第11話「記憶」

 次の日、夜会に出席する休みにするために、仕事を出来るだけ片付け、いつもより遅い時間に帰って来たらしいジョサイアは、私が準備万端整えても、まだ起きる様子はない。


 そんな激務を乗り越えてきた人を、起こす気にもならず、私は久しぶりに朝食も一人で食べた。


 いきなり結婚したとは言え、弟のアメデオになにもかも任せっぱなしだったと反省した私は、目立たない馬車を用意させると、自分の事業のため買い取った農園に赴くことにした。


 秋に入って、すぐ結婚式で多忙になった私が気がつかぬ間に、季節はもう既に冬へ。冷たい空気の中で、柔らかな暖かい日差しが、緑の葉っぱの間から漏れ注ぐ。


 こんな風にこそこそとして私が農園を持っていることを隠さずとも、モーベット侯爵家だって当主ジョサイアは実務は完全に任せ資金援助ばかりの名ばかりだとは言え、いくつも事業を持っている訳なんだから、妻の私が自ら何か事業を起こしたいと言っても別に構わないとは思う。


 けど……とは言え、侯爵家としての事業になってしまえば、離婚時にはなにかと面倒そうなのよね。財産関係は、良く揉めているという話を聞く。


 貴族同士の結婚には政略的な意味など、すぐに離婚出来ない事情もあるから、彼と結婚している間はこそこそと静かに進めるしかなさそう。


 農園の中は整備されて、私の指示通り、緑の中に山吹色の果実も美しい。


 そのままは食さず果汁を利用する実は、そろそろ収穫の時期だと聞いたけど、私がこれから売りだそうとしているのは、この実が出来る前の花から抽出される貴重な精油だ。


 心身の安定も助けるらしい、とても良い匂いがする。


 数ヶ月前に異国で婚約破棄をされた傷心旅行中だった私は、これまた遠い国からやって来た行商人に、この花から出来る精油と抽出方法の購入を持ちかけられた。


 果実自体はこちらでも酒造りに使われていたので、売りに出された農園を探し、一番重要な花や果実の皮、樹皮などから精油を抽出することに成功している。


「……レニエラ様! あの……アメデオ様より、ご成婚されたとお聞きしました。おめでとうございます」


 農園の中から慌てて走って出てきたのは、私が実家ドラジェ伯爵家より引き抜き、この農園を任せた庭師の息子でカルムだ。


 ふわふわとした栗毛に可愛らしい童顔。優しく癒やされるおっとりした雰囲気は、カルムの父親に良く似ている。


 産まれてからずっとドラジェ家で育った人なので、私は幼い頃からカルムを知っている。血の繋がっていない、優しいお兄さんだと思って居る。


「まあ……カルム! こちらになかなか来られずに、ごめんなさい。久しぶりね。元気だったかしら?」


 私が彼の姿を見て微笑めば、近付いて来たカルムは帽子を脱いで、にこにこと感じ良く挨拶をした。


「はい! けど、最近レニエラ様がこちらに来てくれないので、もしかしたらこの事業計画自体がなくなるかもしれないと、父が心配していました。僕もレニエラ様はあのー……あの出来事があってから、結婚はされるおつもりはないと聞いていたので、驚きましたが……」


 ……ああ、そうよね。


 ドラジェ伯爵家から気心の知れた彼らを引き抜き、一生を左右するようなことをしてしまっているというのに、この事業計画自体、宙ぶらりんになってしまっている状態なんて、あまり良くないかもしれない。


「そうなのよね。ねえ……カルム。貴方には言っておくけど、結婚はしたんだけど、私は一年後に離婚するから、事業計画自体には何も変更はないわ。だから、心配しなくて良いから」


 こんな農園に部外者が入り込む訳はないけど、あまり聞こえの良い話ではないので、周囲を気にして声を潜めつつ私が言えば、カルムはすっとんきょうな驚いた声を出した。


「……え! そうなんですか?」


「そうなの。だから、私は時間をこればかりに使う訳にはいかなくなって、少々計画に遅れが生じることは仕方ないけど、気にせずに進めてくれたら良いわ……絶対に売れるはずだもの」


 そもそも、私が見つけた異国でも、遠い国からやってきた商人が売っていた精油は異常に人気が高かった。果実の花から抽出されるので、香りが芳醇で格別だし、肌に塗ってもしっとりとして美容効果は高い。


