第30話 私のヒーロー

「参ったね、こりゃあ……内側からは開かないしどうしようもないよ」


 千歌が両肩をすくめて溜息をつく。

 何度か扉をこじ開けようと本気で蹴り飛ばしたのはいいものの、うんともすんともいうことなく閉まったままなのは頑丈さを褒めるべきなのか嘆くべきなのか。

 どちらにせよ、当分ここから出られないだろう、という見解は、俺たちの間で一致していた。


「まさかこんなラノベみたいな状況になるなんてな」

「しかも空と二人っきりで」


 扉を蹴破るのを諦めた千歌は、赤いスマートフォンのライトで足元を照らしながら、折りたたまれて積み重なっているマットに体を投げ出す。

 俺と二人っきり、か。

 そこについては、恐らく──というか、十中八九自分の責任で引き起こされた問題だから笑えない。千歌を巻き込んでしまった、その負い目があるからこそ、この暗闇が一層心細く感じられた。


「どしたの、空?」

「悪い、千歌。多分俺のせいだ」


 素直に腰を折って頭を下げる。

 ラノベみたいなシチュエーションとは冗談めかして言ったものの、助けが来るのが最悪明日の朝と考えれば、笑うに笑えない。

 まさかそこまでやるやつがいるとは思わなかった、なんていうのは言い訳にもならないんだろうな。


 忘れてたよ、恨まれるっていうのがどういうことか。


「どういうこと? 空から謝るなんて珍しいじゃん」


 うひひ、と千歌はいたずらっぽく笑った。

 この状況を楽観視しているのかそれとも単純に強がっているのかはわからない。

 ただ一つ言えるのは、俺はとてもじゃないけど笑えそうになかった、ということだけだ。


「多分だけど、これをやったのは体育倉庫の鍵を借りたやつだ」

「ふーん……それと空がどう関係あるわけ?」

「忘れたのかよ、千歌。俺はクラスのパブリックエネミーだぞ。しかも、お前にこっぴどくフラれたやつがクラスの中にいる……断定はできないだろうけど、十中八九犯人はあいつだ」


