第19話 賢く立ち回らなければ

 勝ち誇ったかのようにわらうロベリアに、イェリナは奥歯をギリリと噛んでしのぐ。

 本当は今すぐ、眼鏡が無事なのか叫んで確認したかった。

 イェリナが無様に泣き喚かなかったのは、ロベリアを支えるセドリックが目を細め、苦虫を噛み潰したような顔をしていたからだ。


「金庫を開けて中身を見たんですか」

「見たわ。セドリック様に解錠してもらって開けたわよ。アレがあなたの魂ほど大切なものなの? あんなものが?」

「嘘。開けたんですか、セドリック!」


 イェリナは思わず叫んでいた。

 眼鏡をしまっていた金庫は、学院アカデミー製の特別な金庫だ。ちょっとやそっとの魔法で解錠できるものではない。解錠するためには、鍵として設定した数字が必要だ。

 設定した鍵は、眼鏡をあらわす数字だ。眼鏡の存在を知らない人間が解けるはずがない、のに。それをセドリックは、理解した。理解して、解錠したのだ。

 イェリナの身体が震えた。心臓の裏側が燃えるように熱い。けれど手足の先は冷たくて、頭の奥もグラグラする。

 嬉しい、嬉しい! けれど、ロベリアの手に渡ってしまった眼鏡が心配すぎて心臓が痛い。


「イェリナ・バーゼル男爵令嬢、あとで使いを送るわ。金庫の中身を返して欲しかったら、賢く立ち回ることね」


 ロベリアは愉悦で染まった淑女の笑みを披露して、セドリックを伴い学舎へと向かう。

 その背中を静かに見送るイェリナの目尻から、ひと筋の涙がこぼれ落ちた。イェリナの心は妙に晴れやかで軽く、頬を伝う小さな涙は朝露のように輝いていた。

 けれど涙はすぐに地に落ちて、砂と混じって消えてしまった。


 §‡§‡§


「セオ、どうしてイェリナ嬢は我がに帰って来ないのかな? 今はビフロス伯爵邸に世話になっているそうじゃないか」


 大公家の仕事の合間を縫って、ジョシュは可愛い弟を訪ねていた。

 セドリックが連れてきたイェリナが、最初の一日目以降、まったく姿を見せずカーライル大公邸に帰ってきていないからだ。

 セドリックは、客間サロン棟最上階であるカーライル家専用部屋ルームで、長椅子ソファの上で仰向けになって寝転んでいた。

 横目でチラリとジョシュの姿を確認したセドリックが、のそりと起き上がる。うつむいた額はうっすら汗で湿り気を帯びていた。

 明らかに具合の悪そうな弟に、けれどもジョシュは、セドリックの体調よりも優先すべきことがある、とでも言うかのように、にこやかに問うた。


「セオ、イェリナ嬢は? 透視魔法はどうした?」

「……それを確認するために、わざわざ学院アカデミーへ?」


 紗幕カーテンのように垂れ下がる前髪の隙間から、セドリックの鋭い視線が飛んで来た。

 そんな目をするなら、どうして手元に置いて大事にしていないのか。ジョシュは呆れたように息を荒く吐き、セドリックの対面に足を組んで座った。

 

「それ以外になにがある? 彼女は我々にとって重要なお姫様かもしれないんだ」

「……兄上。『かもしれない』ではなく、確実に『そう』ですよ。……ィっ、……彼女は彼女から話を聞きました。メガネの話を」


 そこまで話したセドリックが、顔を顰めて口をつぐんだ。


「……セオ? おい、セドリック……どうした」


 ジョシュは、セドリックがイェリナの名前を口にしようとしてできなかった違和感に即座に気づいた。ジョシュはすぐ様、目を凝らしてセドリックの全身を走査魔法スキャニングで視る。

 ジョシュが学院アカデミー時代に研究していたのは、魔法理論と方式だ。魔法がどのように構築展開され、影響を与えるのか。効率よく魔力を運用するにはどうすればよいのか。それを調べるために魔力の流れを視るための魔法を習得した経緯がある。


「魔力が濁っている……不利な条件で誓約魔法を結んだな? ただでさえ呪いで抵抗値が下がっているというのに……。これじゃあ、魔法を使うどころじゃない。……ここまで束縛の強い誓約魔法となると……マルタン家……ロベリア・マルタン嬢か?」


