驚いた様子を見せていた。男の背後で待機していたもう一人の刑事が前に出てきて話を代わった。

「実は彼女たちには捜索願いが出されていまして、捜査中なのですがこちらのコンビニによく通われていたとお聞きしたので、覚えていられるか聞いた次第です」

 男より愛想よく話す刑事は若くて優しい顔つきに思えた。それが場数の違いからくるものなのか、生来のものなのかはわからない。

「それでですね、先ほど気になったのですが『お気にの子』というのはどういうことでしょうか」

 優しい顔だった刑事が一瞬にして表情を変える。

「いやー、鶴屋さんのタイプの女性なんですよ。それでうちに来ていた頃は鶴屋さんがルンルンだったんで、俺が勝手にお気にの子なんだなって思ってたんですよ」

 岸本は怯むことなく刑事に話をする。刑事も「なるほど」と言いつつ手帳に何かを書き込んでいる。

「では、来店されるお客さんにタイプの女性がいた場合は『お気に入りの子』という認識をすることがある、というのが一般的だと」

「一般的かはわかんないですけど、でもそういう楽しみくらいあっても良くないですか。だって可愛い子とか美人な人が来たら普通にテンション上がりますし、タイプだわ、って思う時もあるし。だからと言って何かするわけじゃないですからね。あくまで、目の保養的な感じですよ」

 刑事の追づいする質問に岸本は難なく答えていく。僕は二人のやりとりを感心しながら見てしまっていた。

「それで鶴屋さん、でしたかね。あなたも目の保養目的で彼女たちを見ていたと」

 黙っていた男がこちらに話を振ってきた。終わらないやりとりに痺れを切らしのだろう。

「そうですね。確かにタイプであるのは否定しませんが、線引きはしているつもりですから」

 僕はそう言い切ると、男は「わかりました。ご協力ありがとうございます。またお話を伺うこともあるかもしれませんが、その時はよろしくお願いします」と頭を軽く下げて帰っていった。

「いやー、俺警察なんて初めてですよ。それに今のって聞き込みでしょ。すごいな、今度友達に自慢しよ」

 とウキウキしながらバックヤードに消えていった。残された僕は一人緊張を解いて息を吐いた。

「でも驚きましたよね。前に来ていたお客さんが行方不明になっているなんて」

 新鮮なネタを手に入れたことでワクワクした表情を浮かべた岸本はそう問いかけてくる。

「まぁ、驚きはしたけどよく来ていたお客さんが急に来なくなったりとかはあることだからね。いつもは理由とかわからないけど、今回が捜索願いが出されたから聞き込みにきただけのことだよ」

「そっすかね。でも、案外こういうの連続誘拐事件みたいな感じで裏では捜査してたり」

「テレビの見過ぎだ。根拠もないのに事を大きく考えるのは良くないぞ」

 岸本は頭をかきながら「いやー、そうっすけど」と言葉尻を飲み込むような言い方をした。それが引っかかって、はっきり言えよと飲み込んだ言葉を催促した。

「いやね、だからですね。ほら捜索願いが出てる二人って、黒髪短髪の女性じゃないですか。これを偶然だと捉えるか、狙っていると捉えるかで事件性が出てくるんじゃないかなって」

 そう言いながら終わりには「ただの素人考えですけどね」と付け足していた。ただ、それが胸の奥につかえた。

「いつ頃から来なくなったんだっけ、あのお客さんたち」

 そのつかえを取り除こうと僕は岸本に問いかける。それに「えーっと」と顎に手を当てながら彼が口を開いた。

「最初に来なくなった子が半年前で、もう一人は三ヶ月くらい前ですかね。鶴屋さんの面白い顔を見れなくなったので覚えてます。それで、春先になって今のお気にの子が来て鶴屋さんが元気になったんですよね」

 笑いながら岸本は言っていたが、こちらは嫌な予感がした。戯言のような岸本の推論が当たっていれば同じ姿をした女性を狙った誘拐事件の可能性がある。半年、三ヶ月と行方不明になったとされる時期を踏まえると、次の行方不明者が出るのは今月になるだろう。そして、このコンビニを利用していた客が被害に遭っていることも考えると、今回もうちのコンビニ利用者が行方不明になるかもしれない。そして、その全てが当たっていれば、次に消えるのは彼女になる。

「あの子が危ないかもしれない」

 気づけば僕は声に出してしまっていた。



 時間になると薬を飲まなければいけない。一日に三回、決まった時間に接種しなければ人として姿を保てない。それがキューピッドである僕に課せられた制約だ。

「こんなもの必要なくなれば楽なのに」

 カプセル薬を口に入れて水で流し込む。喉を鳴らして飲み込んでみせる。バイト終わりの時間に一錠が定期的に飲む時間に当たっている。

「鶴屋さん、お疲れ様っす」

 岸本も更衣室にやってきて着替え始める。こちらはすでに帰り支度が済んでいたので、「お先」と声をかけて出ていく。今日は彼女は来なかった。正確には店内に入ってこなかった。店前を通り過ぎていく姿が見えたので、被害に遭っているわけではなかった。

