第8話「これって」
折良く天気の良い休日に、初めて私たちは二人で出掛けることになった。
モーベット侯爵家の馬車は室内も内張りされた生地にも高級感に溢れ、車輪もなめらかにまわり、とても乗り心地が良い。
ジョサイアが目的地の劇場に着く前に寄りたい場所があると連れて来てくれたのは、なんとモーベット侯爵家御用達の宝石店だった。
そうつまり、王都でも最高級店として名を知られる、有名な宝飾店だったのだ。
「レニエラ。式までに時間もなく、大事な婚約指輪も用意出来ずに、申し訳ありませんでした。良かったら、今日お好きな物を選んでください」
店の前で驚きを隠せない私に、ジョサイアはそう言った。
ヴィアメル王国では、古くからの慣例として婚約が成立した時には指輪を男性から贈る。私たちは問答無用ですぐに結婚したから、確かに婚約という大事な行程をすっとばしてしまっている。
「まあ! ジョサイア。気にしなくても良いのに。けれど、モーベット侯爵と結婚していると言うのに、婚約指輪がない方が確かにおかしいかもしれませんし……ここは、ありがたく頂きますわ」
貴族たちは社交場では、結婚した夫婦の婚約指輪の話でも盛り上がることになる。私が誰かにまだ婚約指輪を貰っていないなんて言ったら、社交界で下がってしまうのは、私ではなくジョサイアの評判。
ここは遠慮せずに、お互いのためにも指輪を頂いておこうと微笑んだ。離婚する時には、彼に返したら良いわ。ここまでの高級店の宝石は、値段が下がらないだろうし。
「僕から婚約指輪を受け取って頂けるとは、光栄です。レニエラ」
「ふふ。私たちもう、結婚済みですけど」
私たちが喋りながら近付いたので、高級店らしくドアボーイが上部にある鈴をカランと音をさせて扉を開けると、そこは透明なガラス製の箱に、きらびやかな宝石が並ぶ。
「まぁ……綺麗ですわね」
私は今の店内での目玉なのか、一際豪華な指輪とネックレスのセットへ目を留めた。
「気に入りましたか?」
「ええ。職人の技を細部から感じますわ。素晴らしい品です」
前に品良く置かれた天文学的な値段が書かれた銀のプレートを見て、やはり良い物は全然違うわねと私は思わず唸ってしまった。
「店長。これを見せてくれないか」
どこからともなくやって来ていた初老の男性は、ジョサイアと旧知の仲のようで、手早く指輪とネックレスを驚いていた私に取り付けた。
綺麗……確かに、綺麗。豪華で、身に付けているだけで震えそう。これを彼に買って欲しいなんて、私はとても言えない。
「え? ……ジョサイア?」
「レニエラ。気に入りましたか? では、買いましょう。妻にはサイズが少し大きいようだが、どの程度の時間で直せる?」
近くに居た店員にサラリと聞いたジョサイアに、私は慌てた。
「ま、待ってください! えっと……流石に大丈夫です」
ドラジェ伯爵家の一年間の収入になるような指輪を、こんなに簡単に即決で購入しようとするなんて、本当に信じられない……けど、流石は資産家モーベット侯爵家なのかしら。
いくつか事業を展開し、商会も経営しているとは聞いていたけど、一介の貴族として育った私とは金銭感覚が全く違うわ。
「気に入らなかったですか?」
私の動きに不思議そうなジョサイアに、指輪の金額が気にいらないは言えない……だって、彼はそれを知りつつ、即購入しようとしていたのよ。
値段については、君は気にしなくて良いよと微笑んで購入する光景が、すんなりと想像出来るわ。
「ごめんなさい。私、金剛石より、他の宝石が良いです」
「……そうか、気が利かず、すまない。それでは、妻のような年頃の女性が好みそうなものを何個か出してくれないか」
そして、店の奥の特別な個室に恭しく通されて、艶々とした紺の天鵞絨«ビロード»の上に、一目見て高価だとわかる指輪がいくつも並んだ。
この店の常連顧客だというモーベット侯爵家は、どれもこれも、高価な宝石しか出して貰えなかった。
正直に言えば数ランク下の装飾品しか身につけたことのない私は、ただそれを見ているだけでお腹いっぱいになった。
どれを選んでも高くつきそうで、私は「大事な婚約指輪ですもの。一度帰って、よく考えたいわ」と引き攣った笑みでジョサイアへと訴え、どうにかその宝石店から撤退することが出来た。
なんだか、光り輝く宝石を数多く見すぎてしまったせいか、馬車の中でも視界がキラキラと輝いている気がするわ……目の前の人が、やたらと素敵な男性だからかもしれないけど。
けど、よくよく考えてお店の常連ってことは……すぐに購入しようとしていたジョサイアは、あの程度の宝石を元婚約者にもいくつも購入していたってことかしら?