 誓約魔法によって多くを語れないセドリックが、苦痛に顔を歪めながら無言で頷く。

 普通、誓約魔法は重要な取引や契約を結ぶときに交わされる。誓約の前提となる条件が有効である限り魔法に縛られ、誓約の履行を強制されてしまう。

 中でも金融家であるマルタン家が使う誓約魔法は特別で、ロベリアは歴代随一の誓約魔法を使うという。誓約時の条件を満たし続けているのなら、半永久的に誓約魔法の影響を受ける。


「なんてことだ……さすがに僕でもマルタン家、それもロベリア嬢の誓約魔法はすぐに解けないぞ」

「いいんです、兄上。無理に解いて誓約条件の対象物を消失されるよりは」

「まあ、状況はわかった。セオがイェリナ嬢のために誓約魔法を受けたこともね。……辛かったろう、減衰してゆく魔力で誓約魔法に抗うのは」


 セドリックが肯定するように視線だけで頷いた。

 助けを求めようとしない頑固なところは、父であるブレンダンに似たのか。あるいは、まだ権謀術数が蔓延る貴族社会に染まりきっていない学生という、若く純粋な魂がそうさせたのか。

 どちらにせよ、イェリナの名前を呼ぶことや、誓約内容について話すだけでなく、意思表示することでさえ縛られている、というのは、学生が扱う誓約を超えている。もはや呪いの域だ。


(また呪いか。つくづくカーライル家の人間は呪いと縁が深い)


 ジョシュは苦痛に喘ぐセドリックに柔らかく微笑んだ。いや、微笑んでいるのは口元だけで、セドリックに似た黄緑色の目はまったく笑ってなどいない。


「セオ、いいかい。正攻法で真正面から問題に取り組むのは美徳だ。けれど僕らは貴族だ。僕らを支える者たちが、領民たちがいる。彼らのために僕らは賢く立ち回らなければならない」


 そう言うと、ジョシュは上着の懐から、美しく精巧な細工が施された懐中時計を取り出した。そうしてカチカチと規則正しく時を刻んでいることを確認してから、その時計をセドリックに差し出す。


「兄上、これは……?」

「僕のお古で悪いけど、これを持っていなさい。本来は簡単な呪いを抑えたり退けるものだけれど……セオにかけられた誓約魔法は呪いに近いものだから、一回か二回は誓約を無視した行動が取れるだろう」

「これは……魔力を流せばいいんですね」


 セドリックはそう言うと渡された懐中時計を手で包み、魔法を起動するために魔力を流した。すると、懐中時計が淡く光を放つ。


「セオ!? なにしてるんだ、回数制限があると言っただろう!」

「……兄上、イェリナは……イェリナは僕の……僕らの祝福です」


 と。告げるセドリックの目が、頬が、くすぐったくなるような柔らかさと熱さであふれていた。ようやくまともに名前が呼べることが嬉しいのだ、と言うように。

 こんなセドリックは、はじめて見る。思わずまじまじと見つめてしまったジョシュの視線にセドリックが気づいた。ゴホン、と照れ隠しの咳払いをひとつ。


「……アドレーもイェリナを認め、彼女の下につきました」


 セドリックが貴族子息らしく背筋を伸ばす。


「必ずイェリナを連れて帰ります」


 その言葉は、今日この場で聞いたどの言葉よりも力強く響いていた。


「わかった。セオ、信じているよ」


 ジョシュはそう告げると立ち上がり、去り際にセドリックの肩をひとつ叩いてから客間サロンを立ち去った。

 イェリナのために無茶をするセドリックの姿に、弟の成長を感じると同時に、ジョシュはほんの少しだけ寂しさを覚えていた。


 §‡§‡§


「聞いてください、セドリックの顔から眼鏡が消えてなくなっていたんです!」


 その日の放課後。

 最終授業が終わった途端、サラティアに連れられて客間サロン棟を訪れたイェリナは、上から二番目の部屋に入るなりそう叫んだ。

 いつ戻ったのか。先に長椅子ソファに座って待っていたアドレーが、当惑した顔でイェリナを凝視する。


「あー……お嬢さん? 自分がなにを言っているのかわかっているのかな?」

「眼鏡……眼鏡です。眼鏡ですよ? 今朝のセドリックの顔から、眼鏡がなくなっていたんです! 事件も事件、大事件です!」

「……イェリナ様、それは……大事件、なのですか?」


 キョトンとした顔でサラティアが小首を傾げる。その様子にイェリナは信じられないものを見るような形相で詰め寄った。


「なにをおっしゃっているの、サラティア様ッ! あんッなにも完璧な形でセドリックの顔に顕現しておられた眼鏡さまがッ! 視えなくなっていたんですよ!? 事件以外のなにものでもありません!」