「そうだ、先輩に連絡しよう」

 スマホをポケットから取り出してアプリを起動する。フリック入力して言葉を作る。

「先輩、彼女の身が危険かもしれません。どうにか助ける方法はありませんか」

 打ち込んだ文字を送ると先輩からすぐに返事が来る。

「危険から身を守る方法は護身術を習っておくと利便性が高い。また、そのほかに身を守るアイテムとして防犯ブザーや防犯スプレーなども有効」

 なるほどと頷きながら「ありがとうございます」と返信をする。彼女の身に何かが起きる前にできる対策としては先輩の教えてくれたことは使えるだろう。

 けれど、彼女にどう伝えればいいのか。無関係とも言える間柄で唐突に「防犯グッズを持っておいた方がいいですよ」なんて言えるわけがない。

「僕が助ければいいのか」

 天啓のような考えが頭をよぎったのだった。


 時に姫を守る騎士とは、いかなる危機においても颯爽と現れて怪我一つなく助けることができる者を指すだろう。そのためには彼女に気づかれずに警護することが大事になる。一度バレてしまえば僕の考えた最高のシーンには到達することはできない。

「鶴屋さん、シフト変更したんですね。驚きましたよ」

 配達されてきた弁当などの商品を並べていると岸本がそう声をかけてきた。手は止めずに「野暮用で」と返す。

「でも、いいんすか。お気にの子が来る時間の前後くらいにバイト終わるとか、もったいなくないっすか」

「別に岸本くんには関係ないだろう。入れ替わりで次の人が来るし」

 そう言うと僕は作業に戻る。岸本は何か納得のいっていない顔をしていた。

「いらっしゃいませ」

 いつも通りの挨拶と仕事をこなして時間を待つ。店内の掛け時計の針が頂点に達したのを確認して、「お先です」と岸本に声をかけてタイムカードを切る。更衣室まで早足でいきそそくさと着替える。更衣室にいても来店を知らせる音が聞こえ、誰が来たのかと心内で焦りを感じた。

「大丈夫、まだ予定時間内だ」

 いそいそと着替えて、バックヤードのマジックミラー越しに店内を確認する。商品棚があり全体を見渡すことはできなかったが、直線上に女性の後ろ姿を見た。黒髪のショートカット、いつも店を出るまで見ていた背中があった。

 このままいけば彼女はレジで会計を済ませて出ていくだろう。そのタイミングに合わせて僕も店を出る。何度もシミュレートした彼女を守る作戦を思い出す。そんな中で一つの影が目の前を通り過ぎた。男の姿だった。

 彼女とは距離があるが、背後を追うような形で歩いているように見えた。広くはない店内だから客同士が前後で歩いてくることも少なくはない。

 だが、その男は以前から彼女がくる時間に前後して店内にいることが多かったことを思い出す。

「あいつがそうなのか」

 奥歯に力が入る。今すぐに飛び出して捕まえて問正しくなるが、何の証拠もない。勢いだけでは解決できない、と自分を落ち着かせる。こういうときにキューピッドである自分の力が役に立てばいいのに、と思わずにはいられない。

 別段、特殊な力があるわけでない。ただ、赤い糸が見えるという些細なものでそれを辿って恋を成就させるのが役割だ。それに全員の赤い糸が見えるわけではない。一部の人間のものだけしか見えない。

 そんな中途半端なものだから、天界から落とされて人に紛れて仕事をこなすことになったのだ。僕には取り柄などない。ただ、これ以上は失わないために人に好かれる好青年を演じているだけなのだ。

「ありがとうございました」

 小さな岸本の声が聞こえて意識を戻すと彼女は会計を終えていた。それに慌てて僕は更衣室を出た。



 その日は何事もなく彼女は帰路についた。背後から距離をとりつつ見失わないよう追い掛けた。一つは彼女の背中、もう一つは男の背中が僕の前を歩いていた。コンビニから出たのは彼女と男の二人で歩いていく方向が同じだった。

 怪しい男の挙動に注意しつつ、さながら陰で彼女の危機を救うヒーローのような気分が僕を支え動かしていた。ただ、男は途中の交差点を曲がり姿を消してしまい彼女も駅の中に姿を消してしまった。僕ができたのはそこまでだった。

「いやー、昨日のテレビ見ましたか。『実録・平成の犯罪』って、もう平成も古い時代扱いですよ。まぁー、たしかに平成の一桁代とかは三十年前だから分かりますけどね。まだ言うほど古くない気もしませんか」

 楽しそうに岸本はトングを噛み合わせて音を出す。こちらはレジ周りの補充をしているが、店内に人いない。

「古いとか新しいとかは指標がない。だから、それぞれの感覚に委ねられる部分はある。二、三年でもだいぶ前と思う人もいるし、十年前でも最近と感じる人もいる。長命になれば時間的感覚が長くなる、とも言う。もし寿命が千年単位であったら百年でも最近に感じるかもしれない」

 何の気なしに口が動くままに話していると岸本は「おぉ」と声を漏らしていた。

「鶴屋さん、おもしろいこと言いますね。なんか真面目だけかと思ってました」

 屈託のない顔で笑う彼を見て「仕事」と注意して自分の手元を見る。非力を感じるのは先日の尾行に満足がいっていないからだ。狙われているかもしれない、という思いから後を追ったが、1日だけで安全と判断することはできない。続けていくことで危険を取り除くチャンスはやってくるはずだ。

