第6話 水上さんと紙飛行機

 千歌が言葉通りに逃げ場を塞いでくれたのと空腹のおかげで、四限の教室は針の筵を通り越して、ちょっとした針山地獄の様相を呈していた。


 少し前まで英雄扱いされていたのが嘘のように、男子どもからは視線で吊し上げられている。


 おかしいな、俺はもっと穏当な高校生活を望んでいたはずなのに、なんでこんな殺伐としたことになっているんだ。


 まあそれも自業自得なんだけどな。

 クラスの喧騒から一人切り離されたように、無言でかりかりとノートに文字を書いている水上さんを一瞥して、溜息を噛み殺す。


 あのとき浮かれて水上さんに告白していなかったら、今頃俺の学校生活はどうなっていたんだろう。


 多分ではあるけど、今は崩壊した非リア同盟三人組のように少数の友達を作って、彼女がほしいとかなんとか、教室の隅っこで駄弁ったりしてたんだろうな。

 そんな湿った青春が、なんとなく輝かしく見えてくるから泣けてくる。


 よくよく考えてみたら、俺は水上さんのなにを知っているんだろう。

 今も淡々と、興味があるのかないのかわからない氷像のような視線を黒板に向けて、手元のノートに板書を書き写しているその横顔が、浮世離れして綺麗に見えるのは確かだった。

 だけど、それ以上はなにも知らない。


 クラスで一番可愛い女の子。孤高の雪姫。

 俺の中にある水上さんについての知識はそれ以上でも以下でもなく、そんな浅いところで止まっている。

 だというのに、我ながらよく告白なんかする気になったものだ。若気の至りは恐ろしい。


 でも、だ。

 こうして水上さんの横顔を見ていると、その青い瞳に吸い込まれそうになっていくような感覚があるのは、確かだった。

 それを恋心と呼べるのかどうかは生憎わからない。もしかすればただ、美しい芸術品に自然と惹きつけられるような感情なのかもしれない。


 そう考えると、やっぱり恋ってなんなんだろうな。

 彼女は確かにほしい。千歌とのあれこれは一旦さておいて、今でもほしいと思っている。

 ただ、彼女を作ってそのあとどうするんだ? という問いに対して、俺は解を持ち合わせていないのだ。


 そんな人間が果たして愛だの恋だの、そういうものを求める資格などあるんだろうか……と、考えがどことなく哲学的な方向に振れ始めていたところだった。


 気だるそうに小首を傾げた水上さんと視線が交錯する。


『私になにか用ですか』


 左手で掲げてみせたプリントの裏には、そんな、几帳面さがうかがえる文字が記されていた。

 なにか用ですか、って……もしかしなくても俺に向けられたメッセージなのか?

 その意を込めて首を傾げると、水上さんはこくり、と小さく頷いてみせる。


 なるほど、いや確かに俺以外水上さんを見ているクラスメイトは多分いないだろうし、結構不躾に眺めてたから気づかれたんだろう。

 だとしたら申し訳ない。そんなじろじろと舐め回すように見る意図はどこにもなかったんだ。


 プリントを裏返して、慌てながら水上さんへの返答を書き散らす。


 この文面で果たしていいのかとか、そもそも意図が伝わるのかとか、心配なことは多々あれど、あんまり悠長に時間をかけていると、それを気取られて面倒な国語教師の説教が始まるから面倒くさいことになる。


『ごめん。特に用はないけど見とれてたんだ』


 焦りと感情に突き動かされて書いて突き出した文章は、冷静に俯瞰すれば果たして俺が意図していたことが伝わるどころか誤解を助長しかねないものだった。


『そうですか』


 だけど、水上さんは大して気にした様子もなく、そんなことを書き記すと、また氷像のような表情で、板書を写す作業に戻っていく。

 許してくれた……んだろうか。

 それとも単純に興味を失っただけなのか。どっちにしたってよくわからない。


 よくわからないけど、そんな俺の不躾な視線や態度にも動じることなく、かりかりと一定のリズムでノートに文字を書き写している水上さんのことは、やっぱり素直に綺麗だと、そう思った。


 顔がいい、とかそういうことじゃなくて、単純にその在り方が綺麗だというかなんというか。

 いやもちろん顔もいいんだけどさ。

 でもそういうことじゃなくて、うまく言語化できないな……なんてことをぼんやりと考えていると。


てっ」


 こつん、と頭になにかがぶつかる感触があった。

 俺の頭にぶつかって、机に転がったそれが果たしてなんなのかといえば、くしゃくしゃに丸められた紙だ。

 古典的な嫌がらせをするやつもいるもんだな、と呆れながらくしゃくしゃになった紙を開くと、そこに書かれていたのは。


『空のバカ』


 と、シンプルな罵倒だった。うーん、シンプルに性格が悪いな。

 ただ、その丸文字には見覚えがある。

 誰がバカだ誰が、と憤りを抱いて、俺は特定した犯人こと、千歌の方を振り向く。


 すると、千歌は無言で真っ赤な舌先を唇から覗かせた。

 あれは……怒ってるんだろうか。

 いや、俺に怒られる筋合いなんて……あるといえばあるな。


 お試しとはいえ、まだ認めてないとはいえ、俺と千歌はこの三ヶ月、彼氏彼女の関係でいようと約束した間柄だ。

 そんな相手が他の女子に見とれていたら、嫉妬の一つもするのが乙女心ってものなんだろう。


 秋の空より複雑怪奇なそれを解き明かすことはできなくとも、なんとなくわかる。

 そういう意味じゃ、謝った方がいいんだろうな。

 適当にノートの一番最後のページを静かに破いて、俺はそこに「ごめん」と書き記した紙飛行機を足跡で作り上げて、飛ばしてみせた。


「あー、今日の授業はここで終わります。黒板に書いたことはテストに出るので各自復習して覚えておくように」


 いかにも堅物といった見た目の国語教師が授業の終わりを告げたのは、それに少し遅れてのことだった。

 一瞬、説教タイムかと身構えたけど、幸いにも俺が飛ばした紙飛行機は気づかれることなく、千歌の元に届いていた。

 紙飛行機を解体した千歌が今度はどこか満足げな表情で頷いていたからわかる。


「起立、礼!」

『ありがとうございました!』


 生徒たちの一部は終礼を終えるとほとんど同時に、購買を目掛けて駆け出していく。

 そんな喧騒と緊張感から切り離されて、ようやく俺は安堵の息をつくことができた。

 まったく、冗談じゃない。

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