わたしにだけ視える眼鏡がイケメンすぎてヤバい。
七緒ナナオ
第1章 眼鏡であれば実在問わず
第1話 なんて素敵な眼鏡さま
「嘘でしょ、眼鏡……眼鏡だわ……!」
イェリナは思わず歓喜の声を上げていた。上擦って震えた声が
(眼鏡だ! あのひと、眼鏡をかけている!)
思うが早いか、一歩踏み出した足がそのまま駆け足となる。乱れる髪も
眼鏡を愛するイェリナが、眼鏡が存在しない世界に転生してからずっとずっと、諦めきれず追い求めてきたものがある。
それが眼鏡だ。その眼鏡が、今、ここに。
心臓が燃える、理性も燃える。イェリナは今世で身につけた貴族令嬢としての礼儀と作法を捨て去って、本能が
「め、眼鏡さま……っ!」
「……君は、誰?」
眼鏡さまは、無礼な振る舞いをしてしまったイェリナを咎めることなく、とろりと溶けたような
その目の色と声の柔らかさにハッとして、イェリナの気が眼鏡から逸れた。
神秘的に輝く黄緑色に心を奪われた途端、彼の美しく整った顔から眼鏡が消えた。すぅっと空気に溶けるように。
「あっ、ダメ。お願い、お願い……消えないで」
イェリナの願いが、思わず口からこぼれ落ちた。祈るように、あるいは
「落ち着いて、僕はここにいる。幻覚のように消えたりしない」
愕然とするイェリナを落ち着かせるように、彼が囁いた。すると、消えてしまった眼鏡の幻影が再びうっすらと浮かび上がってきたではないか。
眼鏡さまの顔に浮かび上がる眼鏡は、
なんて摩訶不思議な眼鏡だろうか。何万本もの眼鏡を愛で眺めてきた前世でも、形状を自在に変える眼鏡だなんて、出会ったことはない。
眼鏡の幻覚は、キラキラ輝きながら形を変えてゆく。まるで、イェリナが好むフレームを探るように。
けれどイェリナは眼鏡なら、どんな形のフレームだって好きだ。素材だって
だからなのか。眼鏡の幻は形を定めることなく絶えず変化したまま。イェリナはそんな眼鏡をいつまでも見ていたくて、フレームの幻へ熱心な視線を送る。
「ああ……なんて素敵な眼鏡なの」
魔法だろうか、それとも奇跡か。あるいは眼鏡恋しさに、とうとう頭がおかしくなったのか。
そんなことがイェリナの頭の中をよぎったけれど、すぐにどうでもいいわ、と切り捨てた。
どれであっても関係ない。大事なことは、今、イェリナの眼に、あんなにも焦がれて追い求めてきた眼鏡が確かに視えるのだから。
幻覚に見惚れたイェリナの口から、ほぅ、とため息が漏れた。色気と飢えとをたまらなく感じて、イェリナは無意識に眼鏡さまの輪郭へと手を伸ばしていた。
「ああっ、なんて無礼な……」
「信じられない! メガ……メガミ? メガネ? だなんて奇妙な愛称で高貴なるあの方を呼ぶなんて」
「あの方が優しいからって、恥知らずな……!」
イェリナの大胆な行動に、周囲は途端にざわついた。特に高位貴族と思われる御令嬢たちから、非難めいた囁きがあちこちから上がる。
どうやら周囲の学生たちには、この素晴らしい眼鏡が見えていないらしい。まさに幻覚眼鏡。イェリナだけが視えている不思議で特別な眼鏡だ。
(わたしだけの眼鏡さま。一体、どなた?)