「鶴屋さん、聞いてますか」

 考え事をしている意識が岸本の声で呼び戻された。

「昨日のテレビでやってたので、連続ストーカー殺人の話があったんですよ。いやー、めっちゃマストな内容だと思って見たんですよ。ほら、こっちのは行方不明ですけど。でね、これまた犯行動機が勝手で、過去に振られた女性に似てたから、とかそんな八つ当たりみたいな理由だったんですよ」

 岸本は「嫌ですよね、そんなので殺されたら」と首を横に振りながら言っていた。僕はそれを聞いていた。自動ドアが開く。

「いらっしゃ」

 言葉を途中で止める。店内に入ってきたのは先日の警察だったからだ。

「どうも、またお話お聞きしてもいいかな」

 穏やかな笑みを浮かべているが、消せない威圧感があった。こちらに「いやだ」と言わせない空気に岸本が明るく返事をした。

「いいっすよ。っても、前に話したくらいしかないと思いますけど」

 その言葉に警察は「問題ないです」と言って、前回同様に写真を出した。

「この写真の中で見覚えのある方はいらっしゃいますか」

 今回の写真には男性が写っていた。

「見覚えはありますか」

 顔の険しさは変えず、ただ少し声のトーンを優しくしたように警察が聞いてくる。はっきり言って写真に映る男の顔はどれも見覚えがない。

「もしかして、この人たちもウチの常連じゃないですかね。いつも帽子とかマスクとか、メガネかけてたりしてるから合ってるか分かりませんけど、なんとなく似てる気がします」

 岸本が顎に手をやりながら答えていた。陽気で浮ついているだけかと思っていたが、自分よりもお客を見ているのだと思った。こちらはどれだけ写真を見てもピンと来なかったが、一枚だけ見覚えのある男の気がした。

「ご協力ありがとうございます」

 じっと見ていた写真を警察がまとめて胸ポケットにしまい、僕は目で追うように警察を見てしまった。何度見ても見慣れない威圧感のある剣幕に靴一束分だけ下がる。

「そういえば、先ほど面白いこと話をされていましたね。刑事事件のことを」

 柔和な笑みで話しかけてきたのは後ろに控えていた若い警察だった。空気を変えるような話題振りに僕は縋り付く。

「えぇ、まぁ。彼が昨夜の番組で見たそうで。なんでも平成の事件を扱った内容だったみたいで」

 やや早口になりながら説明すると若い警察は口元に手を当てて軽く笑った。あとの話は岸本が話し出した。

「いやー、なかなかすごいですよね。精神異常とか二重人格とかで罪から逃れようとした、って内容のものもあって、本当の話なのか疑いたくなる部分もありましたけど」

「少なからず、そういったケースの犯人もいますよ。あまり言えませんが、罪を軽くするために装っているだけの被疑者はいますから。ただ、ほとんどの場合は専門家の診断でばれてしまいますから賢くはない、と思います」

 そう爽やかに語る若い警察は口が軽いのかスラスラと話してくれる。それを諌めるように顔の険しい警察が咳払いをすると、「すいません」と若い警察が言って「くれぐれも事件は起こさないようにしてくださいね」と注意だけをして帰っていった。

「鶴屋さん、鶴屋さん。二回目の聞き込みでしたよ。しかも、さっきの写真見ましたか。あれはたぶん犯人候補、容疑者ですよ。これは面白くなりそうですね、リアル事件簿ですよ」

 興奮しているのか岸本が早口で話しかけてくる。こちらは無視してもいいのだが、同意を求めてくる視線が鬱陶しいので「余計な勘ぐりをするな」と釘をさす。

「そうは言っても、あの写真の男たちの誰かが犯人なら俺たちでも犯人を捕まえられるじゃないですか。それに鶴屋さんが彼女の危機を救ったら、もう漫画みたいな恋が始まったりして」

その言葉を聞いて僕の頭の中に絵が膨らむ。

夜道、街灯が少なく限りなく闇にちかい中で毅然と歩く彼女の背後に近づく不穏な影。不意に襲い掛かろうとした瞬間、颯爽と現れる僕。危機的状況から身を挺して彼女を助けたことで僕と彼女は結ばれる。

 うん、なかなかいい物語だ。命を助けられたことを知れば、体を張って助けた僕のことを意識するはず。そこで最後に一言「君のためなら僕の命なんて安いものさ」と言ってハニカム。これは最高に決まったシチュエーションになるだろう。そのためにも犯人を探さなければいけない。

 好都合なことに警察の写真から候補の男は絞られている。捕まえるのも時間の問題だな。

「そろそろ鶴屋さん、あがりの時間じゃないですか。入れ替わりでモッチーが来るみたいですね」

 スマホを操作しながらシフト確認した岸本。僕はそれを聞き流すようにして掛け時計の針を眺める。もうじき彼女が来る時間になるだろう。その後にどの男が現れるかが重要だ。そいつが犯人候補として有力になるのだから。

