第33話 広がる曇天
「しかし空が借り物競走ねぇ」
けらけらと笑いながら、今日も今日とて俺の席まで椅子を持ってきた千歌が宣う。
単なる余り物を掴まされただけだ。俺だってやりたくてエントリーしたわけじゃない。
などと返そうにも、「ぼーっとしてた空が悪いんじゃん」の一言で撃沈しそうだから黙ることしかできない。
「そういうお前はリレーのアンカーか、無難なとこ選んだな」
「まー私運動神経にはそこそこ自信あるからね!」
お前のレベルでそこそこ、なんて言っていたら、部活に血道を上げているやつの大半が憤死するぞ。
その有り余る才能を有効活用していれば、将来オリンピックで金メダルを取るのも夢じゃないとか、小学校の頃に千歌が誉められていたのを思い出す。
お察しの通り、本人は心の底からどうでもよさそうだったけどな。
何万人、いや、何億人に一人という才能を持ち合わせていながら才能に合わせた生き方を選ばないことこそ、まさに自由を象徴する生き様なんだろうけど、ゲーム以外にこれといった取り柄があるわけじゃない俺は時々こいつの生き方が無性に羨ましくなるときがある。
結局、あの告白はなんだったのか。
三日も経てば少しは冷静になることができたけど、正直なところ、自分の中で整理がついたかと聞かれて首を縦に振れば、それは嘘になる。
人の気も知らずに今日ものらりくらりと、淡々と立ち回っている千歌も内心では俺と同じことを考えているのだろうか。いや、ずっと考え続けてきたのだろうか。
人の気も知らないで、か。
他人の気持ちが本当に理解できて共感までできるのなら、そんな嘆きもなくなるんだろうけど、結局心が読めたって、心と心でつながり合えたって、その結果「わかり合えないことがわかった」なんてオチはザラだ。
だからこそ、心というものに立ち入るのには相応の資格がいるし、立ち入ったからにはなんらかの責任を取らなきゃいけないんだろうな。
責任。それは俺が果たすべきもので。
形はどうあれ、千歌の「好き」という言葉に対して、答えを出さなきゃいけない。
三ヶ月という猶予と、無言を貫いても許すという慈悲を千歌は与えてくれたけど、そこに甘えてしまうのは誠実じゃないし、なにより、そんなことをしたら、俺は自分で自分を許せなくなってしまう。
千歌が作ってくれた弁当をもそもそと口に運びながら、視線だけを向ける。
そこにいるのは、非の打ち所がない美少女だ。さらさらとしていて、枝毛一つないプラチナブロンドに、宝石みたいな真紅の瞳。
出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいるそのスタイルは高校生の域を超えていて、そんな千歌が高校生である証として制服を身に纏っているのは、ある種のインモラルささえ感じさせるほどだ。
そんな美少女が、「私で妥協しない?」とまで誘いをかけてくれて、三ヶ月、仮の彼氏と彼女として過ごすことを許してくれて、挙げ句の果てに「好きだ」とはっきり言ってくれた。
事実だけ抜き出して語るのなら、俺はあまりにも恵まれすぎている。なぜ不満なのか、なぜ素直に「世界一可愛い」と今すぐにでも口にしないのかと詰め寄られてもおかしくないくらいに。
まあ、その結果体育倉庫に閉じ込められたんだけどな。
千歌を巻き込んだのは許せないとしても、俺が復讐の対象になったのは正直な話、自業自得だと割り切っているところはある。
ただ、それでも。
それだけのことを言われても、俺の心が未だに傾いていないのには、相応の理由があるのだろう。
今日はもくもくとカロリーブロックを齧っている雪菜をちらりと一目見て、頭を抱える。
俺は、雪菜のことが今でも好きなのか。
わからない。
ただ、雪菜のことを見ていると、ゲーセンで勝利するたびに拳を突き合わせて、しょうもない話や反省会をする日常を、愛おしく──なくしたくないと思っているのは、間違いなかった。
だからこそ、雪菜が俺をどう思っているのかが怖いし、知りたくないと思っている。
ただの友達で、そこで止まってさえいれば、なにも失うことなく、青春がくれるモラトリアムに浸かっていられるのだから。
わかっているさ。誠実でありたいと思いながら、俺が一番不誠実で、情けなくて、どうしようもないということは。
弁解の余地もない。誰かに詰られれば、ただただその通りですと頭を下げる他に、なにもできることはない。
そんな情けない俺のことも千歌は好きでいてくれて、だけど俺は雪菜との日々を失いたくないと思っていて──
ダメだ、考えがぐるぐると頭の中を走り回って、まるでまとまらない。
他愛もない話を振って誤魔化せるくらいに器用だったら、あるいは痛みに鈍感であったなら、どれだけよかっただろうとさえ、八つ当たりのように思ってしまう。
惰性の会話もできないまま、澄ましたポーズも取れないまま、ただ、全てを失いたくないというどうしようもない欲求だけが膨れ上がっていく。
「いいじゃないですか、借り物競走。私は綱引きですが」
カロリーブロックを牛乳で流し込んだ雪菜が、助け船を出すように何気ない話題の続きを口走る。
本人にそんな意図はないんだろうけど、助けられてばかりだな、と自己嫌悪が湧いてきた。
本当に俺はどうしようもない。
「絶対変なお題とか入ってるだろ」
「漫画やライトノベルじゃないんですから、きっと普通のお題ですよ」
「そうそう! それに変なお題でも、見てて盛り上がるからいいじゃん! うひひ」
「俺は当事者なんだけどなあ!」
はたから見ている分には面白いことは大体当事者にとっては大惨事なんだよ。それをわかれ。
こんな風に、三人でいつものような雑談に花を咲かせるのは本当に楽しい。
だけどそれは、薄氷の上にかろうじて乗っているようなもので、男女の友情は成立しないなどと誰かが宣っていたことを否応なく思い起こさせる。
「……こほん、空」
「どうした、雪菜?」
「今日の放課後は空いていますか」
またいつものようにゲームで暴れ散らかせば、少しは頭もすっきりするかもしれない。
体育祭についてはもう会議もやることもないし、千歌は今日、陸上部の応援だ。
なら、なにも問題はないだろう。
「ああ、うん。空いてる」
そう考えて、雪菜の誘いを承諾する。
「そうですか、ありがとうございます。では……いつものように、正門の前で待っていますので」
「了解」
「いいなー、雪菜は」
「お前はクラスのアンカーだろうが」
陸上部への出向は事実上、千歌の練習も兼ねてのことだ。
こいつに練習なんてものが必要か、と聞かれれば微妙なところだけど、何事も備えておくに越したことはない。
身構えていれば、死神はやってこないものだと誰かが言った。なら今回はその逆で、油断をしているときにこそ、死神は足元を掬いにくるのだから。
不満に頬を膨らませる千歌を宥めつつ、俺は席を立った雪菜の凛とした背中に一瞥を投げる。
なに一つ、身構えることはなく。
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