第32話 仁義なきダービー

 正直なところ、千歌のことで頭がいっぱいだったから、今日やった授業のことは多分二割も覚えていないし、なんなら弁当の味も思い出せない程度には上の空だ。

 おかげでノートもろくに取れていない。


 雪菜のアレをカウントしていいのなら、自分から告白はしたことがある。

 だけど、人生で誰かに告白されたことは一度もなかった。

 ラブレターの一通ももらったことはないし、バレンタインのチョコは千歌が義理で配っていたものと家族からだけ。


 そんなどこまでも冴えないしモテない俺が実は幼馴染におよそ十年越しの重たい感情を抱かれていました、なんて、正直今でも信じられやしない。

 だけど、千歌は本当に俺のことを、心の底から好いてくれている。これは間違いなく事実だった。

 それ自体は嫌じゃないし、むしろありがたいと思っている。


 情けない俺が大切な誰かにとってのヒーローであれたことが嬉しいし、こんな自分でもなにかを誰かの心に残すことができた、それだけでも十分だった。


 だから、そこから先のことなんてなにも考えていなかったし、考えることもできていないのだ。

 見返りがほしくて、泣き虫だった頃の千歌を助けたわけじゃない。

 あの日の俺はあくまで自分自身の正義に、許せないという義憤に駆られて先走った子供でしかなかったからな。


 千歌のためを思ってというよりは、許せないことを許さない、独善に近い行動だったのだと思う。

 それでも、そんな独善が、いってしまえば俺自身のエゴが千歌にとっての救いになっている。

 その事実は福音のようであり、呪いのようでもあった。空を飛ぶための翼が重すぎて、巨大な枷となっているような息苦しさだ。


 そして巡り巡って今、俺にその祝いと呪いが綯い交ぜになった感情が、受け取り方を知らないまま、バトンになって渡ってきた。

 悪い冗談だったらどれだけよかったことか。


 なんてことを一日中悶々と考えていたせいだろう。

 例によって、大事な話を聞き逃していたのは。


「では、推薦によって土方君は借り物競走に出走するということでいいですか?」

「……えっ?」


 清水先生がいつもの温和な笑顔を浮かべて問いかけてくる。

 まずいな、さっぱり話を聞いていなかったからなにがなんだか全くわからない。

 借り物競走がどうとか言っていたけど、なんの話なんだこれ?


 慌てて黒板に視線を移すと、そこには体育祭の自由競技への出場者、と丸文字で書かれていて、リレーやら綱引きといった人気競技は正の字の下に名前がもう刻まれていた。

 ああ、そうだった。確か今日のロングホームルームは体育祭の出場科目を決める日だったな。

 事前に連絡があったのにもかかわらず、完全に今の今まで忘れていた。それくらい、千歌から受けた言葉の衝撃は大きかったのだ。


 そして先生の話を思い返すと、借り物競走に出走するのは例によってクラスメイトの推薦があって俺、ということになるのだろうか。

 まさか、冗談じゃない。そう言いたいところではあったけど、人気競技が軒並み埋まっているのもあって、他に移りたいものが残っているかといわれるとそんなことはないのが実情だ。

 なにもかも寝ぼけていた俺が悪いといえばそれまでの話ではあるんだけども。


「……えーっと、はい。わかりました」

「では、借り物競走の出場者は土方君ということで、拍手をお願いします」


 にこにこと人好きのする笑みを浮かべたまま、清水先生は俺が引き攣った笑顔を浮かべていることに気づいているのか気づいていないのか、平然とそんなことを言ってのける。

 ぱちぱち、とまばらな拍手が響く中で、行き場をなくした俺の視線は、物憂げな顔で頬杖をついている千歌に吸い寄せられていた。

 なにを考えているんだろうか。また、「可愛い」と言ってもらうためのアプローチだろうか。


 それとも、俺と同じで自分の感情の取り扱いに悩んでいるのか。

 どっちだって構わないけど、いつもと変わらない横顔がやけに綺麗に見えたのは、きっと気のせいじゃないだろう。

 意識している。千歌のことを。


 あれだけやられてするなという方が無理だろうと逆ギレの一つもかましたくなるくらいには。

 悲しいことに俺は唐変木だの朴念仁だの鈍感だのと罵られてこそいても、あれだけやられて「ごめん、よく聞こえなかった」で済ませていつも通りに朝を迎えられる、鋼の精神の持ち主じゃない。

 それにしたって、「私で妥協してみない?」と言われたときだって事実上告白を受けたのにも等しいのに、「好き」の一言があるだけでここまで重さが違うとは思わなかった。


 どんなに平静を装っても、その仮面がつけたそばからぼろぼろと剥がれ落ちていく。

 悲しいほどに俺は、そこら中にいる男子高校生だった。


 恋はダービーと誰かが歌ったように、「大切な誰か」は、たった一つの枠にしか収まることはできない。

 不純で不埒な関係を結んで、複数人と恋愛の真似事をするやつはいても、結局どこかでボロが出て破綻するか、本命は一人だけ、というパターンで終わるだろうから、まさにその通りだ。

 選び抜かれた恋心という純粋な血統が、恋人という栄冠を手にするために駆ける。例え、仁義の文字をかなぐり捨ててでも。


 視線を千歌から雪菜に移して、そんな益体もないことを考える。

 なんの益体もないとわかっていても、考えずにはいられなかったからだ。

 雪菜の横顔に、あの日の告白を思い返す。そして、今一度自分に問いかける。


 あの日と同じことが今できるだろうかと。

 俺はまだ、雪菜のことを好きでいるのだろうかと。

 その答えが出てこないものだとわかっていても。延々と自問自答し続けるだけだとわかっていても。そうする他に、なかったのだ。

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