「お先に失礼する」

 掛け時計の針が頂点に達したのを見て、口早に岸本に告げるとタイムカードをきる。急いで更衣室に向かいユニフォームを着替える。その中で来店を告げる音が鳴った。彼女がもうきてしまったのかと思い、着替えかけの姿でマジックミラーを覗き込む。それらしい姿は見えなかったが、扉が突然に開いた。

「わっ、びっくりした。あんた何してんの、そんな格好で」

 入ってきたのは望月だった。共同になっている更衣室は男女問わず使用される。タイミングによっては男女が同時に着替えることもある。ただ、そう大掛かりな着替えではなくユニフォームの着脱なので、薄着になることも肌を露出させることもない。

 だが、このときの僕は肌着だけの姿でバックヤード入り口のマジックミラーを覗いていたのだ。外からは見えないとは言え、そんな姿で更衣室を彷徨いていたなら露出趣味を疑われても仕方がない。

「待ってくれ、誤解だ。決してやましいことやいかがわしいことはしていない。来店する弟が聞こえたから、気になって覗いただけなんだ。ほら、今は岸本だけしかいなかったから大勢の客が来たら困るだろう。だから、念のために見ていただけなんだ」

 必死で言葉を並べるも望月の目は汚いものを見るようなものになっている。

「これ、あたしじゃなきゃセクハラだから。あんたって真面目だけが取り柄なのに、隠れた変態趣味があるとかマイナスだわ」

 そう言って更衣室のほうに進んでいく。その後ろを追うようにしてついていくと「あたしが着替えるまで待て」と冷たく言い放たれた。

 五分くらいでユニフォームに着替えた望月が出てきて「もういいわよ」と許しが出た。それに従いいそいそと着替えて更衣室を後にする。まだ店内に彼女の姿はなく仕事を開始した望月と岸本が何か話している。

「あっ、鶴屋さん。聞きましたよ、半裸であそこから店内覗いてたって」

 面白そうに岸本が言ってきたの聞いて望月を睨むと「事実でしょ」と悪びれる様子もなく答えた。岸本も本気にしているわけではなく、面白がっているだけのようで「俺も見てみたいです」とケラケラと笑っていた。

「次はないから安心しろ」

 僕がそう答えると岸本と望月が笑った。

「いらっしゃいませ」

 店内に鳴った音に合わせて無意識に反応して挨拶をしてしまう。私服姿の自分が言ったことに驚いたのか、店に入ってきた彼女が目を開けていた。

「鶴屋さん、仕事スイッチ入ったままですね」

「わかるわー、あたしもオフの時にコンビニいてもベルの音で声出す時あるし」

 双方が好きなように言っているが、僕の視線は彼女を追っていた。

「そんな見ないほうがいいわよ。狙っているの丸わかり」

「ですよね。鶴屋さんって顔や態度に出るというか、もろわかりするというか」

 二人して言いたい放題されて僕は「もう帰る」と告げて店を出る。この間に店内に入ってきた人物はいない。僕もこれから店外で彼女が出てくるのを待つ。夏の残暑が消えて季節が変わるのがわかる。なるべく身を潜められそうな場所を探して電柱の陰に立つ。

 人目を気にして用事もなくスマホを触る。画面は暗転したままで指を動かしスクロールをしながら、あたりに目をむけた。大学が近いからか、彼女と年齢の近い男女が多く行き来している。時間帯もあるのか、コンビニ内では感じない人の往来があった。

 こんな中で女性の後を追っていても気づく人は少ないのかもしれない。気を隠すなら森の中、とは言ったもので注視されなければバレないのかもしれない。

「ありがとうございました」

 小さな声が聞こえてコンビニのドアを見ると彼女が出てきた。案外、岸本の声はでかいのかよく通る声質なのか、そこそこ距離があっても耳に入った。

 彼女は昨日と同じように駅に向かって歩き始めた。距離を空けてこちらも後を追う。人の中に紛れると誰の後についていっているかはわからない。ただ、僕は彼女の背中を見つめながら確かに歩きを進めた。

その中で横目に写真の男の一人を見つけた。自分と同じように人混みに紛れて歩く彼の視線の先には彼女がいた。偶然かそうでないのかは問題ではない。容疑者の一人であることを考えれば、どこかで彼女が一人になったところを襲う算段なのかもしれない。そこで自分がいなければ彼女は黒髪短髪女性連続失踪事件の三人目の被害者になってしまう。それだけは阻止しなければいけない。

 拳を強く握り僕は彼らの後を追いかけた。気づけば電車の中で揺られていた。男は中扉前に陣取り、彼女は進行方向前の扉前、僕は後方の扉前で二人を監視できる場所にいた。

 揺れる車内は人が少なくじっと見ていると気付かれる場合もある。そうならないようスマホを見たり、吊り広告を眺めるふりをして様子を伺う。車内アナウンスが流れ停車駅が近いことを知らせてくる。

 動きがあったのは彼女だった。乗降扉の側に移動したのを見て、この駅が彼女の家の最寄りであることがわかった。問題は手前の男のことだ。彼はアナウンスを聞いても動く気配がなく、なんなら壁に背を預けるようにして立っている。気にしていない、というポーズなのか、それとも本当にそうなのか判断がつかない。そんなことを考えていると電車は減速して体が揺れる。

