第6話 母が出した交換条件
――帰宅後。
「マジで100万貰っちまった!?」
駅前のマンションから20分ほど歩き、町外れにある住み慣れたボロアパートに戻った。
10畳ワンルームの壁の薄い和室にて、俺は100万円が詰まった封筒を前に手を震わせる。
(とりあえず、誰にも見つからないような場所に隠すか……)
リスク回避のため、バイトの件は親兄弟にも秘密にするように言われた。
書類上は、千駄木さんが用意したダミーの清掃会社で働くことになっている。
(秘密にしたいなら100万なんて大金を渡さないでほしい)
俺の理性を試しているのだろう。誰にも言えない秘密を抱えていると黙っていることが辛くなる。うっかり口を滑らせたらそこでバイト終了だ。
(隠すなら机の引き出しだな……)
俺は勉強机の引き出しを開いた。念のため5万円ほど財布に入れたあと、残りの金を引き出しの奥にしまう。
「これでよし……」
「終わった?」
「どわぁぁっ!?」
いきなり背後から声をかけられて、俺は大声をあげてのけぞった。
声をかけてきたのは……。
「驚かすなよ、母さんっ!」
「めんごめんご。コソコソしてるのが見えたから、終わるまでそっとしておこうと思って」
声をかけてきたのは『風馬
母さんは男受けのいいグラマラスなボディラインと、脱色した長髪を揺らしながらウインクを浮かべる。
これから仕事なんだろう。胸元が大きく開いたワンピースを着ており、豊満な胸がたゆんたゆんと揺れていた。
「今日のおかずは巨乳もの?」
「なんの話だっ!?」
「隠さなくてもいいわよ。お母さんわかってるから。おっぱいもロボットも、男の子は大きいモノが好きだもんね」
母さんは自分の胸を両手で押して上げて、ニヤニヤと笑う。
相手は母さんだ。どうとも思わない。俺はため息をついて勉強机から離れる。
エッチな漫画を読んでいたと勘違いしてるんだろう。
「わかってるならそっとしておいてくれ。絶対に引き出しを開けるなよ。絶対だぞ」
「そうカリカリしないの。愛する息子とのスキンシップじゃない」
俺がいくら注意しても母さんはどこ吹く風だ。苦笑を浮かべるだけで、まったく気に留めていなかった。
「今日は早番のはずでは?」
「忘れものしちゃってね。……と、あったあった」
俺の問いかけに母さんは冷蔵庫を開けて、タッパーに入ったマッシュポテトを取り出した。マッシュポテトは母さんの得意料理で、朝晩問わず食卓に並ぶ風馬家の定番メニューだ。
「店に持って行くのか?」
母さんは歓楽街の一角にあるスナック『
「常連さんのところに持って行くの。お店で出してたアタシの味が恋しいんですって」
母さんはマッシュポテトが詰まったタッパー片手に、悲しそうに目尻を下げる。
「その常連のお爺ちゃん。セルフネグレクトになっちゃってね。これは大変だーって、仲間内でお世話を焼くことにしたのよ」
「セルフネグレクト?」
聞いたことのない単語に俺は首を傾げた。
「日常生活がままならなくなる心の病気よ。TVでたまに特集してるでしょ? ゴミ屋敷とか汚部屋とか。あの状態がそれ。ストレスとか独居生活とか理由はいろいろあるみたい」
「汚部屋……」
「そのお爺ちゃん、奥さんに先立たれてね。ウチに通ってたのも寂しさを埋めようとしていたみたい。でも、いい歳だからお店に通う元気もなくなって。人と会う機会も少なくなってそのまま……ってわけ。だから交代で様子見てるのよ」
母さんは適当な紙袋にタッパーを詰め込みはじめた。
出勤前に爺さんちへ寄ろうとしたが、肝心のタッパーを忘れて慌てて戻ってきたのだろう。
「例えばだけど、俺くらいの若い子でセルフネグレクトになったりするのか」
「人付き合いによるんじゃない? 普通は親が面倒見るでしょ。友達がいれば心配して声をかけるでしょうし」
「だよな……」
天城さんの顔が浮かんだが、彼女の傍には千駄木さんがいる。
汚部屋になった理由は他にあるのだろう。
「そうだ。ようやくバイト先が決まったぞ」
明日にしようかと思ったけどちょうどいい。
俺は千駄木さんから渡された(ダミーの)同意書を取り出した。
「あれだけ面接落ちまくったのにまだ諦めてなかったの? 学費なら心配いらないって言ったでしょ」
「俺はもうガキじゃない。ウチの家計が火の車なのはわかってる。母さんだって無理が利かない歳だろ」
「んまっ。レディーに歳の話題を振るなんて失礼なお子様ね。月に代わってお仕置きするわよ」
「その時代を感じるリアクションが歳いってる証拠だよ」
「はぁ~、まったくこの子は。そんな態度ばかり取ってると、ろくな大人にならないよ」
「オヤジみたいにか?」
「その通り! 小さい子供を置いて蒸発するなんてありえない。アイツのせいでどれだけ苦労したか。あ~、ほんと腹立つ。今度見かけたら首締めてやる!」
母さんは見えない相手に対して首を絞めている。母さんのテンションについていけない。だが、この底抜けの明るさとサバサバした性格に救われたことも多かった。
「働くには親の同意が必要なんだ。この紙にサインしてくれ」
「『ぼちぼちクリーニング』ねぇ」
母さんは同意書にざっと目を通したあと、ジロリと俺を睨んでくる。
「母さんとの約束忘れてないでしょうね」
「バイトもいいけど勉強もしっかりやること、だろ?」
「そうよ。いい大学に行かせるために今の高校に行かせてんだから。学費を稼ぐバイトで学業が疎かになったら元も子もないわ」
「わかってるって。俺なりに頑張ってる」
「口ではなんとでも言えるわよね」
「むっ……」
母さんの小馬鹿にした物言いにカチンとくる。
そこで天城さんの言葉を思い出した。人の心は行動に現れる……か。
「そこまで言うなら次のテストで1位取ってやる。それでどうだ」
「学年で?」
「……クラスで。それと10位以内にしてくれると嬉しい」
「身の程を弁えててよろしい。いいよん。10位以内に入ったら、バイトしようが夜遊びしようが文句は言わない」
「約束だかんな」
母さんはボールペンを手にすると名前をサインしてくれた。
勉強に関しては俺なりに勝算があった。
バイト先が決まったので、面接に費やしていた時間を勉強に回せる。
掃除も勉強も同じだ。黙々と作業をこなして着実に成果を上げるのが好きだった。
「ヤル気出てきた。いっちょやったるか!」
「いいね。それでこそ男の子だ。その調子で彼女の一人くらい作りなさいよね」
「余計なお世話だっての……」
息子がため息をつく隣で、母さんは「ガハハ!」と腰に手を当てて豪快に笑う。
天城さんが母さんを見たら卒倒しそうだな。絶対会わせないようにしよう……。
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