そこでようやく、イェリナは幻覚眼鏡ではなく、眼鏡の主人の顔を見た。
美しい金色の髪と神秘的で儚さが滲む黄緑色の目。端正な顔立ちと不遜な物言いをしても滲み出る気品と優しさ。襟元に飾られた獅子と王冠と星とが意匠された徽章。
彼の傍らには、燃えるような赤髪と深い緑色の目を持つ貴族子息がひとり。イェリナを警戒するように睨んでいる。
それだけで彼が格上の貴族子息——それも大公子息——であることがわかってしまった。
田舎のバーゼル男爵家に産まれたついた茶髪で、薄茶色の目をした地味でパッとしないイェリナが、気軽に話しかけていい相手じゃない。
ましてや腕を掴んで手を握るなど。彼の整った輪郭に手を伸ばすなど。いくらここが自由と平等を謳った学院であったとしても、許されることではない。
(まずい、前世の感覚のまま全力全開でやってしまった!)
どこか遠くへ放り出していた貴族の
すると、御令嬢たちの刺々しい視線と声を遮って、イェリナの盾になるように彼が動いた。
「君、大丈夫? 僕に、なんの用?」
幻覚眼鏡をかけたそのひとは、無礼なイェリナを邪険にするでもなく、さざめき立つ周囲を気にするでもなく、にこりと笑った。
儚く消えてしまいそうな幻覚眼鏡と相まって、彼の端正な顔には眼鏡がピタリとよく似合う。
完璧だ。イェリナは思った。完璧な眼鏡顔。
その完璧で麗しい顔が、彼の色気を引き出すような幻覚眼鏡をかけているのだから、たまらない。
もしも彼が色気のある、例えば細い
眼鏡の上フレームと顔の間にできる隙間から覗く上目遣いの目。ほんの少しズレた眼鏡とその角度、そして常ならレンズに守られている目が無防備に覗く様を想像して、イェリナは思わずゴクリと喉を鳴らした。
(今なら無礼ついでに、星祭りの
星祭りとは、夏がはじまる日を祝う祝祭だ。
星祭りは一週間後。一緒に踊ってくれる
だから正直なところ、進級はもう無理かな、だなんて諦めていた。けれど。
(諦めるのはまだ早いって、眼鏡の神様が導いてくれたんだわ!)
イェリナは興奮で背筋をゾクゾクと震わせながら、彼を捕まえている手に力を込めた。
ぎゅう、と強く握っても、彼は嫌な顔ひとつせずイェリナに微笑みを向けている。イェリナは彼の顔にかかる幻覚眼鏡をジッと見つめた。
この出会いを、奇跡を、そして眼鏡を、逃してなるものか。
たとえ幻覚であっても、眼鏡が最高に似合うこのひとを、逃してなるものか!
「一週間後に行われる星祭りのご予定はいかがですか? ぜひ、ダンスパートナーとして立候補させていただきたいのですが!」
「……それは、僕と? 僕への申し込み?」
「そうです。わたしには、あなたしかいないの!」
——眼鏡と単位的な意味で。
などと、思いはしたものの、イェリナの口は余計なことを言わずにいられた。
グッジョブ理性、とてもいい働きをありがとう。やらかす前に、もう少し早く復活して欲しかったけれど。
イェリナが心の内側でため息を吐いていると、高貴で寛大な彼が驚いたように眼を開いていた。
「わお、熱烈。ねえ、君、僕が誰なのか知っていて言ってる?」
「す、すみません……実は、存じ上げなくて」
大公子息様であることは、お声をかけてから気づいたのですが、と背中を丸めて正直に申告したイェリナに、セドリックが興味深そうに瞬いた。
「面白いね、君。名前は?」
「イェリナ・バーゼルと申します。どうぞイェリナとお呼びください」
「バーゼル……西方領区の男爵か。イェリナ、僕はセドリック・カーライル。セドリックでいいよ。よろしくね」
「は、はぁ……よろしく、とは?」
思わず首を
それなのにセドリックは、イェリナの手を握り返して微笑んでいる。
「うん? 星祭りのダンスパートナーの申し込みをしてくれたんでしょう? だから、よろしく」