だって、私がドレスが欲しいと言えば、最低五着は作ろうとしていたわよね……?
そういうこと……だと、思えるわ。だって、私が見る限り、ジョサイアは女遊びするような人ではないもの。
オフィーリア様って、ジョサイアの何が不満だったの? すべて揃いすぎているという点くらいしか、彼には欠点らしいものが見つからないわ。
けど、それだけ、愛して大事にしていた人に駆け落ちされてしまうなんて……きっと、ジョサイアはあの時に傷ついたでしょうね。
私は窓の外をなんとなく見ている様子のジョサイアに視線を向ければ、彼は気がついて目を合わせてから優しく微笑んでくれた。
優しくされるたびに、胸が苦しくなる……こんなに素敵な人なのに、結婚式前に花嫁に逃げられてしまうなんて、本当に理解出来ない。
そして、馬車は劇場へと辿り着き、私は開演前で赤い緞帳が垂れ下がる舞台の前……観客席には誰も座っていない劇場を見てから、呆気を取られて驚いた。
連れだって一緒に来た夫のジョサイアは、またしても慣れた様子で、白髭を蓄えた劇場の支配人と何か話をしている。
「……ありがとう。僕は葡萄酒を用意してくれ。妻は……レニエラ。飲み物は何が良い?」
貴族の使用する個室のような桟敷席では飲食が可能で、飲み物をどうするか聞かれた。
「わっ……私も、彼と同じもので!」
ジョサイアは慣れた様子で私の肩を抱くと客席に導き、私の隣へと腰掛けた。
……嘘でしょう。確かに、モーベット侯爵家はこの国でも有数の資産家だけど、劇を観るたびに貸し切りにするの?
信じられないわ。
「あの……」
「どうかしましたか? レニエラ」
そういえば今日初めて見るジョサイアの着ている外出用の貴族服は、センスの良い彼らしく色味を抑えた灰色のもので、とてもお洒落だった。
もし、自分の夫でなければ、前髪を下ろして休日仕様の侯爵に、ほうっと見蕩れてとっても素敵な人ねで済んでしまうけど……私は仮初めとはいえ彼の妻として、ここは言わなければならないことがある。
「今日は、貸し切り……なんですか?」
「ああ……そうです。レニエラ。後から役者がここへ、挨拶に来てくれるそうなので……」
おそるおそる尋ねた疑問をどう取ったものか、ジョサイアはにこにことして機嫌良く頷いた。
「私。こういう舞台劇は、たくさんの人と一緒に観たいです。その方がその場に居る誰かの息づかいや拍手を聞いて、感情を共有出来ると思うから……こうして、貸し切りして頂けるのは、すごく特別感があって……その、とてもありがたいんですけど、今回限りにして欲しいです」
「すみません。こうしたら、レニエラに喜んで貰えると思いました。先んじて、どうしたいか希望を聞くべきでしたね」
ジョサイアは顔を赤くして恥ずかしそうにして俯いたので、私は微笑んで首を横に振った。
「いいえ。良いんです。ここまでしようと思って貰えるだけで、私は嬉しいので」
ジョサイアが何か言おうとしたけど、劇場内には静かに音楽が鳴り始め、私はちゃんと席に腰掛けて舞台の方向を向いた。
なんとなく……気がついていたことだけど、ジョサイアって、女性への対応がおかしくない?
だって、夜会のドレスが要るって聞いたら、五着作らねばいけないとか、劇を観たいと言ったなら、劇場を貸し切ったりするの?
なんだか、これって……。
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