第22話 心の底から取り戻したかったもの

「マルタン令嬢ッ、なんてことを!」


 眼鏡への暴挙に誰よりも先に反応したのは、セドリックだった。顔は青褪め、目尻は滲んでいる。

 ロベリアを非難するように叫んだセドリックは、次の瞬間、自由に身動きが取れている自身に驚いたように目を丸くした。

 セドリックがロベリアと交わした誓約魔法の要は、イェリナの眼鏡である。ロベリアが強く握り締める折れた眼鏡からは、淡い緑色の光が抜けるように立ち昇っていた。

 イェリナが自作眼鏡を犠牲にしたことで、セドリックを縛っていた誓約魔法が解けたのだ。いてもたってもいられずに駆け出したイェリナは、三歩の距離をあっという間に詰めきって、セドリックを抱きしめた。


「セドリック……セオ! 痛いところはない? 苦しいところは?」

「イェリナ、イェリナ……ごめん。君の大事なメガネが……僕はなにもできなかった」


 セドリックがイェリナの名前とその存在を確かめるように呟いた。今まで一度だって聞いたことのない震えた声が、イェリナの膝を震わせる。

 イェリナの薄茶色の目は渇いてなにもこぼれていないのに、セドリックの黄緑色の目がウルウルと潤んでいた。


「いいの、大丈夫」


 今度はちゃんと口にして伝えることができたイェリナは、セドリックの背を強く抱いて、ゆるゆると首を横へ振った。顔には微笑みを張り付けて、けれど奥歯はきつく噛み締めていた。

 病めるときも健やかなるときも、いつも支えてくれたイェリナの眼鏡。その眼鏡は、ロベリアの手の中で折られて無惨な姿になっていることだろう。

 こうなることは、はじめからわかっていた。

 セドリックに誓約魔法がかけられていて、誓約の要が眼鏡であると知ったときから、こうなるようにイェリナが自ら誘導したのだから。

 だから覚悟は済んでいた。とうの昔に済んでいたのに、どうしようもなく苦しい。命のように大切だった眼鏡を失ったのだから、当然だ。

 けれど、喪失の痛みに勝る歓喜が、イェリナを包み込んでいた。一度は失ったと思っていたセドリックが、今はイェリナの腕の中にいる。


「……イェリナ、どうして僕を取ったの」


 イェリナを見つめるセドリックの目が揺れていた。ほんのり赤い目元、影が落ちた麗しい輪郭。それなのに、神秘的な黄緑色イエローグリーンライトがゆらゆらと潤んでいるのがハッキリ見える。


「セオ、わたしが眼鏡を選ぶと思っていたんですか?」

「当然でしょ。イェリナはメガネを愛している、と……」

「それなのに、わたしの心の赴くままに任せてくれたんですね」


 イェリナは、セドリックがイェリナの意志を優先してくれたことが嬉しかった。

 イェリナの凪いで止まっていた心が動きだす。感情があふれて形になる。イェリナの目からひと筋だけ、宝石のようなしずくがほろりと流れた。

 けれど、それだけ。涙とともに痛みは去り、イェリナは背筋を伸ばして顔を上げ、しっかりと前を向いていた。


「わたしがロベリア様から取り戻したかったのは、間違いなくあなただったの」


 本当よ、と囁きながら、イェリナが踵を上げて背伸びをした。そうしてイェリナはセドリックと額を合わせる。

 セドリックの顔はクシャクシャで、折角の美貌が台無しだ。

 美しい黄緑色イエローグリーンライトが、自分の代わりに悲しんでくれている。それは嬉しいのだけれど、舞い上がってしまうほど愛おしいのだけれど、そんな顔をさせたくて眼鏡を犠牲にしたわけじゃない。

 もっと、微笑んで欲しい。

 もっと、喜んで欲しい。

 もっと、抱きしめて欲しい。

 そう思ったイェリナは、静かに目を瞑ってキスをしていた。セドリックの柔らかな唇へ。かつて感じた頬の感触とは違う、湿った柔らかさを唇で感じ取る。

 イェリナは、セドリックの手が力強く抱きしめてくれるのを背中に感じた。ぎゅう、と大切に抱いてくれる熱でイェリナの心が甘くとろけて、消えてしまいそうだった。

 愛している。心の底からセドリックも、愛している。

 くちづけたセドリックから、淡い緑色の光が抜けるように立ち昇り、緑色の光とともに、幾つもの魔法式が花開くように展開しはじめた。無数の魔法式のうち、ひとつはセドリックを包み込み、それ以外はどこかへ転移しはじめた。