「えっ。……え!?」
不遜にも男爵令嬢の身分で大公子息であるセドリックへダンスパートナーの申し込みをしておきながら、イェリナは自分の耳を疑った。
まさか、了承されるだなんて。ちょっと優しすぎない? 大丈夫なの? そう思ったのは、イェリナだけではなかった。
セドリックの傍らでずっと黙って険しい顔をしていた赤髪の学生が、首を横へと振りながらイェリナとセドリックの間に割り込んできたのだ。
「待て待て、待てよセドリック。俺は了承できないぞ、こんな田舎貴族の無知で恥知らずな女なんて」
「アドレー、僕の選択に口を挟むつもり?」
「ああ、大いに挟むね! 星祭りのパートナーはただ組めばいいってもんじゃない。わかってるだろ?」
「アドレーは僕に協力しないんだ?」
イェリナは突然はじまったセドリックとアドレーの口論を、固唾を呑んでひっそり見守ることにした。
眼鏡が絡まなければ、静かに口を閉じて空気になることは、友人のいないイェリナには些事である。
ふたりを見守っている中で、イェリナには見えてくるものがあった。どうやらセドリックの奔放すぎる優しさと、その優しさから来るトラブルを未然に防いでいるのはアドレーらしい。
「俺はお前の従者として、お前の格を
腕組みをして頑ななアドレーに、セドリックがどう返すのか。イェリナは他人事のように固唾を飲んで見守った。
「そっか。……困ったね、イェリナ。アドレーが認めてくれないと僕たちはダンスができないみたいだ」
「えっ。……えぇ? そんな、困ります! わたしは将来作るすべての眼鏡のために、今ここで単位を落とすわけにはいかないのです!」
不意打ちでセドリックから投げられた断りの言葉に、思わず本音と悲鳴が上がる。
いくら動揺したからって、私のお口、ちょっと素直すぎない? ちゃんと仕事して!
けれど幸いにもセドリックは、イェリナが漏らした無礼な本音に眉を
「うん、君は困るよね。でも僕は困らない」
数分前まで前向きだったのに、どうして
まるで猫みたいな気まぐれさ。けれど、ここで諦めるわけにはいかない。
進級のための単位もかかっているし、なにせ十七年ぶりに拝んだ眼鏡顔(幻覚だけど)なのだから。
逃がさない。絶対に、逃がさない。あの眼鏡は、わたしの眼鏡よ!
イェリナはセドリックの幻覚眼鏡に惑わされないよう、しっかり眼を閉じて考えた。雑念を振り切り頭を回す。
その時間、わずか数秒。イェリナは閉じていた眼を開けると、ぐるぐるぐると思考を回転させて弾き出した答えを口にした。
「……わかりました。まずはアドレー様に認められるよう、頑張ります!」
それを聞いたセドリックがニコリと笑う。優しく細められた目には、なにかを期待するような光がちらついている。
正解を引き当てたのだろうか。いえ、ダメよ。笑顔の裏で残酷な
イェリナは、ホッとしそうになる自分を胸の内でひっそり叱咤する。浮かびかけた期待を振り払うように首を横へ振り、特徴のない髪が少し乱れた。その髪をセドリックがそっと一房掬う。
一体、なにを? イェリナがポカンとしていると、セドリックは掬った髪に愛おしそうにくちづけた。
「うん、わかった。じゃあ、頑張って」
イェリナにかけられた声は、まぁるく優しいものだった。けれど、言葉の中身は辛辣だ。イェリナの予感が的中したのだ。
(え、頑張るの、わたしだけ? わたしだけ、かぁ……!)
セドリックは呆然とするイェリナの手をそっと外し、触れていた髪も手放すと、不機嫌なアドレーと共に背を向けた。二人は周囲の声も視線も気にならないようで、そのまま第三学年の講義室へと入ってゆく。
そうして残されたイェリナは、廊下の真ん中で大勢の淑女の悲鳴と
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