第2話 眼鏡なき世界で生きてきた
イェリナ・バーゼル男爵令嬢は、生まれる前から狂おしいほど眼鏡を愛している。
前世のイェリナが最後に見たものは、それはそれは色気漂う美しい眼鏡(をかけたモデル)の広告だ。
前世の死因、それは眼鏡だ。
死因となった眼鏡は、敬愛する眼鏡デザイナーが手がけた至高の一品だったからよく覚えている。
滑らかな曲線を描くフレームと艶めいた
実物ではなく広告であったけれど、ただ一度きり見かけた最高の眼鏡。それに見惚れてふらつき、事故にあった。
即死だったのか、そうでなかったのかは、わからない。気がつけばこの世界に転生していて、眼鏡の存在を思い出してしまったイェリナは、それからずっとずっと眼鏡を追い求めて生きてきた。
だから、廊下の真ん中で冷たい視線や淑女の非難めいた悲鳴を浴びたとしても、全然ちっともこれっぽっちも気にしていなかった。
(飢えすぎてとうとう眼鏡の幻覚を視るなんて。でも、消えない
あの眼鏡はいったい、なんなのだろう。
だって、アレは幻覚だ。非実在眼鏡だ。この世に存在しない幻だ。
実在眼鏡であったなら、レンズを通して視えたセドリックの輪郭や景色が多少は歪むものなのに、それがなかったから。
眼鏡を求めすぎて頭がおかしくなったのか。それとも、自分で自分に幻覚魔法でもかけてしまったのか。
嘘でしょ、もしかして理性は随分前から仕事を放棄していたのかしら。どちらにしたって正気じゃないもの。
でも眼鏡が、幻覚でも眼鏡が視えるのだ。愛しい愛しい眼鏡が、セドリックに会えば確かに視える。
(ああ、お父様、お母様。それから兄様。わたしは今世でも最後まで眼鏡への愛を貫き通すことに決めました。必ずや星祭りの単位を取得して進級単位を取得してみせます)
セドリックの顔面に幻視した美しく洗練された眼鏡フレーム。
久しぶりに見た眼鏡はとても鮮やかに目蓋の裏に焼き付いて、魂に刻まれた愛の起源を呼び覚ましていた。
イェリナと眼鏡の運命は、大学で知り合った友人に誘われて行った眼鏡ショップからはじまった。
メタルグリーンの細身の眼鏡をかけた友人に連れられて、はじめて訪れた眼鏡ショップ。その時はまだ、ズラリと並ぶ眼鏡の数々を眺めても、眼鏡に興味を抱くことはなかった。
友人がある眼鏡をひとつ手に取り眼鏡のテンプルを持って、ぐにゃりと曲げるまでは。
「なにその眼鏡、めちゃくちゃ曲がる! 嘘でしょ、軽い! いいのこれ、金属としていいの!?」
「ふふ。いいんだよ、そういう素材なの。握っても踏んでも壊れないんだよ」
「す、凄い……。あれ、こっちの眼鏡、サングラスって書いてある。でも、色、ないに等しいよ?」
「あ、それはね。調光レンズっていって、ほら」
友人がレンズ色の薄い眼鏡を日当たりのよい場所へ持ってゆくと、途端にレンズの色が濃く暗く変化した。
「うわっ、凄い! なにこれ凄い!」
「ふふ、ふふふ。よかったぁ、眼鏡ショップなんて退屈にさせちゃうかと思ってた」
「退屈!? 全然退屈しないよ面白いよ眼鏡凄いよ! はぁー、知らなかった。わたし、知らなかったよ、眼鏡凄い!」
それからは、オタク気質なところもあってどっぷりハマった。
眼鏡が持つ洗練された美しさ。様々な素材、深い歴史。知れば知るほど深みにハマる。まるで底なし沼にでも落ちたかのように。
「わたし、専攻変える。眼鏡を開発したい。新素材の研究をする!」
加速する眼鏡への愛はとどまるところを知らず、進路を変えさせ、生活の中には眼鏡の存在が溶け込んでいった。
眼鏡をかけていないひとの顔と名前は興味が持てず、覚える気のない情報へと分類されて、結局覚える努力を放棄した。
だから推しはすべて眼鏡をかけている人——眼鏡人だ。
二次元、三次元など関係ない。眼鏡人であれば、次元なんてどうでもよかった。
眼鏡、眼鏡、眼鏡を! もっと眼鏡を!