「え、えぇ……?」


 興奮しきって頬が赤く上気しているイェリナに、至近距離で熱く語られた内容に戸惑うサラティア。アドレーが二人の間に割って入り、適度な距離に引き離す。


「……お嬢さん、ちょっといいかな」

「なんでしょう、アドレー様」


 今まで幻視眼鏡を呼び起こさなければ出てこなかった名前が、今はすらりと突いて出た。けれどイェリナの疑念は別のところにあった。


「……あら? アドレー様の縁なしリムレス眼鏡も視えないわ」

「いやいやいやいや、俺の顔にも視えてたの!? じゃなくって……お嬢さん。俺やセドリックがメガネを装着していた前提で話しているがね、俺もセドリックもメガネなるものを身につけたことはないし、見たことも手にしたこともないからね!?」

「あっ……!」

「イェリナ様、アドレー……どういうことですの?」


 イェリナは困惑するサラティアに幻覚眼鏡とセドリックのことをすべて話した。それを聞いたサラティアは、なにかを悟った乙女のように喉を鳴らした。


「わかりました。つまり、イェリナ様とカーライル様の出会いは運命、ということですわね」

「運命だなんてことあるわけないじゃないですか。ところでサラティア様、星祭りのわたしのダンスパートナーなのですが、どなたかご紹介いただくことはできますか?」


 イェリナは努めて明るく言ったつもりだった。喉は余計に震えることなく、声だって上擦っていない。なんでもないことのようにサラリと告げた。そのはずだった。


「イェリナ様っ!? なんてことを……!」

「お嬢さん。あ、諦めるのか? いいか、お嬢さん。よく考えてくれ。セドリックはなにも悪くない。悪いのは俺だ。俺の独りよがりな考えがすべての元凶だ。お嬢さん、正式に謝罪をしさせて欲しい。セドリックを取り戻す協力も。だからお嬢さんが諦める必要なんて、どこにもないんだ」


 追いすがるアドレーの姿に、イェリナは胸の内で少しだけ笑ってしまった。


(アドレー様、はじめは諦めろっておっしゃっていたのに)


 きっと、アドレーはもうイェリナの味方だ。今ならアドレーが星祭りのために保証人と推薦人になってくれるであろうことも。それでもイェリナは肯首した。

 星祭りまであと二日。

 眼鏡のために学院アカデミーへ進学し、眼鏡の導きでセドリックと出会った。けれど、必須単位を取るダンスパートナーは、別にセドリックである必要はないのだ。

 イェリナは、いつの間にかギリリと奥歯を噛み締めながら言った。


「わたしは将来作られるであろうすべての眼鏡のために、今ここで単位を落とすわけにはいかないのです」

「だからってセドリックを諦めるのか? あいつは少しも諦めてないぞ!」


 途端、イェリナの胸の内がカッと燃え上がる。火薬に火がついたように、あるいは爆発したかのように感情が溢れ出す。


「わたしだって諦めたくない! でも、でも……わたしの眼鏡はマルタン侯爵令嬢様の手の内なんですよ!? この世唯一の眼鏡が壊されでもしたら……! こわ、されでも、したら……?」


 ワナワナと震える指と膝。込み上げる感情が呼吸に追いつかない。恐ろしいことを想像してしまい、どうしようもなく胸が苦しい。

 イェリナは頑なに首を振った。ふるふると横へ。奥歯を噛み締めながら、絞り出すように思いの丈を吐き出してゆく。


「わたしが賢く立ち回らないと……今日中に申請しないと星祭に参加もできない。単位を取れない。……もとより、わたしは単位狙いだったんです。セドリックは……セドリックのことは……」


 けれど、どうしても。

 セドリックのことなど、どうにも思っていない、利用しているだけなのだ、とだけは。セドリックと踊ることは諦めるのだ、とは言えなかった。

 噛み締める奥歯が痛い。鼻の奥がツンとする。無意識に握りしめた拳に爪が食い込んでいた。静まり返る部屋に、イェリナの荒い呼吸の音だけが響いている。

 アドレーが躊躇いがちに、なにか言おうと口を開きかけた、そのときだった。客間サロンの扉が四回打ち鳴らされて扉が開いた。


「失礼いたします、イェリナ・バーゼル男爵令嬢はこちらでよろしくて?」

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