「っとと」

 想像していたよりも後ろに引っ張られる感覚に思わず声が漏れた。それが割と大きな声だったのか、周りがこちらに視線を向けていた。それに気づいて下を向いて視線から逃げる。

 乗降扉が開く音ですぐに関心が減り、僕は少しだけ頭をあげる。すでに彼女は電車から降りているようで姿はなく、中扉に男が気だるげに立っているだけだった。


 二人の男はシロだった。そうなると自然と犯人は残った男になる。写真に写っていた人物は全員がコンビニを利用したことがある客だった。頻繁ではないが、使用頻度が高い人の顔は職業病なのか覚えている。キューピッドとしての力は関係なく、これは個人の記憶力の話になるが、僕は人よりもそれが優れていると思っている。

「鶴屋さんのシフトが変わってから三ヶ月経ちましたけど、戻さないんですか前のシフト時間に」

 暇を持て余した岸本が補充の満タンの割り箸を触っている。一本抜いては一本を差して、と無意義な時間を過ごしていた。

「まだもう少し戻す気はないかな。それに戻さなくても望月が代わりに入っているから問題ないだろ」

 こちらも手持ち無沙汰を誤魔化すようにレジカウンターの上を何回も拭く。

「モッチーも楽しいんですけど、やっぱ鶴屋さん以上にはいかないですね。こういうところは生まれ持ったキャラクター性みたいなのがあるじゃないですか人って」

 一本から二本に増える割り箸の出し入れ。次は三本にでもなるのか、と思いながら用もなくカウンターを拭く雑巾が同じ場所をシャトルランのように往復する。

「それに最近は面白いことも少ないし、鶴屋さんとお気にの子のドギマギ接客も見れてないからつまらないんですよ」

 そう楽しそうに岸本が言ったのを聞いて、心の中で小さくため息を吐く。

「人を暇つぶしのエンタメに使うな。それに望月と一緒にいて面白いことはないのか」

「いやー、モッチーは基本ローテですから、必要最低限の絡みくらいで盛り上がること少ないんですよ。それに比べて鶴屋さんは見ているだけで面白いから」

 そう口にする岸本を見て「そうかよ」と返すのがやっとだった。頭の中は最後の容疑者でいっぱいになっている。あまりコンビニには来ないが、来たときは大量に買い込むので顔は覚えていた。

 弁当から菓子、雑貨や薬品類までカゴに詰め込んでいる記憶。ただの無愛想な巨漢、という印象だったが、ああいう男ならストーカーや誘拐をやりかねないと思えた。それに、あの異様な買い込みは誘拐した女性に与える食事だったのかもしれないと思い至る。時期は不確かだが、半年前の最初の黒髪短髪女性が姿を消した頃にその男が大量に買い込んでいるのをレジ担当したような気がする。あまり買い込みをするお客さんを見たことがなかったので印象深かった。

「あれ、今日は早いですね」

 店内にベルの音が鳴り姿を見せたのは望月だった。気怠そうな顔で「たまにはね」と答えてレジ前を横切る。

「鶴屋の生着替え見たくないから早く来たけど、少し早すぎたみたい」

 そう言って百円玉をレジに置く。岸本は「コーヒーっすね」と意図を汲み取り、セルフコーヒー用のカップを渡す。

「タバコ吸ってから行くから、それまで裏に入らないでね」

 こちらを牽制するように言って店外に去っていく。入り口近くに設置してある灰皿は喫煙スペースになっているのだ。

「いやー、これはあれですかね。フリですよ、行くなよって言っておいて行けっていう」

 楽しそうに岸本は言ってきたが、僕は首を横にふる。

「それをやったら殺される。望月の目は笑ってなかったからな」

 そう告げたのだが、岸本は下がらなかった。

「いやいや、決めつけは良くないですよ。何事も多角的に見ることが大事っすよ。例えば、上空一万メートルって聞くと遥か彼方に思えますけど、キロに直したら十キロですよ。そう考えたらそこまで遥か彼方じゃなく思えません。それと同じで、世の中見方を変えるだけで案外簡単に見えることってたくさんあると思うんですよ」

 うんうん、と頷いて岸本は言ったがこちらには何も響かない。

「その例え、今の望月の話にあってるのかな」

「あってますよ。モッチーの言葉の表面を捉えるなってことですよ。それでも納得がいかないならスマホに聞いてみましょう。AIなら第三者視点で答えてくれますよ」

 そう言ってポケットからスマホを取り出そうとしたのを僕は止めた。

「いや、聞かなくてもやらないから大丈夫だ。それより、時間だから望月に声かけてくるよ」

 逃げるように店を出て喫煙スペースにいる望月に声をかけた。

「時間だから交代してくれ」

 こちらの言葉に煙を吐いて答え、吸いかけのタバコを灰皿に落とす。

「あたしが出てくるまで待ってろよ」

 望月がそう言ってきたので「お前のストリッパーに興味はない」とだけ返すと、脛に蹴りが入った。声を出さずに悶絶する僕をおいて彼女は店内に戻って行った。

「痛そーですね」

 岸本が傘立てを運びながらそう言ってきた。脛をさすりながら「マジ蹴りだった」と感想を伝える。

「まぁモッチーの着替え終わったら鶴屋さんも早く帰ったほうがいいですよ。この後雨降るみたいですから」

 そう教えられて考えた。

 時間はいつもより遅いが彼女が店に来る気配はない。もともと毎日通っているわけでもないので今日は来ないものだと思い、こちらも素直にまっすぐ家に帰ることを決めた。


 アラームが鳴って時間が来たのだと知る。錠剤型の薬を一つ取り出し、水で喉に流し込む。何度も繰り返していること行為だがいまだに慣れる気がしない。人であるために定期的に薬を飲むことを義務付けされている。

