第26話「本当」
「……誰もあんなことが起こっていたなんて、夢にも思わないでしょうね」
私は明日、夜が明けてから、偶然に道を通り過ぎている人たちが、柑橘の匂いを嗅いで不思議そうな顔をしているところを想像して、微笑んでしまった。
私を誘拐したショーンは、結構な速度で道を走らせていたし、カルムは重い樽をいくつも積んだ荷馬車で、必死で追いかけてくれていたのだろう。
「あの樽は、出荷間近だったと聞いているし……君の損害があったなら、僕が言い値で買い取らせてもらうね」
真面目な顔をしてジョサイアはそう言ったので、私は苦笑するしかない。
「まあ……モーベット侯爵。それを取引先へ言ってしまえば、どんなに天文学的な多額の値段をふっかけられても、文句が言えないのを、知っています?」
宰相補佐のこの人が、それもわからないくらいに、世間知らずでなんて、あるはずないのに……ジョサイアは、いたずらっぽく笑った。
「もちろん。僕が何倍の額でも、支払わせてもらうよ。妻の無事に、金を渋るような夫が何処にいる?」
さっきまで一緒に居たショーンともし結婚をしたなら、彼は渋りそうな人だけど。なんだか、容易に想像がつくわ……まあ、私にはもう関係のない話ね。
その前までの出来事がどうであれ、私が結婚したのは、目の前に居るジョサイア・モーベットだもの。
「そうねえ……私の事業にこれから必要だから、いくつか店舗を買ってもらおうかしら?」
「良いですよ。もう、店には目星は付いている?」
ジョサイアにすんなりと頷かれて、私は少し焦った。
少し笑える冗談のつもりで私は言ったんだけど、そういえばジョサイアは、とてもがつくくらいに真面目な人だった。
しかも、裕福で経済力だって持っていて……それが出来てしまうのも怖い。
だって、それが当たり前のことだとは、思いたくないもの。
「そうやって甘やかされると、あんまり良くないと思うわ。オフィーリア様に、言われたことを忘れたの?」
元婚約者を散々に甘やかした結果、どうなったかは知っての通りだ。私がそう言うとジョサイアは、苦笑して頷いた。
「オフィーリアは、僕が彼女と向き合わないから、あの我が儘を言っていたことを知ったのは、彼女が既に逃げてしまってからの置き手紙でなんだ……本当に、彼女には悪いことをしたとは思っている」
「オフィーリア様は、あそこまで切羽詰まって追い詰められた状況なら、ジョサイアは私へ動くかも知れないって……そう言ってました。私との恋の橋渡しを、してくれたみたいですよ。ジョサイアの元婚約者は、素敵な人ですね」
「そうですね……君の元婚約者は、真逆に許しがたいな。あそこまで……」
ジョサイアは皆まで言わなかったけど、怒りの表情が見えて彼が何を言いたいかわかった。
……ええ。わかるわ。私もそれはショーンと無関係になったと言えど、思ってしまうもの。
とはいえ、ショーンのことを考えて嫌な思いになるなんて、本当に時間の無駄だし、切り替えましょう。
……あ。そういえば、オフィーリア様へ送るサンプルを忘れていたわ!