「まさか……呪いが……」


 セドリックが、消えゆく光を呆然と見つめている。緑色の淡い魔法の光がセドリックの身体から抜け切ると、セドリックの身の内から溢れんばかりの光が溢れて消えた。

 様々な色の光が重なり合って白く輝く光。それはまさしく、生命力を表す光だ。呪いを解いたことの証である。

 カーライル家のお騒がせな始祖がカーライル家の血にかけた呪いが、今、解けたのである。

 呪い幻覚眼鏡ではなく、本人セドリックを愛すること。

 それは古来より言い伝えられている呪いの解き方真の愛によるものだった。


「呪いが、解けた。イェリナ、イェリナ、君が呪いを解いたんだ!」

「……まさか、呪いって……本当だったんですか!?」


 はしゃぐセドリックが、半信半疑のイェリナの頬を両手で包む。

 セドリックの顔が穏やかに色づき、黄緑色の目は出会った時よりも輝いていて、力強い生命力で満ち溢れていた。きっと、この力強さが本来のセドリックの輝きなんだろう。

 それを取り戻したセドリックは、より一層、魅力的に微笑んでいた。思わず心臓がドキリと高鳴る。


「わ、わたしたち……もう利用し合う理由がなくなってしまいましたね」

「それは、呪いが解けた僕の顔からメガネなるものが消えたから?」

「あっ、あの素晴らしい幻覚眼鏡って、呪い由来のものだったんですね!?」

「……呪いを解かなければよかったと思ってる?」


 不安に揺れるセドリックの目を見たイェリナは、安心させるように首を振る。


「セオ。わたしが取り戻したかったのは、あなたよ」


 イェリナがにこりと微笑むと、セドリックの表情が明るく輝いた。込み上げる嬉しさを隠しもせずに、セドリックがイェリナに口付けた。

 なんて、情熱的な口付けか。唇の薄い皮膚を通して交わされるセドリックの気持ちが、どうしようもなく熱い。

 イェリナの心臓は高鳴りすぎて苦しくて、壊れてしまいそう。頭の芯だって痺れてしまって動かない。込み上げる歓喜に翻弄されて、イェリナは呼吸もままならない。

 そうして、そっと離れたセドリックが、乱れた呼吸を取り戻すために息を整えるイェリナの肩に、安心した猫のように額をこすりつけた。その仕草に、再びイェリナの身体が熱く燃える。


(だ、駄目。これは駄目……! 眼鏡以上の威力があるなんて聞いてない!)


 近すぎる体温に戸惑うイェリナは、迷いながらもセドリックの肩をそっと押した。これ以上は、本当に心臓がどうにかなってしまいそうだったから。

 呼吸を深く吐き出したイェリナは、セドリックに微笑んでから離れると、長椅子ソファへ向かった。そうして、イェリナの眼鏡を力任せに折ってしまったことを悔いて茫然としているロベリアの隣に腰を下ろす。

 イェリナは目に見えて震えているロベリアの手を、折られた眼鏡ごと包み込んだ。折れた眼鏡に思うことがないわけではないけれど、今は目の前のロベリアを優先することだけを考える。