実物を、デザインを、イラストを、漫画を、C Gを、ゲームを、グッズを、書籍を……とにかく眼鏡に関するものならなんでも集めた。
そうやってイェリナの眼鏡に対する想いは魂に刻まれ、前世の記憶が戻ったイェリナは当たり前のように眼鏡を探した。
(ここが地球じゃないことはわかってる。でも、眼鏡のない世界なんてあるはずがない!)
イェリナは自分が転生者であることよりも「異世界ならではの眼鏡って、あるのかしら?」と息をするように眼鏡のことを考えた。
ところが、だ。
「メガ……ネ? それは一体、なんなんだ?」
「イェリナ、そのメガネというのは魔法道具なのか? アクセサリーなのか? 工芸品なのか?」
「視力矯正の道具? あなた、目の調子が悪いの? それなら、今から医療魔法士のところへ行きましょう、魔法で治してくれるから。ね?」
と、今世の家族に聞いてみても、こんな調子で取り合ってもらえない。それどころか、産まれ直したこの世界には、眼鏡の概念自体が存在しないようだった。
それはすべて、魔法のせい。
イェリナが生まれた世界には魔法があり、生活に根付いていた。
職業や生活、医療に特化した魔法が多く、ファンタジー小説に登場するような万能な魔法使いはほとんどいない。
攻撃系の魔法は免許制で、騎士や軍人、警察や警備などの一部の人間にしか使えないという制約があるから、街中で魔法による事故や事件は滅多に起きない。
今世の魔法は、前世でいうところの便利な家電やスマートフォンのような扱いだった。
「嘘でしょ……もしかしてここ、眼鏡が存在しない? そんな世界って、あるの!?」
家族への聞き取り調査で出した結論に納得できなかったイェリナは、バーゼル男爵家に出入りする商人や職人、騎士たちにも同じように聞いて回った。
「お嬢さま、その……メ、ガネ? とやらではなく、魔法を使って眩しさを軽減するのがよいのではないでしょうか。その……顔に装着するような魔法道具ですと、汗でお化粧なども崩れてしまいますし……」
「うーん、ワシは確かに細かい作業をしますけども、
「ははは、
始終こんな調子で、眼鏡の概念すらなく、たとえ眼鏡があっても受け入れられそうにないことを理解させられてしまっただけ。
「信じられない……魔法道具としてすら存在しないなんて、そんなこと、ある?」
けれど、日常に溶け込んだ魔法という万能な手段があるのなら、眼鏡が発明されなかった理由は、わからなくもない。
「魔法で視力関係の問題を根こそぎ解決できるなら、仕方がないけど眼鏡は発明されないわ……」
と、イェリナは納得してしまったのだ。けれど、納得したからといって諦められるものではない。
イェリナの眼鏡に対する愛は重いのだ。
眼鏡のない世界なんて、そんなの、堪えられない。
だから、作った。イェリナは愛する眼鏡を自力で作った。
眼鏡をかけていない
集めた素材でフレームやガラスレンズを作るときは、職人たちにアドバイスをもらいながら、指先が傷つくことも恐れずに頑張った。お世話になった工房の親方の顔と名前は、最後まであやふやだったけれど。
「お嬢さま……こんなものを作って、なんになるんです?」
協力を依頼した商人も職人も、皆、イェリナの挑戦を奇怪なものでも見るような目で眺めていた。家族でさえも、そうだった。
誹謗中傷されなかったのは、イェリナがバーゼル男爵家の娘だったからだろう。やっぱり領主の娘っていう立場は、領地内限定だけど、強い。
何度も何度も失敗を繰り返しながらもイェリナは諦めなかった。やがてイェリナの執念は眼鏡とは別の形で身を結ぶことになる。
「イェリナ、メガネとやらのお陰でバーゼル領の財政状況に希望が見えて来たぞ!」