 少しは痛い目を見ろ、という気持ち程度でやったいたずらなのかもしれないけど、被害は洒落になっていない。

 下手したら灯りも水も食料もないこの体育倉庫で一夜を過ごす羽目になるんだぞ。そんなのラノベだけで勘弁してくれ。

 俺は脳裏に新堂の顔を思い浮かべて、そう吐き捨てる。


「ああー、そういやいたねぇ! えっと……確か金色堂君」


 千歌からもろくに名前を覚えられていない時点でもうなんというか一周回って哀れになってきたな。だからこそ犯行に及んだんだろうけど。

 恋は盲目、とはいったものだ。

 ときに人を良い方向にも悪い方向にも突き動かすほどの情動。それが俺も含めて未熟な高校生なら尚更、針が振り切れたときの幅は凄まじいだろう。


「多分だけど、あいつだよ。やったのは」

「そっかー、私と空の仲に嫉妬しちゃったかぁ、うひひ」

「なんでお前はこの状況でそんな楽観的なんだ……」


 せめて食糧とはいわなくても、水がないのはめちゃくちゃきついぞ。

 スマートフォンの画面に映る時刻を見て、朝の見回りがくるであろう時間までに明かさなければいけない夜の長さを確認する。

 実に絶望的だ。人体の構造上死にはしないだろうけど、結構な時間飲み食いなしで真っ暗で湿ったこの体育倉庫に閉じ込められる時点で拷問だ。


「私? 空がいてくれるからかな」

「冗談はやめろ、俺がいたってなにになるんだ」

「冗談じゃないよ」


 おいで、とばかりに千歌がマットをぽんぽんと叩く。

 スマートフォンの明かりに照らされた千歌は、この緊迫した状況なのが信じられないくらいに穏やかな笑みを浮かべていた。

 そう、全く。一欠片たりとも絶望していないとばかりに。


 なんでそんなに、信じられるんだ。

 まるで、どうにかなるのがわかっているかのように。

 訝りながらも隣に寝転んだ俺の背中をつつきながら、千歌はくすくすと微笑み続ける。


「うひひ、拗ねちゃってる」

「絶望してるんだよ」

「らしくないなぁ、なんとかなるなる! 少なくともさ、私は空と二人っきりなのは嫌じゃないし」


 お風呂入れないのは嫌だけどね、と、千歌は、歌でも口ずさむような調子で言葉の端につけ加える。

 風呂に入れないのは俺だって嫌だよ。千歌と二人きりなのは……まあ、嫌じゃないけどさ。


 それはともかく、大人しく助けが来るのを待つことしかできないというのは実にもどかしい。それこそ、不貞寝しかすることがないのだから。


「……なあ、千歌」


 だから、口を開いたのはただの気まぐれだった。


「どしたの、空」

「さっき言ってたこと、どうしてなんだ」


 俺がいるから、いてやれるから、どうだっていうんだ。

 どうしたって理解することができなかったその心にナイフを入れるように、問いかける。


 きっとそれが、心の奥底に踏み込むような行為だというのはわかっていた。

 鏑木千歌という女の子の心を解き明かそうとする、無粋で実に格好悪い行いであることも。

 誰かが言っていた。心に深く踏み入るのには相応の資格がいるし、乙女心というパズルは、整然と組み立てられないから美しいのだと。


 実にその通りだ。全くもってそう思う。

 つまるところ、俺の問いかけは単なる八つ当たりでしかないということだった。


「……空さ、覚えてる?」


 さっきとは打って変わって、どこか物憂げに俯いて、千歌はそのプラチナブランドを細い指にくるくると絡ませる。


「なにを」

「私がめっちゃ小さかった頃のこと」


 多分、幼稚園ぐらいかな。

 薄らぼんやりとした灯りに照らされて、思い出を口ずさむ千歌の表情は、どこか神秘的にさえ見えるほどに──綺麗だった。

 潤んだ赤い瞳をこっちに向けて、まるでおとぎ話を語りかけるかのように、千歌は言葉を続ける。


「私さぁ、見た目こんなじゃん。だからさ、ずーっと皆から仲間外れにされて、その度にずーっとめそめそ泣いてたんだ」

「……ああ」


 なんとなく覚えている。

 千歌の白金色の髪と赤い瞳は、生まれつき備えた自前のものだ。生まれ持った以上、少なくともそのときは変えることのできない特徴だった。

 そして、子供というのは俺たちが思うよりも遥かに残酷で、排他的で、攻撃的だ。


 髪の色が違う。目の色が違う。

 ただそれだけの、たったそれだけの事実を槍玉にあげて、当たり前のように自分たちのテリトリーから排斥しようとする。


 そして、大人になったら当たり前のようにそんなことを忘れるか、あるいは美談か冗談に変えてしまう。

 そのときの俺はそんなところまで考えていなかっただろうけど、ただ一つ覚えている。

 俺は、そんな「当たり前」が死ぬほど大嫌いで。許せなかったことを。


「あのときさ、空が助けてくれなかったら。私のこと、仲間だって……友達だって言ってくれなかったらさ。多分私、ここにいないよ」

「……千歌」

「だからさ。空は、私のヒーローなんだ」


 どんなに崖っぷちに立っていても。

 どんなに暗いところに閉じ込められても。

 きっと助けてくれる、助けられなくたって、一緒に死んでくれる、そんな、ちょっとだけ情けなくて、最高に格好いいヒーロー。


 千歌の言葉は、どこまでも本気だった。

 例え、現実の俺が不貞腐れて寝転がっているだけでも、そんな情けない姿を見ても、信じてくれていた。


 俺は。俺は──


「……ね、空。私は……好きだよ。ずっとずっと、好きだよ。空のこと」

「……千歌、俺は」

「……だからさ、覚悟してなよ。答えは聞かない。この三ヶ月で絶対に、私のこと『世界で一番可愛い』って言わせてやる。だからさ……」


 ──今は、少しだけ泣いていいかな。


 その問いに言葉を返すことはなかった。

 代わりにただ、昔に戻ったように泣きじゃくる千歌を抱き留めて。

 好き、という、たった二文字なのに、一言なのに、潰れてしまいそうなくらい重たい言葉との距離を確かめるように、そっと金糸の髪に触れた。それが、今できる精一杯だった。

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