第23話 憑き物が落ちたかのように
「これは……酷いな。マルタン嬢、君、僕の見えないところでイェリナのメガネに八つ当たりでもしたの?」
セドリックがロベリアを軽蔑するような冷たい眼差しで見ている。イェリナの手の中に横たわる眼鏡の姿が、見るも無惨な姿をしてたから。
折れて壊れていたのは、ブリッジやヨロイだけじゃない。曲がり過ぎているモダン、円になれずに歪んだリム、ヒビの入った分厚いガラス製のレンズ。テンプルは波打っていてガタガタだ。
だけれど。
「待って、セオ待って。いいんです、これは元からガタガタなんです! こういうものなんです! いえ、眼鏡はこんな不恰好なものではないんですけど、違うんです! ブリッジは折れていますし、ヨロイも壊れていますけど、元々不安定な出来栄えだったんです! ほんと、ロベリア様のせいでこうなったんじゃないんです!」
「イェリナ……君は優しいね」
真実はイェリナの自己申告通りで、もともと不恰好な眼鏡の不出来な
けれど、セドリックは眼鏡を見たこともなく、イェリナが作った眼鏡がどのような出来栄えだったのかも知らない。イェリナが必死になっているのは、ロベリアを庇うためなのだと感動さえしているセドリックをよそに、イェリナは心底安堵して、壊れた眼鏡を抱きしめた。
「ああ、でも、粉々にならなくてよかった……! フレームが粉々になっていたら、眼鏡の設計図を書き起こせないところでした!」
抱いた衝撃でヒビ割れたレンズがお亡くなりになったような手応えを感じたけれど、気にはしなかった。否、ほんのちょっぴり胸に来たけれど、未来へ踏み出すための尊い犠牲であるのだから、と強引に自分を納得させた。
イェリナは奪われた眼鏡をどうしても取り戻したかった。たとえ壊れていたとしても。だって、この世界ではじめて形作られたイェリナの眼鏡なのだから。
どのような形であれ、眼鏡が手元に戻ってきたイェリナは無敵に等しかった。
「い、いいですかセドリック、それからロベリア様も。このデコボコ眼鏡が真の眼鏡だと勘違いしないでくださいね!? 職人の手による眼鏡は美術品級に美しいんですから!」
必死で弁明するイェリナの手の中で、割れたレンズが光を反射してキラリと光り輝いていた。
「私はこれで失礼するわね。……イェリナ、私の気持ちを見つけてくれて、ありがとう」
憑き物が落ちたかのようにスッキリした顔で告げるロベリアの姿は、彼女が本来持つ清廉で高貴な美貌で輝いていた。
「マルタン令嬢、礼を言うのはまだ早い。僕がきっちり役目を果たしてからにして」
「ええ、そうね。でも、心配はしていないわ」
「ロベリア様、きちんと殿下に思いの丈をぶつけてくださいね。もしかしたら……もしかしたら、殿下は殿下なりにロベリア様を守ろうとしているのかもしれませんから」
イェリナは、サラティアとアドレーを思い出しながらそう言った。
アドレーはサラティアが大切すぎて、なにも言わないことがサラティアを守ることだと思っていたのだ。王太子殿下とアドレーを同列に見るのは不敬なことかもしれないけれど、イェリナの直感は、同じ穴の狢ではないだろうか、と告げていた。
「イェリナ……あなたは本当に優しいのね。困ったことができたら、私に言いなさい。力になるわ」
「……マルタン嬢、ティーガル嬢が扉の外で待っているでしょ。早く行ってあげたらどう?」
セドリックが作りもののような笑みを浮かべて、暗に退室を急かしだす。けれど、ロベリアが怒ることはなかった。怒るどころか苦々しく微笑んだ。
「そうですわね、そういたします。……カーライル様、お幸せに。イェリナ、あなたもね」
ロベリアは、イェリナが
「……ロベリア様」
