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ムラサキハルカ

君の光と僕の影

 冬眠中にスマホが鳴った時、ツキノワグマは、また非常食さんからですか、とうんざりしつつ、大分熟れた手つきで通話ボタンを押した。

『はじめまして。沙綾さあやの母です』

 知らない人間のメスの声は、血の繋がりがあるからか非常食の娘との繋がりを窺わせた。これはどうもご丁寧に、などと社交辞令を飛ばしつつ、嫌な予感がする。

「本日はどのようなご用件ですか?」

 尋ねれば、躊躇うように息を呑むメス。そのまま黙り込んだまま、薄っすらとした砂嵐じみた音が聞こえてくる。ツキノワグマは電話を切らないまま時を待った。やがて、牝は大きく溜息を吐き、

『沙綾が……亡くなりました』

 重々しく告げた。

「そうですか」

 ツキノワグマは淡々と応じる。予感通りだった。

 娘の母はどことなく思うところがありそうな声で、亡くなった時の状況について語り出した。

 いつも通り、体を大きくするための筋力トレーニングに勤しんでいた娘は、ベンチプレスの際手を滑らせてバーベルが胸部に落下させてしまった。すぐさま周りにいた人間が救い出したものの、助からなかったという。

 ――じゃあ、わたしが熊さんと同じくらい大きくなったら、ケッコンしてくれる?

 かつての幼子だった非常食の娘のキラキラとした目が、頭の中で思い出される。娘は人という種族らしい小さくか細い体を最後に会った時まで鍛え上げ、大きくし続けていた。

 メスの話は続く。

 非常食の娘は、体の巨大化に行き詰まりを感じていたこと。加えて、職場で昇進したことによる激務が重なり、亡くなる直前はいつにも増してふらふらだったこと。

 ツキノワグマは、ただただ愚かだと感じる。自らの生命に害が及ぶまで体を痛めつけるなど、考えなしとしか言いようがない。

「愚かですね」

 思ったことを歯に衣着せずに口にした。

『何とも……思わないんですか?』

 スマホ越しに聞こえるメスの声が怒気をはらむ。

「愚かだと思います」

 ツキノワグマは飾らない。非常食の娘や時折会いすれ違う人々から人間社会での付き合い方を学んでいたものの、よく知りもしないメスに用いる義理は持ち合わせていなかった。

 メスはしばらく黙り込んだままでいたが、

『獣畜生を人扱いしたこちらが馬鹿だった』

 苦々しげに告げた。

 そもそも人間の分類からして獣なのだから当然なのでは、と思ったツキノワグマは、このメスを知能が低い人間と判断した。

『あの娘は、どこが良くてこんな獣畜生を好きになったのかしら』

「同感ですね」

 しみじみと頷きつつ、会うたびにまっすぐな好意をぶつけてきた、非常食の娘を思い出す。その気持ちは、最後に会った時はもちろん、スマホから届く連絡の際も変わり薄れることはなかった。

『あの娘の顔を立てて、通夜と葬式に呼ぼうと思ってたけど、もう我慢できない。娘の四十九日……いいえ、一生山を降りてこないでちょうだい』

「ええ」

 そもそも、よほど飢えでもしなければ、人里になど下りないし、下りたくもなかった。

『むごたらしく野垂れ死ね』

 心の底から忌々しげに吐き出された言葉とともに、通話が切れる。ツキノワグマはスマホを地面に下ろして数秒後、優しい力で踏み潰した。もう必要がなかった。


 /

 

 その年、ツキノワグマは例年より幾分か早く、冬眠中の穴蔵から外に出た。

 まだ肌寒い空気に包まれる山肌には、まだまだ雪が溶け残っている。

 食料はあるでしょうか。素朴な疑問とともに、雪上で歩を進める。ざくざくざくと跡をつけ鳴らした。体の重さに腕と脚がたわむのは、寒さのせいか歳のせいか。

 生まれておおよそ三十年。既に同族の知り合いは皆、旅立ってしまっている。熊たちの中で特別に頑強だったわけでもないこのツキノワグマ自身が、もっとも長く生きながらえているのは、曲がりなりにも島国内の食物連鎖の頂点に位置する種族ゆえか、あるいは人語を解し発話することができる知能の高さと特性ゆえか、はたまたこうした諸々を含めた幸運ゆえか。

 どれでも、いいですね。

 ツキノワグマの前にあるのは、ただ生きる、ということのみ。それ以外ない。

 白く染まった地面越しに移動しているうちに、いつの間にか森に踏み入っている。

 そう言えば、あの非常食さんと初めて会ったのも、森の中でしたね。

 思い出すのは、とてもとても小さかった頃の人間のメス。うるさく泣きわめいて、精一杯、自らの存在を主張していた。ツキノワグマとしては食べてしまってもかまわなかったが、さほど腹が空いていたわけでもなかったのと、人食いグマとして目をつけられるのは割に合わないと判断したのもあり、小さなメスに逃げるよう促した。しかしながらこの小さなメスは、ろくに道を覚えておらず、仕方なく背中に乗せて人の道まで案内することとなった。小さなメスは最初こそ涙を流しかな切り声をあげていたものの、途中から泣き止み面白い話を求めてきたので、なんとはなしに当時頭の中にあった事柄を喋った。内容はよく覚えていない。

『また、来てもいい?』

 別れ際の言葉には、はっきり断りを入れた。種族の違いからすればろくなことにはならないのは目に見えていた。しかし、何が気に入ったのか、小さなメスは成長したあとも森にやってくるようになった。いつか食べたい時に食べればいい。そう思ってだらだらと非常食の娘として相手を続けて二十年近くが経った。

「沙綾さんはもういないんですね」

 既に知っていたことを口にする。冷たい風が毛皮をなぜた。

 四つん這いのまま、ゆっくりと歩を進める。段々と外気に慣れはじめたからか、腕と脚が軽い。その軽さにほんの少しだけ心許なさを覚えた。 

 

 冬の終わり、ひとりぼっちのツキノワグマが山に帰った。

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