「おはよう」

 目があったのは無表情を貼り付けた見張り役である。キューピッドとしての僕の活動を監視し、報告する上官みたいな存在だ。愛想はないし、こちらの言葉に返事もしない。ただ監視をするのが存在意義でそれ以外を求めない。

 きっと僕も本来はこちら側のように淡々と役割をこなすだけの存在だったのだろう。それがなんの因果か意思を持ち思考をするようになってしまった。黙々と仕事をこなすことのできない出来損ないは追放となり、地上で成果を挙げるように命令された。

「君たちはこんな毎日が楽しいかい」

 返事はないが聞きたくもなる。この部屋からは出ないで居続けるだけの日々に嫌気がささないのか、そう問いたくなるが応答があるわけがない。

「行ってきます」

 意味がないことをわかりつつ僕はそう告げて部屋を出た。


 結局、彼女の周りに例の男は現れなかった。一週間以上の警護だったが写真に映っていた男のうち二人は白が確定し、残った一人は姿を見ることもなかった。それが潔白なのだと証明しているようなものだった。

「そういえば、鶴屋さん明日から前のシフトに戻るんですよね」

 何の気なしに岸本が聞いてくる。それに「あぁ」と短く返す。それが何かおかしかったのか笑われてしまう。

「絶望しすぎですよ。表情が死んでますよ」

 愉快に笑いながら調理室に行き、トレイに積んだホットスナックを持ってくる。

「モッチーとのシフトも今日で終わりですし、なんだか名残惜しさもありますね。年かな」

 そう言って「まだ若いんですけどね」と一人でツッコミを入れる岸本。これくらい能天気にいられたならよかったのに、と思わずにはいられなかった。

「いらっしゃいませ」

 音がしたと同時に自動的に口が動いていた。食い気味の挨拶はときに客を怖がらせることもある。それは彼女も同じだったようで、少し面食らった顔をして僕の視線から逃げるように商品棚の陰に行った。同じくしてもう一人客が来た。

 それは今まで姿を見せなかった写真の男だった。視線の先には彼女の背があり、後を追うようにして店内を巡る。ただ一定の距離を保ち、商品棚に視線を逸らすなどして誤魔化している。それに気づいているのはおそらく僕だけだろう。レジに立ち俯瞰的に店内を見渡せる位置にいるからこそわかるのだ。

「鶴屋さん、今日はお気にの子が来るの早いですね」

 気分良さげに話しかけてくる岸本だったが、すぐに声を抑えて聞いてくる。

「険しい顔をしてますけど、やっぱり気分でも悪いんですか」

 疑念を持ちあまり顔に出てしまっていたのか心配されてしまう。岸本は店内にいる男が写真の男だとは気づいていないのか気にする様子もない。

「いや、体調は問題ない。ただ少し時間が気になって」

 予定より早い時間の来店と不安を煽るように現れた男。バイトのあがりまで時間がもう少しある。その間に買い物を終えられてしまったら、と考えると気持ちに余裕は無くなってしまう。

「すいません、会計お願いします」

 カゴをカウンターの上に乗せて彼女が声をかけてきた。それに合わせて僕はスキャナーを手にとった。

「お待たせいたしました」

 なるべくゆっくりと会計をして多少時間を引き延ばそうと悪足掻きに出る。バーコードの読み取りが悪いように見せかけて商品一つ一つをゆっくりとレジに通そうと考えた。カゴの中の物を手に取りながら、男の動向も気にする。

 少ない商品に不自然にならないよう時間をかけて読み取り合計金額を出す。その間に男は彼女の背後にピッタリと張り付くように立っていた。こちらの会計が終わることを見越してなのか空いているレジに立つ岸本の呼びかけに答えず、圧力をかけるような視線が彼女ごしに当てられる。

 ただここで引き下がることはできなかった。彼女が財布からお金を出すのに手間取ってる隙を見計らって僕は男に声をかける。

「お客様、よろしければ空いているレジがありますので」

 そう言いかけたところで男が口を開いた。

「もう会計なんだから、すぐに空くだろう」

 その言葉に彼女は急かされた気になったのだろう、小銭を探すのをやめて千円札を出してきた。少額の買い物に千円札を使いたくなかったのだろうが、背後の威圧に負けてしまったのだろう。カウンターに置かれたお金を手に取り、レジに金額を打ち込み会計を済ませる。差額のお釣りを手に取って、レシートとともに彼女の手のヒラに乗せた。