眼鏡を求めるイェリナによって、各地から金属加工技術に関する技術が集まり、高額な取引をせずとも自領の職人だけで農機具開発を行えるようになったのだ。
数年後には、鉱物加工技術の最先端を行くビフロス領製の製品にも引けを取らないくらい優れた農機具を開発できるようになるだろう。
それだけでなく、商人たちと交渉することで金属素材を割安で融通してもらえるようにもなったし、新たな産業としてガラス製品の開発も進んだ。
お陰で、赤字と黒字の境界を行ったり来たりしていたバーゼル領の財政状況は、わずかながらも上向いた。
「職人達も商人達も頑張ってくれているよ。まあ、財政がよくなったとは言っても、王都にタウンハウスを持つまでには至らないがな。……なあ、イェリナ。お前はそれだけのことをしたんだ。お前が作ろうと躍起になっているメガネとやらは、本当に必要なものなのか?」
「わたしが活きるために必要なのよ、兄様。だから、これだけは譲れないの」
領地が豊かになったとしても、活気付いてくれたとしても、失敗は失敗だ。
だって、眼鏡は作れなかったのだから。
「お嬢さま、魔法は使わないので? 魔法なら一発ですよ」
そんなことを言われたこともあった。けれどイェリナは魔法を使えと言われるたびに、頑なに首を振った。縦ではなく、横へと。
イェリナはどうしても魔法を使わず眼鏡を作りたかったのだ。
(だって魔法は眼鏡の存在意義を奪ったのよ? そんなものの力を借りるだなんて、できない)
研究に研究を重ね、結局たどり着いたのは魔法と錬金術だった。
眼鏡の存在意義を無きものにした魔法。そして、魔法の一種である錬金術。忌むべきものだと感情的に嫌悪しながらも、冷静な理性がただの手段だと訴える。
感情と理性の攻防は、そう長くは続かなかった。失敗続きで眼鏡に飢えていたイェリナは、もう、なりふりなど構っていられなかったから。
「お父様、お母様。私、
「あなた、なにを言っているの!?」
「我が家の財政状況を知ってのことか!?」
イェリナの突然の宣言に、父も母もはじめは慌てふためいた。けれどイェリナに助け舟を出したのは兄である。
「父上、イェリナのお陰で我らが領の財政は改善傾向にありますよ。母上、イェリナが断定系で宣言したときは、もうそうするって決めているときだと知っているでしょう」
「兄様……ありがとう」
「お前のお陰で領地も男爵家も余裕ができた。正直、今でもメガネとやらはよくわからないが……そのお礼だよ。けれど、大金は出せない。……わかっているよな?」
「ええ。学費が免除となる特待生として入学できなかったら、諦めるわ」
こうしてイェリナは特待生として
眼鏡への愛を証明するために邁進し、眼鏡をかけていないひとには興味を持てずに顔と名前を覚えられないのは相変わらずだった。
そんな日々の中。
「……できた! ついにできたわ、わたしの眼鏡!」
この世でたったひとつの、イェリナの宝物。
けれどイェリナは、眼鏡がひとつできたくらいで満足するような眼鏡の愛し方をしていない。
まだ足りない、まだまだ足りない! たった一本の眼鏡だけで、満足していいはずがないのである。
イェリナが心底欲しいと望むのは、前世で通っていた眼鏡ショップ。棚にズラリと並ぶ眼鏡に囲まれた楽園のような光景だ。
(あの光景を、夢のような空間をこの世界でも……!)
そういうわけで、眼鏡なき世界における眼鏡の普及と眼鏡制作の技術を向上させるため、貪欲なるイェリナは王立ソフィア・モリス学芸学術院——通称、
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