第30話 自分
私は思い出していた。
(あの人は、結局ワンピースしか見ていなかった)
母親の取引先の男だった。食事中、彼はちらちらと私の方に視線を送ってきた。私はずっとそれを自分自身に向けられた視線だと思っていた。娘となるかもしれない少女への視線、あるいは……。
しかし結局、その視線は私が着ていたワンピースに向けられたものだった。ワンピースは彼の勤める会社のブランドのものだった。彼はあの晩、それを脱ごうとした私を冷たく突き放した。まるでワンピースを着ていない私は無価値であるかのように。
(私のことは全然見てくれなかった)
思えば、あの時から私は私自身――私の内面というのだろうか――に目を向けてくれる相手を探していたのかもしれない。それが倒錯した世界に足を向けたひとつのきっかけなのかもしれない。
『見た目が女子高生だと、どうしても恋愛感情が沸かない』
颯太の言葉を私はふとした瞬間に思い出す。颯太が私に目を向ける時、そこに映るのは「私」ではなく所詮は「女子高生」なのだろうか。あの瞬間から私の時は止まっている。見た目だけではなく、心も女子高生のままだ。
だけど仮に私がまだ生きていて、大人になっていたら、颯太は私を受け入れてくれたのだろうか。その私は今の私となにが違うのだろうか。私はなにを手放し、なにを獲得しなければいけなかったのだろうか。成長に伴い変化するものがあった一方で持ち続けるべき普遍的な性質もあったはずだ。その核となる「私」になぜ誰も目を向けてくれないのだろうか?――しかし、もう私にはその答えを見つけることはできない。この世界は生きている人のための世界だ。
私は身体を起こし、颯太の顔を覗き込んだ。カーテンの隙間からわずかに差し込む街灯の明かりが颯太の顔をぼんやりと浮かび上がらせた。
――ねえ、今から湖、行かない?
「いいけど、なんで?」
颯太は眠たそうに目をこすった。
――別に?
私が素っ気なくそう答えると、颯太はじっと私の顔を覗き込んだ。
「……。いこっか。ちょっと待って。着替えてくる」
颯太はいそいそと布団から出ると、服を着替えはじめた。
颯太が石和湖にむけて山道にカブを走らせている。私はいつものようにその後ろに座っている。
――私って、なんだろう。
私はぽつりと呟いた。風が私の声をさらう。颯太は問い返すように「ん?」と相槌を打った。
――私ってなんのために今、存在するんだろう。
颯太は何も返事をしなかった。それは私の声が聞き取れなかったからではないだろう。
――私はなんで、この世界にいるの?
この世界は生きている人のための世界だ。
(見捨てないで。私を見捨てないで)
あの夜の私が心の中で叫んでいた。――いや、それは生前ずっと私の中にあった叫びだ。もし、私が今生きていてもその叫びは心の奥底でこだましているに違いない。
――颯太?
「なに?」
――私を見捨てないで。
「……?」
その時だ。カーブを曲がっていた颯太のバイクの正面にトラックが現れた。スピードが出ているようで、車線をはみ出している。普段であればぎりぎり避けられる距離だったのだろうが、ぼんやりしていた颯太の反応は遅れた。無理にハンドルを左に切ったので、バイクが大きく傾いた。バランスを崩し、颯太の身体は投げ出された。もんどり打って転がり、対向車線に出た。トラックには後続車があった。その車が目の前に飛び出してきた颯太に驚き、急ブレーキをかけた。鋭い音が辺りに響いた。しかし…………間に合わなかった――――――――。
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