宋宇然

 山奥に映える真っ赤な建物はこの地域の土地神を祭る民間信仰の拠点だった。御殿と呼ぶに相応しいその外装を潜り抜け、蝋燭が照らす薄暗い廊下を抜けた先、中庭を囲むように赤い柱が並んだ回廊で男の声が響く。その叫びはあまりにも悲痛で扉の前に立つ女は恐怖に体を震わせていた。彼女の名前は木佐貫キサヌキハジメ。黒く艶やかな髪は肩のラインで切りそろえられ、兄と同じ切れ長の目は悲鳴と何かをはじくような音に反応して一層細められる。

「宋君……」

 怯える彼女だが耳を塞ぐことは許されない。彼女がそれをすれば彼女を見張る男が中の拷問官にそれを伝えて宋宇然が一層ひどい目に遭うからだ。男は苦し気に歪む一の顔を見て舌なめずりをする。そしてその青白い頬を掴むと体を震わせる一に覆いかぶさった。

「イヤ‼」

 一の悲鳴に中から「ハジメさん!」と男の声が飛んで来る。必死に仰け反る一に醜い男は興奮した様子で顔を近づけその生温かい空気が一の鼻先に触れる――――次の瞬間、男は突然顔を歪ませると呻きだし、一の上から転げ落ちるようにしてのた打ち回る。

 呆気に取られた一の前には白く美しい手が差し出された。

「卡藌様‼」

 一の視線の先にいたのは真っ赤な竜の仮面を付け、赤いシルクを纏った巫女だった。卡藌は一を起こしてやると中に入り拷問官に席を外すよう命じる。そしてぼろ雑巾のようになった宋宇然を抱き起すと服についた砂を払い上着をかけてやった。

「よく耐えましたね、お前の忠誠心は土地神様も見ておいでですよ」

 卡藌の言葉に宋宇然は目に涙をためて頭を床にこすりつけた。卡藌の後ろにいた一も同じように頭を下げる。二人の様子に仮面の奥の瞳が優しい色を纏った。

「一、お前は今日から私の付き人として巫女見習いとなりなさい。そして宇然と共に行動なさい」

「はい、卡藌様」

「宇然、お前は一を守ってやりなさい。私が命じます」

「はい、卡藌様」

「それでは私は午後の祈祷を行います。ついてきなさい」

 卡藌が歩き出すと二人は後に続いて部屋から出た。まだ転げまわる男に一瞥もくれることなく卡藌は回廊を歩いていく。そうして向かった先はこの建物で唯一の塔の最上階、島国の客人が眠る場所。

 扉の前で仮面を取ると一に渡し卡藌は中へ入る。扉はすぐに閉じられ中に何があるかもわからぬまま一は入り口の前に座り込んだ。それに寄り添うように宋宇然が肩を抱く。そこへ来てようやく緊張の糸が解けたのか一は宋宇然に寄り掛かり涙を流した。

「無事でよかった……」

「君こそ、教祖の息子に酷い事されてやしないかと怖かった」

 宋宇然の手に力が籠る。それほど心配してくれたのかと一は嬉しそうに宇然の手に自身の手を重ねた。

「卡藌様が助けてくださったのよ」

 まるで心酔したように声を弾ませる一だったが、宋宇然はどこか思い詰めたような顔で口を開いた。

「……一、そのことだけれど君は国に帰るべきだ」

「何を言ってるの?」

「卡藌様は確かに素晴らしいお方だと思う。けれどそれだけじゃないんだ。どうか君だけは……」

「おや、面白そうなことを話しているね、宇然」

 話に夢中になるあまり扉が開いていたことにも気づかず宋宇然は顔を出す卡藌の姿に呼吸が止まりそうになる。顔色を窺うように卡藌の両目を見つめた。明らかにおびえた様子の宋宇然に違和感を覚える一の目も卡藌に向けられ当の本人は愉快そうに笑った。

「二人してそんな顔をしてどうしたの?ふふっ心配しなくてもお前たちは私が守ってあげるわ。だから安心してここにいればいいのよ」

 そう言うと卡藌は一の肩を抱き祈祷室への同行を命じる。

「あの、卡藌様!」

 慌てて声を掛けた宋宇然に足を止めて振り返る卡藌は失望の色を滲ませた視線を向けた。それに怯む宋宇然だったがズボンを掴んで勇気を振り絞る。

「お、俺は……!」

「宋宇然、いいからそこのお客様を接待するんだよ」

「は、はい……」

 結局のところ宋宇然は卡藌に立ち向かえるほど強くは無かった。命令に従い暗い階段へ消えていく一を見つめることしかできぬ弱い存在。それでも宋宇然はやっぱり納得できなかった。

 扉を叩くと中から幼い少女の声がして中に入る。そこには島国から連れてきた少女が今起きたばかりのようで眠気目を擦っていた。

「擦ると赤くなってしまうよ」

 宋宇然は優しく声を掛けるとその手を優しく掴んで止める。少女はそのまま手を伸ばして抱っこをねだった。宋宇然はそれを見て困ったように笑うと慣れた手つきで少女を抱きかかえ「今日は本を読んでやろう」と本棚の本を一冊取り出した。

 少女を膝の上に座らせると表紙を開き話してやる。ふと少女は顔を上げると大きな黒い瞳で宋宇然を見つめた。

「どうした?」

「お父さんにはいつ会えるの?」

「それ、は……」

 宋宇然は言葉を詰まらせる。その答えを彼は持っていなかった。彼が持っているのは少女にとってどこまでも残酷な現実だけ。

「……おじちゃんは嘘つきだね」

 少女の言葉は宋宇然の中で反響し、やがてそれはよく知った男の声に変化していく。体の奥底から沸々と湧き上がる衝動を押さえ込むように歯軋りをし、厚紙がひしゃげるほど手に力が入る。

「でも、おじちゃんは優しい。お父さんみたい」

「っすまない、すまない……すまないっ」

 そう言って微笑んだ少女に宋宇然は謝ることしかできなかった。可愛い物で埋め尽くされた部屋、綺麗に整えられた少女、その少女の世話をする汚い男、歪な空間に男の鼻を啜る音だけが小さく響いた。


「こんなところで何を転げまわっている!」

回廊で転がる男に年老いた男が怒鳴った。年老いた男は加齢によって皮膚は薄く欠陥も骨も浮き出ており、目は暗く影が落ちるほど窪んでいる。それはまるで死人のような不気味さで息子であるはずの醜男ですら目を合わせなかった。

ディエングァン、お前というやつはまた下らない遊びにうつつを抜かしたな‼」

「許してくれ親父‼」

「外では教祖様と呼ぶように言ってあっただろう!……まったく、少しは宋宇然を見習え」

「くっ、あんな奴より俺の方がずっとできる」

鄧灮はぐっと歯をむき出しにして父である教祖を睨みつける。教祖は冷ややかな視線を浴びせたがすぐに笑顔を作って息子に下がるよう告げた。

「新たな信者かねづるのお出ましだ」

そう言って舌なめずりする姿は鄧灮とよく似ていた。

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