「ありがとうございます。またお越しくださいませ」

 マニュアル通りの言葉を送ると男が半ば強引にカゴをカウンターの上に乗せてきた。少し肩がぶつかったのか彼女の小さな声が漏れていた。

「早くしろ」

 気が立っているのか語気を強めて言ってきた。心の中では彼女に働いた無礼に怒りたかったが表には出さないように笑顔を作る。

 カゴの中にはガムテープと可燃用のゴミ袋、麻紐やライターといったものが入っていた。この男が写真の最後の男だとしたら、この商品を使って彼女に被害を与える可能性が考えられる。まず、このガムテープは彼女を攫ったのちに口や手足を拘束するのに使うかもしれない。それだけでは心許ないので、麻紐を使って二重の拘束をする。可燃用のゴミ袋は何に使うかは判断しづらいが、ライターは火を使った脅しになるだろう。

 つまり、この男はこれから数日以内に彼女を襲う可能性があるということだ。

「なんだよ、早くしろよ」

 思考しながらスキャンしていたため時間がかかってしまっていた。男は足を揺すりながら怒りを発散させている。

「あと、そこのタバコ。右端のやつ」

 指差しながら男は言ったが銘柄は口にしなかった。そこの、とか右端という表現をしたのが引っかかった。指示された商品候補に手を伸ばし確認する。銘柄は昔からあるメジャーなものだし、タバコを吸い慣れている人なら名前で注文するだろう。それをあえてしなかったのが気にかかった。

「すいません、年齢確認をお願いしたんですが」

 レジにでた年齢確認の認証をお願いすると軽く舌打ちをされる。同時に時間を引き延ばすチャンスだと思い、僕は言葉を続けた。

「免許証など、確認できるもののご提示もお願いいたします」

 その言葉にイラついたのか、「見てわかるだろ」と男は声を張り上げた。さすがに無茶だったか、と思いながらも「念のためですのでご協力お願いいたします」と頭を下げる。舌打ちが聞こえたのち免許証がカウンターに放り捨てられる。

「ありがとうございます」

 そう言って免許証を手に取り、生年月日を確認する。それと名前、住所にも軽く目を通す。控えさえしなければ個人情報の流出など問題にならない。素早く確認して笑顔を向けて免許証を渡す。

「ありがとうございます」

 そう言葉にしたが男はイラついたままでこちらからひったくるようにカードをとった。会計を伝え、お金を預かる。お釣りを受け渡してお礼を伝えた。

「ありがとうございます。またお越しくださいませ」

 マニュアル通りの言葉で送り出し、ようやく僕は息をはけた。


 立ちこめた不安は杞憂に終わった。あの後に望月が来たことで急いでバイトを上がり、駅に向かった。彼女の背中は見えなかったが、男の姿を捉えることができたので気づかれないように歩いた。免許証で確認した住所通りなら、電車で三駅のところで降りることはわかっている。見失わないように改札を抜け、ホームに登り電車を待つ。そこで彼女を見つけることができた。それも同じ車両に乗り合わせるドアの並びで。

 彼女の降りる駅と男の駅は違う。それさえ知っていれば尾行は想像よりもやりやすかった。男だけに注視して駅で降りているかを確認するだけ。

 そして、男は何もことを起こすことなく駅を降りていった。その肩透かしな出来事に僕は力が抜けてしまった。残すは彼女が無事に家に帰るのを見送るだけだが、容疑者候補は皆が潔白だったので警戒のしようがなかった。

 ポケットに入れていたスマホを取り出し、僕は先輩に連絡をとる。

「ダメでした。犯人候補が全員白でした」

 タップする指に力が入り、ため息すら漏れ出てしまう。

「全員が白だったなら、安全なんじゃないのか」

 返ってきた文面を見ながら心のどこかに引っかかっているものがあった。警察は写真を見せてきたが犯人候補とは言っていない。ただ、見覚えがあるかを聞かれただけだった。それが犯人候補だと言い出したのは岸本だった。飄々とした奴の言葉に僕は疑いもせずに鵜呑みにした。もしかしたら、そう誘導されたのではないかと思えるほどあいつはこちらに話を振ってきていた。

 先輩との連絡をやめて向かうべき方向に歩き出す。勝負は今夜だと覚悟を決めて。


 定刻を知らせるアラームに錠剤を取り出す。買っておいた水で喉に流し込んで、ひたすらに時間を待つ。

いつだったか岸本が言っていたことを思い出す。人手不足と言っているが、無人化の動きが進んでいる。言っていることと時代の流れが噛み合わず、社会は矛盾の中にある。その言葉を聞いて僕自身も矛盾の中にいると思わされた。人を結ぶキューピットでありながら人と結ばれたいと思う、存在意義と自身の欲が相合わさることはないと知っている。それなのに、自身の欲を捨てられない意義も捨てられない。矛盾の中で苦しむ者なのだと思った。

 闇夜の中で街灯が見せるのは一部だけで、他は暗くぼやけて溶けている。わかるのはシルエットの輪郭でそれが近づいていること。

「救い出すなら危機的状況の方が有効的だ」

 先輩からの助言は覚えている。物陰に隠れて通り過ぎていくのを待つ。一つに思えていたシルエットが二つであることがわかった。前後に立っているから重なり合っていて遠目では判然としなかったのだろう。