 イェリナはセドリックのように柔らかくまあるい声で問いかけた。


「ロベリア様。ご婚約者様に言いたいことがあるのではありませんか?」

「だって……だってあの方は」


 問われたロベリアは、眼鏡を折ってしまった罪悪感と後ろめたさからか、年相応のどこにでもいる少女のように無防備な姿を晒している。

 そこにはもう、高圧的な態度も、高慢な微笑みも、吊り上がった鋭い目もなく、ただ意気消沈して項垂れるロベリアしかいない。


「あの方は王太子殿下なのよ。無理だってこと、わかるでしょう? ……私からなにか申し上げることも……なにもかも」

「そんなわけないじゃないですか」

「……え?」

「そんなわけ、ないじゃないですか」


 弱音を吐き出すロベリアをイェリナはにこやかに斬り捨てた。

 キョトンとほうけた顔でイェリナを見つめるロベリアに、イェリナは穏やかな顔と声とで首を横へ振る。


「聞いてください、ロベリア様。わたしはカーライル大公家を味方につけた物知らずで無礼な田舎令嬢です。ですから、今からロベリア様はわたしのお友達です」

「は?」


 意味がわからない、といった困惑気味の表情で首を傾げるロベリア。その耳から、綺麗にまとめてあった白金色の髪がひと筋こぼれる。

 ロベリアが、これまで必死に積み上げて来たであろう淑女的な振る舞いを完全に捨てた瞬間をイェリナは見た。

 イェリナはロベリアに優しく微笑んで、少し離れたところで見守ってくれていたセドリックに助力を請うた。


「セオ、わたしのお友達が困っておられます。助けてください」


 イェリナは、いまだにロベリアの手の中にある折れた眼鏡を気にかけながら、セドリックに念を押すように確かめた。


「セオ、できますよね?」


 イェリナは、ただにこりと微笑んだ。否定が返ってくるなんて疑ってもいない薄茶色の視線は、有無を言わさぬ力がある。けれど、そんなものがなくてもセドリックは頷いただろう。


「イェリナ、君が望むなら命に変えても。必ずあの性根の腐った王太子殿下にマルタン嬢の言葉を届けよう」

「ほら、無理じゃなくなりましたよ、ロベリア様!」

「マルタン嬢、僕が……いや、カーライル大公家が責任を持って殿下を星祭りに連れ出そう」

「そん、な……。私の今までの時間と抵抗はなんだったの……」

「……ごめんなさい。わたしがもう少し早く、ロベリア様が抱えている事情に気づいていればよかったんです」


 イェリナは申し訳なさそうに頭を下げた。

 ロベリアは元より王太子妃教育なども受けていて、今まで完璧な淑女として生きてきた。ひとつのミスも許されない生活は、辛かっただろう。誰にも相談できない苦しみは、計り知れない。

 そうでなくても、もとよりロベリアは性根のよい令嬢なのだ。

 誰も彼もが忘れてしまって形骸化している学院アカデミーの方針を律儀に守ってしまう程度には。学生たちの前でイェリナを責め立てることを避けてしまうくらいには。そして、イェリナの大事な宝物を布に包んだまま丁寧に扱ってしまう程度には。


(真面目なひとほど、ひとりで抱えて暴走するのよ)


 いまやイェリナは、難しい立場に置かれたロベリアの心情を理解し、同情していた。茫然とすることしかできないロベリアに、田舎の男爵令嬢らしくニコリと笑って力強く伝えた。


「ロベリア様、覚えておいてください。これが無礼で世間知らずの田舎令嬢が使うお友達パワーです!」


 カーライル大公家の力と影響力を当てにした他力本願だけれど、イェリナは自信満々に誇ってみせた。

 すると、ほうけていたロベリアが、クスリと笑い出した。力が抜けた細い肩がふるふると震えるほど笑うロベリアの目尻には、うっすら涙が滲んでいる。

 傷ひとつない指先で滲んだ目尻を拭ったロベリアは、宝石のような紫色の目で柔らかくイェリナを見つめて言った。


「あなた……面白いのね。カーライル様がお心を寄せる理由がわかるわ」

「イェリナとお呼びください、ロベリア様。わたしでよければ、いつでも無敵の田舎令嬢の振る舞いをお教えしますよ」

「それは結構よ。……ごめんなさい、イェリナ。大切なものなのに……壊してしまったわね」


 そう言うとロベリアは、強く握りしめていた眼鏡だったものをイェリナに向かって差し出した。

 ああ、この世唯一の眼鏡がようやく戻って来た。イェリナは差し出された包みを震える手指で受け取った。布に包まれていてもわかるほど、中の眼鏡はひしゃげて折れている。

 イェリナは深く深呼吸をした。二回、呼吸を繰り返し、眼鏡を包む布をそっと剥がしてゆく。

 はじめからこうなることは、覚悟していた。けれど、覚悟していたからといってショックが和らぐわけでもない。

 途中、何度もこのまま寮に戻って眼鏡さまの墓でも作り、壊れた姿を確認しないまま安らかに眠ってもらおうか、とさえ思った。そう思う一方で、眼鏡が負った傷を、被害状況を正確に把握しなければ、という強い信念のようなものもあった。


(ああ……わたしの、眼鏡さま)


 そうして出てきた眼鏡は、ものの見事にブリッジが折れ、テンプルとレンズ枠リムを繋ぐヨロイも壊れていた。レンズに至ってはヒビが入り、あと少しでも衝撃を加えれば割れてこぼれそうであった。

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