第34話 氷見梓


 パパは不倫をしたかもしれない。いや、したに違いない。パパがひどく酔っ払って帰って来たあの夜、シャツのカラーに口紅をこすったような跡があるのを私は見逃さなかった。薬指の指輪も外していた。当時中学生だった私にもそれらが意味することは分かった。しかしママはなにも言わなかった。そのどちらにも気がついていたはずなのに。


 その夜から、パパはおかしくなった。

 パパは私のお気に入りのワンピースを全部捨てた。そのワンピースは他でもなく、パパから貰ったものだった。全てパパが勤める会社のワンピースだった。そのブランドの広報を任された時、パパはとても張り切り、四六時中そのブランドのことばかり話していた。そんなパパがまるで穢らわしいものを触るかのような素振りで、乱暴にワンピースをゴミ袋に捨てた。

 それだけでもショックだったが、その日以来、私が「女の子らしい」格好をしようとすると、パパは不機嫌になった。そして男の子が着るような服が充てがわれるようになった。私が自分のお小遣いで自分が着たい服を買ってもすぐにクローゼットの奥深くにしまい込まれた。それらは全てパパに命じられるがままにママが実行したことだった。


 私は女の子であることを拒否されるようになった。

 服装だけに留まらず、言葉遣いや所作に「女の子らしさ」が垣間見えると、「男に媚を売るようなことをするな」とパパから苦言を言われた。苦言どころか感情を昂らせ罵られたことすらある。

 メイクなどは持ってのほかだった。こっそり買ったり友達から譲り受けるなどして揃えた僅かなメイク道具も見つかるなりすぐに捨てられた。


 それでも私はパパに反抗出来なかった。――怖かった。

 パパという人間が全く理解できなかった。家族を顧みず、自分の欲望のためだけに生きる男――そんな男に楯突いたら、何をされるか分からない、そう思った。ママの服従的な態度がますますパパに対する不審感を募らせた。ママは一度として、パパの不倫に言及しなかった。私の知らないところで、あるいは私が産まれるよりも前に、ママは暴力を振るわれていたのだろうか。なにかが壊れているはずなのにまるで正常であるかのように走り続ける「家庭」が不気味で仕方がなかった。息を潜めるしかなかった。私はこうして自分の中の「女の子らしさ」を奪われた。


 しかし私は泣き寝入りをしていた訳でなく、私なりに復讐の機会を伺っていた。

 パパの世代は幸か不幸かSNSに自分の情報を公開することに抵抗感がないようで、それを見るだけで、様々な情報が手に入った。

 まずパパの不倫相手はすぐに特定された。パパが変わってしまったあの日より少し前まで投稿を遡ると、しきりに言及される広告代理店の名前があった。パパのブランドのプロモーションを請け負っているようだった。そしてパパの投稿のひとつひとつにメインの担当者と思われる女性とのやり取りが散見された。ビジネス的なトーンは最低限保たれていたとはいえ、二人はひどく打ち解けた雰囲気だった。

 だがその一方で、あの日を境に二人のやり取りはひどくそっけないものへと変わっていた。それは明らかにあの夜、二人の間になにかがあったことを物語っていた。


 私はその女性の投稿を遡った。彼女の投稿は基本的に仕事絡みのものがほとんどだったが、プライベートな内容も多かった。投稿の内容から少なくとも娘がひとりいることが分かった。その娘の名前も分かった。

 私は彼女たち母娘おやこのツーショットを見つけた。あの夜の数日前の投稿だった。

 その写真を見た瞬間、私の胸は激しく動悸した。混乱し、目眩がした。娘は顔は隠されていたが首から下は無加工だった。彼女はワンピースを着ていた。――パパのブランドのワンピースだ。そしてそのワンピースは私も持っていた。


 あのワンピースを捨ててくれて良かった、そうでないと知らず知らずのうちに不倫相手の娘と同じ格好をしていた、と安堵する一方で、この女の子はきっと今も当然の顔をしてあのワンピースを着ているのだろう、と思うと激しい嫉妬が沸き起こった。

 

(なぜ私はワンピースを捨てられ、そして女の子であることを否定されなければならなかったのか?――なぜ私はパパになければならないのだろうか?)


 憎しみ、あるいは嫌悪――結局のところパパが私に向けている感情はそれだった。

 

(あの夜、なにが起こったのか?)


 その問いが私の頭の中を駆け巡る。

 ひとつ言えるのは、恐らくこの娘はパパにとって邪魔だった。だからその憎しみが同じ年頃の娘である私に向けられたに違いない。

 パパの不倫相手は娘の高校受験奮闘記と入学報告も投稿していた。彼女と私は同い歳だった。パパには私たちが重なって見えたのだろう。


 どろどろとした感情が私を支配した。自分勝手で理不尽なパパ、パパに対して何も抵抗しようとしない無気力なママ、そしてそもそもの原因であるパパの不倫相手、そのいずれに対しても感じたことがないほどの強い怒りと憎しみをなぜかその女の子に感じた。


(復讐してやる)


 私は、心にそう誓った。


(復讐してやる。――高井凛)

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