「あ。ジョサイア。私オフィーリア様に、至急送らないといけないものがあるんですけど……」
「……オフィーリアも既に君の事情は知っているし、大丈夫だ。レニエラ」
ジョサイアは当たり前のようにそう言ったけど、私の頭の中には疑問符が溢れた。
「え。どうして、知っているの?」
「君が攫われたと聞いた時、僕はちょうどアルベルトと共に居てね。先ほど一緒に着いてきてくれたのは、彼の近衛隊だ。捜索する人を集めている時間も惜しいだろうと、貸してくれた。だから、国中に伝令がまわった。だから、今は誰も国境を越えることは出来ない」
国王陛下の絶大なる権力、本当にすごい。しかも、時間が惜しいと言って自らの護衛を貸してくれる即断力、とても頼りになるわ。
「……何故?」
「君が攫われたと聞いてから、特別な伝令が飛んで、すべて閉鎖しているからだ。少なくとも明日の朝までは、君の無事を確認し解除されるまでは、どこも閉鎖されたままだと思う」
「嘘でしょう。迷惑をかけてしまったわ」
誘拐された私のせいで国境を閉鎖されるなんて、思ってもみなかった。急ぎ国境を出たい人も居たかも知れないのに、不用意にショーンの馬車に乗ってしまったために、こんなことになってしまうなんて……。
「君の命が、何よりも大事だ……そのためなら、別に私財を投げ打っても構わない。本当に無事で良かった」
そう言って、ジョサイアは私の手をぎゅっと握った。間近に迫った水色の目には涙が浮かんでいたので、彼がどれだけ心配してくれていたかを知った。
「心配をかけて……本当に、ごめんなさい」
「謝ることはないよ。すべては、あの男のせいだ……だが、君はもう僕以外の男性と馬車に乗ることは禁じるよ。あの……君の居場所を知らせるために尽力してくれた、感じの良い庭師も駄目だ。君は親しいようだけどね」
そうよね。カルムだって、さっきの場所に居たのかしら? ショーンから一刻も早く離れたい一心で気がつかなかったわ……苦労して助けてくれたんだから、お礼を言わなければ。
「ああ。カルムのことかしら? そうね。仲良いわね。彼は私の家で産まれて育ったから……まるで、可愛い兄のようだったわ」
可愛らしい顔を持つカルムは、本当に温厚で感じが良い。ジョサイアも同じようにそう思ったのねと、私は微笑んだ。
「……僕から見ると仲が良すぎなような、気もするけどね。良く農園にも通って居たようだし……」
私はジョサイアが恥ずかしそうに言ったことに、何を言い出したのとすぐには理解出来ずぽかんとしてしまった。
これは、やきもちよね……ジョサイアが、わかりやすく顔が赤い。あまり言いたくはないけど、私に言いたかった?
あ。これって……もしかして!
「ねえ。ジョサイア。離宮に行く前に私が農園に様子を見に行ったりすることを……聞いていた?」
「ああ……気を悪くするかもしれないけど、君の行き先はずっと逐一報告するようにしている」
前に離宮で言った「行かないでくれ」は、カルムとの仲を誤解して?
「私たちって……本当に誤解ばかりしていたのね」
今こうして思うと、ばかばかしくなってしまうくらいに、見事にすれ違ってばかり。
「君が……結婚してからも相手が見つかったら、離婚しましょうと言っていたから」
「そんなこと、言ったかしら?」
私は普通に確認のつもりで聞いたんだけど、ジョサイアは目に見えて驚いていた。
「言ったよ……君が契約結婚を言い出した時に……好きだった女性が、何か大きく誤解をしているようだが、まるで口を挟む隙もなく、これでは時間を掛けてわかってもらうしかないと諦めた僕の気持ちを、今ではわかってくれる?」
まあ、ひどい……今思うと、本当に悪魔の所業だわ。全部私のしたことだけど。
「私。ショーンに自分なんて好きになってくれる人なんて居ないって、呪いを掛けられていたの」
話を変えるように私が言えば、ジョサイアは不思議そうに首を傾げた。
「……呪いですか?」
「そうなの! お前なんか俺以外に結婚してくれる奴なんて居ないって言われすぎてしまったせいで、私なんかと……という気持ちになっていたけど、今では彼が自分を優位に見せたかっただけの嘘だって理解している。けど、私は何回も言われ過ぎたせいで、そうかもしれないって心のどこかでは思うようになっていた」
「本当に許しがたいな……あの男」
「嘘だって教えてくれたのは、ジョサイアだった。本当にありがとう。私のことを好きになってくれて……」
それは、まぎれもなく心からの私の気持ちだった。
ジョサイアが泣いていた私のことを気にしてくれるようになり、奇跡的に好きになってくれたのも、今のこの気持ちを味わうためだったと思えるくらい……。
「レニエラ……ああ。そうでした。覚えています?」
ジョサイアがまた顔を赤らめたので、私は何を言い出したのだろうと思った。
「何かしら?」
「昼も夜も求められて大変……なんでしたっけ? 聞いている人も多かったので、噂もすぐに広まるでしょうね」
そういえば、ジョサイアの背後には多くの兵士がいた……私ったら、本当になんてことをしたの!
「待って。ジョサイア! ……本当にごめんなさい。私ったら……つい、見栄をはりたくて、あんなこと」
「良いですよ。別に……本当にすれば、良いことなので」
彼の顔が間近に近付いたので、二度目の私は心得たように瞼を閉じた。
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