第20話 ロベリア様の婚約者

 客間サロンあるじであるアドレーの返事を待たずに、ノックのぬしが扉を押し開けた。

 扉の向こうからあらわれたのは、オレンジ色の髪を肩に垂らした勝気な顔の令嬢だった。以前は髪に隠れて見えなかった襟止めブローチが、今日ははっきり見えている。


(あの方は……ロベリア様の後ろに控えていたリリィ様。リリィという名の方は学院アカデミーに五名おられるけれど、百合と盾の襟止めブローチを身につけられる立場におられるのは、おひとりだけ)


 かつて頭に詰め込んだ知識によって、イェリナは毅然とした態度で訪問者の名前を呼んだ。


「リリィ・ティーガル伯爵令嬢、どのようなご用件ですか?」


 リリィは対応に出たイェリナに視線を送ることはなかった。イェリナだけでなく、部屋の中にいる誰をも見ていなかった。まるで、取り合う必要はない、と教え込まれたかのように。

 作り物だとはっきりわかる微笑みを浮かべたリリィは、唖然とするイェリナたちに告げた。


「ロベリア・マルタン侯爵令嬢様の命により参上いたしました。客間サロン棟最上階の部屋までご足労願いたく存じます。ロベリア様は、星祭りのダンスパートナーの件について協議いたしましょう、とおおせです」

「ロベリア様がイェリナ様をお呼びなのですね、ティーガル伯爵令嬢様」


 サラティアが、その場に引き止めようとするアドレーの腕を振り払い、イェリナとリリィの間に立つ。にこりと微笑んだサラティアの目は、冬の湖のように凍てついて鋭い。

 ロベリアが望む星祭りのダンスパートナーの話というのは、セドリックを諦めろ、という話だろう。先週までのイェリナなら、迷わず眼鏡を選んでいたと断言できる。けれど。けれど、今は……。

 イェリナの顔が、途端に色を失くしてゆく。もしかしたら自分は、とっくの昔に正気を失っていたのかもしれない。

 さよなら、理性。眼鏡を奪われたことで理性どころか正気が飛んで、イェリナは今や無敵のひとだった。

 イェリナは壁になってくれているサラティアの肩に、そっと手を置いた。傍らのアドレーには、にこりと微笑む。


「サラティア様、アドレー様。これは、わたしの問題です」

「なんの後ろ盾もない田舎令嬢にしては、懸命な判断です。それでは、参りましょう」


 こうしてイェリナは、背後で狼狽えながら「駄目よ、イェリナ様!」と呼ぶサラティアの悲痛な声を聴きながら、ロベリアの使者であるリリィ・ティーガル伯爵令嬢の後に続いて客間サロンを出たのであった。




 客間サロン棟最上階へ伸びる階段を、イェリナは少し懐かしさを感じながらリリィの背に続いて登ってゆく。

 以前、この階段を登ったときはセドリックが一緒だった。あのときは隣を行く幻覚眼鏡に心を奪われて、惚けていたのだけれど。

 階段を登るイェリナの心は凪いでいた。頭だけが冷静で、心はどこかに取り残されているかのよう。

 イェリナは前をゆくリリィのピンと張った肩をぼんやり見つめた。目の前を行く硬い踵ヒールが石造りの階段をカツカツと叩く音は規則的で、息の乱れもない。


(百合と盾の襟止めブローチ。百合と盾、そしてティーガル伯爵家の御令嬢)


 ティーガル伯爵家。交差する二本の剣と盾が意匠された紋章であらわされるこの家は、多くの騎士を輩出している家系である。

 その中でも百合と盾の意匠を与えられた令嬢は特別だ。王太子妃の護衛プリンセスガードであるのだから。

 イェリナは汗でじっとり湿った手のひらを握りしめ、先を行くリリィの背中に話しかけた。


「あの……ティーガル伯爵令嬢様は、ロベリア様の護衛なのですよね?」

「どうしてそう思うの?」


 リリィが振り返りもせず冷たく言った。冷徹な雰囲気に気圧されながらも、イェリナはお腹に力を入れて背筋を伸ばす。


「ティーガル伯爵家の中でも、百合と盾で表される印を持つ令嬢は、代々、王太子妃の護衛を担っていますよね」

「……あなた、それをどこで……」


 リリィが急に立ち止まり、オレンジ色の豊かな髪をひるがえして振り返った。その目は信じられないものでも見たかのように、大きく見開かれていた。イェリナは、驚愕で揺れる若草色の目をまっすぐ見つめた。