開け放たれた扉の向こうには、騎士然としたリリィ・ティーガル伯爵令嬢が屹立してロベリアを待っていた。
「リリィ、今まで無理を言ったわね。……これからも、私を守ってくれる?」
「はい。……はい、当然のことですわ!」
ロベリアを見つめるリリィの顔は、安堵したように緩んでいた。そうして、
ロベリアが去った
イェリナがその事実に気づいてしまったときには、もう遅かった。ぐるん、と視界が半回転し、気づいたときには
幻覚眼鏡という
「イェリナ。どうしてマルタン嬢を許したの」
まるで、許さなかった方がよかった、と言い出しかねない物騒な物言いに、イェリナはそっとセドリックの頬を両手で包んだ。ゆらゆらと揺れる黄緑色と視線を合わせ、イェリナは年下の少年を諭すように優しく微笑む。
「いいですか、セオ。今日、眼鏡をかけていないひとは、明日、眼鏡を必要とするひとになるかもしれない可能性を秘めているんです」
「……、…………うん」
「それに、ロベリア様のご実家は、金融取引を担っておられますよね。このまま禍根を残して敵対したままだと、わたしが将来的に眼鏡店を出店した場合の障害になるでしょう? そうなると困るので、ロベリア様を懐柔する必要があったのです」
「イェリナ待って、メガネ店……? 今度はお店? 君ってひとは……いつも僕の想像を超えてゆくね。そういうところが、たまらないな」
「あ、ありがとうございます?」
はあ、と短く息を吐き、それから肩の力を抜いて紳士的な笑みを浮かべたセドリックは、ようやくイェリナの上から退いてくれた。
手のひらからセドリックの熱が逃げてゆくのが惜しい。そんなことを思いながら、イェリナも身体を起こして乱れた
「イェリナ……君は時々、僕よりも年上のような物言いをする」
「そうですか? 気のせいですよ」
困ったように眉を寄せ、前髪をかき上げながら斜め下から見上げてくる
思えばイェリナは、はじめからセドリックのこの目に心を奪われていた。
(ああ、そっか。呪いを解く前からセドリックの顔に幻覚眼鏡が視えなくなったのって……)
思い当たる節に、イェリナは澄ました顔微笑んだとき。
「セドリック、お嬢さん! 無事か!?」
「イェリナ様、大丈夫ですの!?」
ノックもなく、アドレーがサラティアを伴って、中へと入ってきたのである。
ふたりとも肩で息をし、額に浮かぶ汗を拭うでもなく、ふたりがイェリナとセドリックに駆け寄ってきた。イェリナは、泣き出しそうな顔をして抱きつくサラティアを受け止める。
「サラティア様にアドレー様……。大丈夫ですよ、セオは無事です! ……マルタン侯爵家の誓約魔法は、わたしが誓約無効状態にし」
「馬鹿ッ! わたくしが心配しているのはイェリナ様のことよ!」
「サラティア様……それなら本当に大丈夫です。ロベリア様とはお友達になりましたから」
「お友達っ!? ……あなた、凄いわね。なにがどうなってそうなったの」
驚いたように顔を上げたサラティアの目には、隠せない好奇心が浮かんでいる。
そんな可愛らしい様子のサラティアを、自分に正直に生きることにしたらしいアドレーが、じっと見守っていた。深い緑色の目には、少しばかり嫉妬の炎が揺らめいていたけれど。その目は優しい色をしていた。
「まあ、お嬢さんだからな。さて……お嬢さん」
「わたくし達がこちらへ来たのは、星祭りの参加申請を出すためでしてよ。急がなければ……受付が終わってしまったら大変なことになりましてよ!」
そういうわけで、サラティアに促されたイェリナは、慌ててセドリックたちとともに
「今年は素敵なお嬢さんと参加か。楽しみたまえよ、カーライル君」
白い髪と同じ色の豊かな口髭を蓄えた教授はそう言うと、イェリナとセドリックの参加申請書を快く受け取った。参加許可を意味する印章を押し、にこりと笑うのはヴァンショー教授である。