 息を殺し、その時を待つ。近づいてくる気配と前後で歩く二人に距離があるのがわかった。ただそれが少しずつ狭まっている。

「犯人を取り押さえるなら、現行犯だろうな。襲われているところを助ける。そうでないと言い逃れをされる可能性もある」

 急ぐ気持ちを堪えて、彼女が男の手に掛かるのを待った。隠れていた物陰を超えて彼女が歩いていった。その後ろを男が足音を殺して追っている。距離を詰めて手を伸ばせば届く範囲、あとはタイミングを図っているのだろうか。こちらは動くこともできない。音を立てればバレてしまうし、後を追っても気づかれるだろう。

 彼女を襲う場所を考えて隠れたが予想は外れてしまったようだ。このままでは、襲われるのをわかっていて見逃してしまうことになる。こうなれば、助けることは諦めて襲うことを阻止するために行動した方が賢明だと至った。

 屈んでいた腰を伸ばして彼女たちが歩いていった方にかけていく。そのとき小さく悲鳴が聞こえたのだった。


 抵抗を見せる女性の口を塞ぎ、片手だけで押さえつけようとする男。力の差は圧倒的だったが危機に瀕する女の抵抗は凄まじい様相を見せていた。もがく手足が空を切っても止めず、眼前にいる男を見る目は普段からは想像できないほど見開かれていた。

 その光景に気圧されかけたが、彼女の抵抗が衰え始めたのがわかった。弱まる手足の動きと力が抜けた目を見て、傍観している場合ではないと奮起して駆け出した。持っているのは仕事用のカバン一つだが、それを全力で振りかぶり男の背後から振り抜く。

 不意な一撃は男のバランスを崩す程度には役に立った。彼女を抑えていた手が離れて、解放される。僕は迷わずに「警察に」と声を投げた。それにどう反応したかは見えなかった。

 カバンで殴られた男は頭部をさすりながらこちらを見る。ふさげた顔がそこにはあった。

「鶴屋さん、なんでいるんですか」

 普段と同じ表情と声で僕の前に立つのは岸本だった。




 来店を告げる音が鳴り自動化された口が「いらっしゃいませ」と声を出す。

「どうも、先日はご協力ありがとうございました」

 低い声でそう告げたのはいつか来ていた警察だった。今日は若い警察を連れてきてはいなかった。こちらは軽く頭を下げる。

「お手柄でしたね、ストーカー男性の逮捕とは。少し驚きもありましたが」

 そう言って僕の背後にあるタバコケースに視線を送っていた。男はその視線のままで懐に手を入れて吸いかけのタバコの箱を取り出した。

「同じの」

 そう短く言ってから話を続ける。

「人を見極める目はだいぶ磨いてきたと思っていたが、どうも節穴だったのかもしれないな」

 その言葉を聞きながら僕はケースからタバコを一箱取り出し、バーコードを読み取る。年齢認証の画面が表示され男は手慣れたようにボタンを押して小銭をカウンターの上に置いた。バラバラに散らばった小銭の金額を確認する。

「ただ覚えておけよ、本当に俺の目が節穴かどうか近い未来にはっきりさせてやる。お前があの晩なぜ現場にいたのか、どうやってあそこに目星をつけたのかをな」

 タバコの箱を強く握り締めて形を歪め、男はそう告げて帰っていった。退店と同時に影が一つ店に入ってきた。彼女が笑顔をこちらに向けている。

「今日は何時に終わりますか」

 おずおずと聞いてくる姿に身体中が熱くなるのを感じつつ、「あと三十分ほどで」と告げる。すると彼女は微笑むようにして「それなら待ってます」と言って外に出ていった。

「惚気るなよ、鶴屋。あたしは人の幸福話ほど嫌いなものはないんだ、ただでさえ岸本が抜けてシフト変更させられて迷惑してるのに、その上でお前の話を聞かされたら気が狂いそうだ」

 バックヤード作業から戻ってきた望月がダルそうにそう言ってきた。

「あとそのにやけヅラもやめろ。ったく、そのツラの何が面白かったのかあたしには謎だよ」

 肩でため息を吐くようにして望月は調理場に姿を消す。


 バイトを終わり待っていた彼女と帰る。楽しくて時間を忘れてしまいそうになる。時刻は何時だろうか、スマホを確認した。

 いつもの薬を飲む時間を超えている。認識をすると自分がなんだったか今さらながら思い出す。キューピッドであって地上にいるために必要な薬を飲まなければいけなくて、そうしなければ消えてしまう。だから、僕は薬を飲んでいてそれで恋を結ばなければ意味がなくて、けれど人に恋をしてしまっていて。

「大丈夫ですか、急に具合が悪そうになって」

 天使がこちらを見ている。誰だった、僕は何者だった。誠実で真面目を演じる、それは人に紛れる手段であって本質はそうじゃない。僕は嘘のために取り付けた言葉だ。全ては演じるために付けた嘘。

 本当はどこにある。家にいる天使は皮を被った偽物だった。優しさなど欠片で他は尊大な自己愛に満ちていた。話さなければ紛い物でも美しかった。置き物ならば愛でるだけで済む。

「汗もいっぱい出てますし、どこかで一度休みましょう」

 あぁ、この優しさは本物か。それとも偽物か。全ては捕まえたらわかるだろう。違えばまた捕まえるだけなのだから。

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私の天使をつかまえて 志央生 @n-shion

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