「貴族名鑑です」

「今どき、あの分厚い貴族名鑑を読んで記憶する人間など、宮廷人の限られた方しかいないのに。……そう、あなた、ロベリア様がどなたと婚約しているのかわかってしまったのね」

「ロベリア様の婚約者様は、王太子殿下ですね」


 重すぎる事実に耐え切れず、黙ってうつむくイェリナに、リリィが淡々と告げる。


「サラティア様から聞いているでしょう? あなた、星祭りに代理人を送り込んでくるような婚約者と結ばれたいと思う? 星祭りだけじゃない。婚約してからロベリア様は、一度ものお方とダンスをしたことがないの。すべて代理人任せよ」

「よりにもよって、王国の王太子が冷たい婚約をよしとしているなんて……」


 イェリナは息を呑み、眉を寄せて目を閉じた。吐き出した息が階段に響くのを聞きながら、ロベリアが抱える虚しさや寂しさを思う。


「安心しなさい。あなたが喉から手が出るほど欲しがっていた星祭りの単位は、必ずあなたに与えられるわ。それがロベリア様とカーライル様が結んだ誓約です」

「だからセドリックは……」

「あなたは単位が欲しいのでしょう? それならロベリア様とカーライル様の間で交わされた誓約など、気にする必要はありません。もっとも、誓約の要は、あなたから奪った宝物。あなたは大事な大事な宝物を壊さない限り、カーライル様を取り戻せないのだけれど」


 言葉を返せないでいるイェリナに、リリィが表情を失くした顔でふるふると首を振る。


「これはあなたには解決できない問題よ。……王太子殿下に進言できる権利を持つ私ですら無理だった。殿下は仕事を愛してる。誰もロベリア様の心を救えない。諦めなさい」


 リリィは一瞬、その顔に悔恨の念を浮かべた。けれど、歪んだ表情を隠すかのようにイェリナに背を向けて、客間サロン棟の最上階へ向けて階段を登りはじめる。

 イェリナは少しばかり侘しさを感じるリリィの背中を見つめながら、同じように階段を登っていった。




「ご招待いただきありがとう存じます、マルタン侯爵令嬢様」


 客間サロン棟最上階の部屋にひとり通されたイェリナは、緊張でぎこちないお辞儀カーテシーをロベリアに向けて披露した。

 挨拶しながらイェリナが真っ先に確認したのはセドリックの姿だ。セドリックはロベリアが座る長椅子ソファの後ろで従者のように立っている。

 その青褪めた顔に、眼鏡はない。幻覚眼鏡はもう見えない。

 眼鏡がなくなってしまったのに、イェリナはセドリックから目が離せなかった。盗み見ているだけなのに、呼吸がおかしくなって息苦しい。

 だからイェリナは、セドリックを見つめてしまう自分の視線をどうにか引き剥がした。そうして黒孔雀の尾羽でこしらえたおうぎで優雅に扇ぐロベリアをまっすぐ見据える。


「物知らずな田舎令嬢でも、まともな挨拶ができるのね。サラティアにでも教えてもらったのかしら? それともアドレーに? ふふ、あなた、高位貴族をたぶらかすのがお上手ですものね」


 イェリナはロベリアのあからさまな挑発には乗らない。ただ黙って微笑んで、ロベリアの出方を見守った。


「あなた、用件はわかっているわよね。セドリック様を譲って欲しいの。わかるでしょ?」


 ロベリアの高貴なる華奢な手が、後方に立つセドリックへ伸びる。伸びた白い手を迎えるようにセドリックが握りしめ、指を絡める。紫色の視線と黄緑色の視線が合わさり、熱く溶けあってゆく。

 けれど、冷静で凪いだ心のイェリナが、その光景を間に受けて心を激しく揺さぶるようなことはない。

 だってイェリナは知っている。

 セドリックの目がどれほど甘くまたたくのかを。あの美しい黄緑色イエローグリーンライトがイェリナを映してとろける様を。

 セドリックと過ごした日々を思い出すと、イェリナの目に涙が滲んだ。物理眼鏡が奪われてから、涙腺が弱くなっていけない。

 滲んだ涙を指で拭うイェリナを見てロベリアがどう思ったのか。黒孔雀のおうぎをパチリと閉じたロベリアが、高圧的な笑みを浮かべてイェリナに迫った。


「今日の夕刻の鐘が鳴るまでに舞踏会ダンスパーティの参加申請を出さないと星祭りに参加できないのは知っているでしょう? だから早く頷きなさい。セドリック様をこの私に譲る、と」