 私はこれはヴィアメル王国で売り出せば、大流行するだろうと踏んでいる。


「レニエラ様。ですが……離婚なんて、驚きました」


 カルムは言葉を選ぶように、そう言った。私が婚約破棄された時には、ドラジェ伯爵家は本当にお葬式みたいになってしまったのだ。


 つまり、婚約破棄されてしまった貴族令嬢はそれだけ、次にまた求婚者の現れる確率は低くなってしまう。婚約破棄されるようなとんでもない女であるという決めつけもされてしまうし、単純に貴族同士揉めたくないという忖度もある。


 おまけに、私はその後、ケーキをぶつけられた元婚約者に嘘ばかりの噂を流された。そういう訳で、確率は限りなくゼロに近くなってしまったと言っても過言ではない。


「まあ……深い事情があるのよ。彼には間に合わせの妻が、必要だっただけなの」


「色々と、大変なんですね……レニエラ様、離婚したらどうするんですか?」


 カルムが心配そうに聞いたけど、私は当初の予定通り独身で過ごすだけだ。


「え? 私は離婚して一人になったとしても、実業家として生きるわ。元々、そのつもりだったもの」


「……そうなんですか……それでは、そうなれば、僕と結婚しませんか?」


 カルムの緊張感のある表情、私はそれを見てこれはいけないと思い、明るくにっこりと微笑んだ。


「まあ……ふふっ……駄目よ。カルムには面倒な身分を持つ貴族の私より、きっと良い人が見つかるわ」


 幼い頃からずっと一緒に育ってきたカルムは、とても性格の良い子なのだ。こんな私なんかより、可愛くて優しい良いお嫁さんに、いつか出会えるはず。


 もしかして、婚約破棄されて、離婚されて……周囲からは、とても可哀想な女に見えるのかしら。


 ……私は別に一人でも、大丈夫なんだけど。結婚していても不幸な人は居るんだから、一人で生きていても、幸せな人は居るとわかって欲しいわ。


「そうですよね。変なことを言ってしまって、申し訳ありません。僕だって、自分の立場はわかってます。ですが、レニエラ様は、どうして誰とも結婚することなく……その、自ら幸せになろうとは、思って居ないのですか?」


 カルムから思わぬことを質問されて、驚いている私をそのままに、広い農園の端に居た彼の父親に遠くから名前を呼ばれたので、彼は私に頭を下げて謝罪し慌てて走って去った。


 私は息をついて、広い農園の中を歩くことにした。日差しがぽかぽかと暖かいけど、やがてすぐに寒くなってしまうだろう。


 ……どうして、私が誰か良い人を探して、結婚して幸せになろうと思って居ないか、ですって?


 ああ。そうね。何故かしら。確かにカルムの言うとおり、私はこれから誰かと結婚して幸せになろうという気は薄いのかもしれない。


 多分、人生で初めて結婚を約束した男が、幼かった当時は、とっても優しかった記憶があるからかしらね。


 ほんの数年で、人は何もかも変わってしまうのだから、愛なんて最初から求めない方が良いのよ。


 婚約破棄されて自分が貴族令嬢として今までに当たり前のようにあったものをすべて失い、家のため何の役目も果たせないと理解した時に、私は確かに絶望したんだから。




◇◆◇



 久しぶりに夜会に行くために時間を掛けて準備をして、私は螺旋階段をゆっくりと降りた。高い踵の靴が歩きづらく、久々にダンスが出来るのか不安になってしまう。


「レニエラ……美しい。良く似合う。このドレスも君に良く合っている」


「まあ、ありがとう。ジョサイア……このドレスも……ありがとう」


 ついこの前完成したばかりの新しいドレスを着て、髪を結い上げた私を見て、玄関ホールで待っていたジョサイアは手放しで褒めてくれた。彼も夜会用のジュストコールを着て、いつもは下ろしている髪を撫でつけていた。


「ドレスを買って……」


 苦笑したジョサイアは不自然に言葉を止めたので、私は彼の困った顔を見て察した。


「ドレスを買ってお礼を言われたのは、初めてなの? 貴方って、浮気はしない方が良いわね。ジョサイア。話を誤魔化すのが、下手過ぎるもの」


 私はジョサイアの腕を取って、彼と一緒に歩き出した。時間通りにここに来た訳だから、話込んでいると遅れてしまう。


「……浮気をする気は、一生ないよ」


 憮然として言ったジョサイアに、私は肩を竦めた。


「そうね。貴方はとても真面目な性格だもの。行きましょう。陛下より直々にご招待を受けたのに、夜会に遅刻は出来ないわ」

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