参加申請書を無事提出したイェリナたちは、教授の部屋を後にしてから数歩離れると、込み上げてくる安堵と喜びで破顔していた。
「よかった、これでイェリナ様はカーライル様と星祭りに参加できますのね!」
「はい! ありがとうございます、サラティア様。推薦人になっていただいて……」
イェリナとサラティアは、手を取り合って喜んだ。
大急ぎで星祭りの参加申請書を書き上げ、イェリナの保証人兼推薦人はサラティアに。セドリックの保証人兼推薦人はアドレーに、それぞれ署名してもらっての提出だった。
サラティアとアドレーも今年の星祭りはともに踊るようで、ふたりの保証人と推薦人はイェリナとセドリックが務めている。
「ふふ。イェリナ様、もう無効ですから言ってしまいますけれど、もし、イェリナ様がカーライル様を諦めていたとしたら、わたくしがイェリナ様のパートナーになるつもりでしたのよ」
普段の凜とした姿とはまた違い、アドレーに向かってふふふと笑って見せるサラティアはどこか小悪魔めいていて可愛らしい。
「お、俺はなぁ! 今年こそお前と踊るために余計な策謀を巡らせて——……!」
「ええ、確かに余計でしたわね、本当に。……はじめからわたくしと踊りたい、とおっしゃればよかったのよ」
クスリと笑うサラティアの目元は暖かく緩んでいる。
一方でアドレーは完全にサラティアの手の上で転がされているようで、赤い髪をぐしゃぐしゃと掻きむしり「そっ! れは、そう……」などと呟きながらなんとも言えない顔をしていた。
サラティアがアドレーに見せる意外な姿を微笑ましく見守っていると、それまで黙っていたセドリックが、イェリナの手を取り引き寄せて腰を抱きしめた。
「イェリナ、よそ見はやめて」
一瞬にしてイェリナはセドリックの腕の中。今まで気にしたことがなかったのに、制服越しにジワリと染み込むセドリックの体温が熱い。
セドリックはなにも変わっていない。イェリナとの近すぎる距離感も、触れ方も。変わったのはイェリナの意識だけ。呪いが解けて幻覚眼鏡が視えなくなっただけでこの始末。
(めっ、眼鏡……ッ! 幻覚眼鏡はどこなの……っ!?)
失われた幻覚眼鏡をこんなにも求めることになるなんて、イェリナは思ってもみなかった。幻覚眼鏡のない素面のセドリックが、その振る舞いが。こんなにも甘い行いだったなんて、聞いてない。
イェリナの心臓は早鐘が鳴るように激しく動悸している。手のひらだって、しっとり汗ばんできた。
「イェリナ、僕らの家に帰ろう。君に見て欲しいものがあるんだ」
セドリックが柔らかく微笑み、イェリナの手を握り指を絡めた。指先から伝わるセドリックの熱が、汗ばんだ手を知られる恥ずかしさを灰にする。
イェリナが握られた手をそっと握り返すと、セドリックの
「呪いとメガネについて、君にも知って欲しいことがある」
真剣な眼差しで微笑むセドリックの視線はイェリナの胸の奥まで突き刺さり、もしかしたら一生、抜けないのではないかと思うほど輝いていた。
セドリックの心からの微笑みを浴びて放心状態となったイェリナは、導かれるままに大公家の馬車に乗り、王都郊外にあるカーライル大公邸の豪華客室に再び招かれたのである。
カーライル家の面々は、イェリナが勝手に
出迎えてくれたジョシュや、ブレンダンの顔からは、幻覚眼鏡が消失していた。それをこっそりセドリックに伝えると、嬉しさが滲む笑みを返してくれた。
とにもかくにも大公邸に戻ってきたイェリナは、二日前にお世話になった専属メイドに、再び、頭の
やっぱりただの
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