 イェリナの眼鏡を持ち出して脅せば話は早いのに、真っ向から要求を突きつけてくるのは、高位貴族としての尊厳プライドがあるからだろうか。それとも、高位貴族の名を振りかざして威圧すれば、誰もがひれ伏すと思っている傲慢さゆえか。

 イェリナはロベリアの真意がどこにあるのか探るように、慎重深く観察する。

 焦っているのか、それとも無理を通そうとする自身に心を痛めているのか。紫色の目がロベリアの迷いをあらわすかのように揺れていた。


「いいから諦めて、私に譲りなさい」


 セドリックと出会ってから、イェリナはずっと誰も彼もに「諦めろ」と言われ続けていた。


(諦めろと言わなかったのは、セドリックだけね)


 イェリナ自身でさえ、諦めかけたのに。

 深く深く息を吐く。そうして腰を立てて背筋を伸ばす。お腹に力を入れて、顎を引く。最後の仕上げにまっすぐ前を向いた。イェリナは、今ここにはいないサラティアの振る舞いを真似てロベリアに立ち向かう。


「失礼ですが、セドリックは譲渡できるような物ではないと思うのですが」

「あなた、誰を相手に口を聞いていると思っているの? 私はロベリア・マルタン。この国に五家門しか存在しない高貴なる侯爵家の娘よ」


 大声を出さずとも威厳に満ちた鋭い物言いは、お腹に力を入れて備えていたイェリナでさえ、喉の奥で悲鳴を上げそうなほど。

 この国の貴族は建国以来、一大公、三公爵、五侯爵、七伯爵と決まっている。国境を守る辺境伯と、功績を上げれば平民からの叙爵もあり得る子爵、男爵は、その限りではない。選ばれしものであるという自覚がロベリアの言葉を鋭く強いものにする。


「黙って私の言うことを聞きなさい、田舎男爵令嬢風情が」

「世界はマルタン侯爵令嬢様を中心に回っているわけではないのでは?」

「本ッ当に生意気ね。あなたは単位が取れればいいんでしょ? 私のパートナーを譲って差し上げるから、お譲りなさい」


(いやいやいやいや、あなたの婚約者、王太子殿下ですよね!? 代理人とはいえ、パートナーを変わるのはマズいのでは!?)


 無遠慮に突っ込みそうになったイェリナは、グッと我慢した。お腹に力を込めて、言葉を呑む。

 ロベリアが王太子殿下と婚約していることは、おおやけにはされていない。王太子の婚約式が開かれた、という情報は一度も報道されていない。

 黙ったイェリナが逡巡していると思ったのだろうか。ロベリアがダメ押しするかのように甘い誘いの言葉を紡いでゆく。


「別にね、私は婚約者となど踊らなくてもいいの。意地を張って困るのはあなただけ。あなた、星祭りの単位が欲しいのでしょう?」


 この客間サロンで迎えられたときとは打って変わって、柔らかく慈悲深いロベリアの声音。イェリナを見つめる視線にだって、優しい色が滲んでいる。これが高位貴族のやり方か。

 もしもこれが今日ではなく、昨日だったら。あるいは、眼鏡を奪われた直後だったら。

 混乱して取り乱し、まともな思考力もなかったイェリナは素直に頷いていただろう。なんて慈悲深き女神様だろう、とひざまずいていたかもしれない。

 けれど。

 けれどイェリナは、もう決めていた。

 リリィに連れられて階下の客間サロンを出たときに。いや、百合と盾の襟止めブローチをつけたリリィがイェリナを訪ねてきたときに。

 いや、それよりももっと前から。


「……お断りしたら、どうなるのですか?」


 どうなるのか、なんて、もうわかっている。わかりきっている。だからイェリナは、あえて口にした。

 心臓がとてつもなく早い。最悪の未来を予測してもろくなった涙腺から、涙がじわりと滲み出る。けれど瞬きひとつせずに、イェリナはロベリアの言葉を待った。問われたロベリアが、ふ、と勝ち誇ったように笑う。


「あなた、コレがどうなってもよろしいの?」


 ロベリアが制服のポケットから、布に包まれた小物をひとつ取り出した。

 ロベリアが持つあの布には見覚えしかない。毎夜毎晩、手に取っていたのだから見間違えるはずがない。少しくたびれて柔らかくなった布に包まれているのは、イェリナの眼鏡だ。


「あなたの大事なものなのでしょう?」


 ロベリアは艶やかな唇でニンマリと弧を描き、イェリナの眼鏡を力任せにギリギリと強く握りしめた。


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