ニエ(4)

「ねえ、その髪じゃまじゃないの?」


 それは突然少女に向けられた、他意のない言葉だった。あれからいくども季節が巡り、少女の髪は膝裏につくほど長くなっていた。


「あっいきなりごめんね、私アニーっていうの。先週から働き始めたばかりなのよ。あなたは?」


 アニーは少女にそう名乗って、そばかすの散る頬を赤くし笑いかけた。アニーは今まで見かけない顔だったし、少女にはいつからかお仕着せが与えられていた。だからアニーは、少女を使用人仲間だと誤認したのだった。


「私は、ニエです」


「あなたが?……ごめんなさい、あなたに関わってはいけないときつく言われているのに。知らなくて、本当にごめんなさい」


 アニーは、とんだ失敗をしたとしょげかえった。その様子は少女を排斥するものではなく、ただ失礼な失敗をしてしまったと反省しているものだった。


「あのね、話をしたことを内緒にしたら、大丈夫だよ」


「ありがとう……!あなた、優しいのね」


 少女がアニーに答えると、アニーはほっとしたように笑った。


「……ねえ、こっそりでも話しかけちゃいけないの?」


 アニーは周りを見回して、声をひそめて少女にそう問いかけた。アニーは、優しい少女になぜ関わってはいけないのかわからなかったし、人と関われない少女が寂しくないのかと少し心配になった。


「私にも、わからないの。でもきっと、関わらないほうがいい」


 少女がここで殴られたことはなかったが、それでも少女の心には言いつけに背けば罰が与えられると強く刻みつけられている。あれから何度も遠目に見かけた敷地の端を周る男たちの存在が、少女に痛みを思い出させた。少女は、アニーにそんな目には合ってほしくないとそう思った。


「……わかった。あのね、ごめんね。もう行くけど、本当にごめんね」


 アニーは気遣わしそうに、何度も振り返っては少女を心配そうに見ながら去っていった。




「髪の毛は、じゃまだと思っているの」


 少女はアニーの姿がすっかり見えなくなってから、答えそびれた言葉をぽつりとつぶやいた。お仕着せを与えられても、少女はちゃんとした人たちの中に入れずにいた。




 その日から、そこかしこでアニーの姿を見かけるようになった。アニーは明るく、いつも誰かと笑い合い、親しげに振る舞っていた。


 アニーはしばらくすると、少女の立ち位置をなんとなく察するようになった。関わるなと強く言い含められているため、少女に話しかけることも、視線を送ることもしなかった。アニーは、そういったことをすると少女に不都合をもたらすかもしれないと心配していた。


 それでも、アニーは少女のために何かしたいと思っていて、それとなく見ているうちに少女がきちんと仕事を習ったことがないと気がついた。だから、アニーは少女が近くにいるときに、わざと習ったことを声に出して確認したり、他の使用人に教わろうとした。


 それは、アニーが少女にできる精一杯の気遣いだった。そんな、細い糸をつなぐような思いやりのおかげで、少女は見様見真似で行っていることの意味を知ることができた。少女の手際はそれまでと比べられないくらいよくなっていった。アニーを見かけると、少女は手のひらの光のような暖かさを思い出すようになった。


 アニーはどこにいても、アニーを中心に場を明るくするような、優しく善良な人間だった。あのメイド長でさえ、日が経つにつれアニーに優しく微笑みかけるようになった。


 そんなアニーを見かけると少女はうれしくなったが、絶対に話しかけようとはしなかった。自分のせいで、アニーに何か悪いことが起こるのはいやだと思っていた。


 アニーもまたただの使用人だったので、少女に関わることはしなかった。領分を超える行いは、どうしてもできなかった。


 そんな淡い関係は、季節を変えて、細く細く続いていった。


 いつしか、アニーが少女のために教えられることがなくなってしまった。そうするとアニーは、次に少女が近くにいるときに、その時思っている些細なことをひとり声に出すようになった。


「わあ、今日は寒いなあ!」


「だんだん暖かくなってきたなあ、春が待ち遠しい」


「もうすっかり暖かいな、花がきれい」


「暑くなってきたなあ、水仕事が気持ちいい」


 それは、何日かに一度聞くことのできる些細で優しい言葉だった。少女はそれを聞くと、心の中でこっそりとアニーに返事をした。


(そうだね)


 それはまるで、普通の会話を交わしているようで、温かな気持ちになれた。


 そんなアニーを中心に、使用人たちは自然と穏やかな交流を深めていった。少女は相変わらずその中に入れなかったし、目が合えば舌打ちをされたり、露骨に顔をしかめられた。


 少女に対する陰口もなくならなかったし、アニーもそれを庇い立てできなかった。少女はそれを当然のことだと理解していた。下手に庇い立てて、アニーの立場が悪くなる方がいやだと思っていた。


 少女はときおり交わすことのできるささやかな交流を、ただたのしみにしていた。




 そんなアニーが突然姿を消したのは、暑い暑い、夏の盛りのことだった。

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